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 美しい花

美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。
                         ~小林秀雄~



これは、小林秀雄の有名な言葉です。

僕が、この言葉の持つ意味の深さに気付いたのは、
ごく最近のことです。

僕らは、何かを見たり聴いたりして、
それを 『これ、いいなぁ』 と感じるとき、

そしてその感動を誰かに伝えたいと思ったとき、 
『〇〇の良さ(美しさ)って、△△なところなんだぜ。すげーだろ?』 
というように表現することはよくあることです。

その良さ(美しさ)を伝えるために、
様々な角度から 『それ』 を分析してみたり、 
『それ』 の素晴らしさを 
『誰々もこう言って褒めてるんだよ、実は。』 と、

自分の感動が自分だけが感じるものではないことを
一所懸命に説明してみせたりして、
何とか 『それ』 の素晴らしさを伝えようとします。

それはそれでとても大切な感性ですので、良いのですが、
この場合の 『〇〇の良さ(美しさ)』 というのは、
その良さ(美しさ)を見つけた自分によって
色づけされた 『良さ(美しさ)』 です。

言ってしまえば、 『自分というものを通して』 見た結果の、 
『個人の好み』 に分類される得るものです。

 
最近(でもないか)の、 
『俺的に〇〇ってイケてると思うけど、ちょーカッケ―よなぁ、いや、マジで。』 
という表現も、
もちろんこの 『個人の好み』 に分類されるものです。


小林秀雄は、
この 『個人の好み』 によって感じ取られる美しさというものは、
全く美しさと呼べるようなものではない、
と言っているのです。


芸術家というものは、僕は 
『一瞬で消えてしまう何かを、永遠の何かに置き換える行為ができる人』 
であると思っています。

自分が経験した何かは、
別の何かに置き換えなければ、それはそのまま消えてしまい、
消えてしまえばもう、永遠にその姿を言い尽くすことはできない。

だから、それを今 
『形あるものとして、永遠に言い尽くせるような何か』 
に置き換えなければならない。

そのような強迫的な切迫感に追い立てられ、表現する人を、
芸術家と呼ぶのではないか
と思うのです。

詩人であれば、その置き換える 『何か』 は 『言葉』 ですし、
音楽家であれば 『音楽』 であり、
画家であれば 『絵画』 です。

『一瞬で消えてしまう何かを、永遠の何かに置き換え』 る作業を通して
作られた芸術作品というものは、 
『作者の自己主張や自我』を表現したケチなものではなくて、

受け手がその対象を、
そのままの形で素晴らしいと感じられるように
表現し尽くしたものである筈です。
 
それは受け手の 『好み』 によって
その価値を判断できるような、そんな 『ちっぽけな』 ものではなく、

むしろそのような 『安い』 目で見られることを
拒絶するようなものでしょう。

本当に素晴らしい作品の前には、
自分が説明するようなウンチク程度のものなど必要とされないし、
最早どうでもいいとさえ思わせられるような感覚、

それが 『美しい』 ということなのであり、
芸術作品のみならず 『花』 に対してもそれは同じだと、
小林秀雄は言いたいのではないでしょうか。


だから、 『美しい花がある。』 で、 
『花の美しさという様なものはない。』 
ということなのです。

きっと。

このように、美に対する意識を変えてみるだけでも、
日常のひとつひとつの物事でさえも、
豊かになるような気がしてきます。





# by hiro-ito55 | 2011-01-05 21:04 | 美意識 | Comments(0)

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

年末から年始にかけて、ブログの更新がやや滞っています。

というのも、去年ブログで書いた文章を、
もう一度組み建て直して繋げる作業をずっとやっているものですから、
ついついブログの更新が後回しになってしまっています。

そうして改めて自分の文章を見直してみると、 
『ひでぇな...』 というのが率直な感想です。

もともと、
自分の頭の中の思考を整理する目的で始めたブログですので、
自分が読み返してみて躓くような文章では意味がないと思い、
今、再整理を試みています。

とりあえず、『認識論1~3』 と 
『地域や共同体について1~7』(未発表分も含む)
を再整理していますが、

文字数だけは 『いっちょまえ』 で、
Wordで数えたら20,000文字ぐらいに脹れあがっています。

最終的にはもうちょっと増えそうですが。

整理できたら、いずれ何らかの形で発表したいと思いますので、
よろしくお願いします。

それでは、今年も皆様にとって良い年でありますように。
あけましておめでとうございます_b0197735_20183422.jpg



# by hiro-ito55 | 2011-01-03 20:20 | 日常あれこれ | Comments(0)

自分らしさ

現代は、 『個性的』 な在り方を歓迎する風潮が強いですね。
しかし、 『アイデンティティー』 と 『個性』 は
恐らく違います。

アイデンティティーとは、
一般的には 『自分であることの確からしさ』 
といったように表現されますが、 
『これじゃぁ何のことやらさっぱり』 という方も多いと思います。

アイデンティティーとは、僕なりに噛み砕いて表現すると、 
『自分の歴史そのもの』 ではないかと思います。

例えば、小学生の時に好きだったアニメは何で、
嫌いな食べ物はこれこれで、
サッカーよりも野球が得意で、練習も好きだった、とか、

中学生になると兄貴の制服のおさがりが嫌で、
いつも不平を言っていた時期があった、とか、

頭の形が悪く坊主頭が嫌で、
野球部なのに一人だけ髪の毛を伸ばしていた、とか、

高校生になると、気の強い女性に惹かれるようになった、とか、

車の運転はマニュアル車の方に興味を持った、とか、

階段を上るときは、右足からじゃないと落ち着かなかった、

などその他諸々......。


そういった、生まれてから現在まで、
記憶にあるものもないものも含めて全ての 『自分の軌跡』 を、
その人の 『アイデンティティー』 と呼ぶのです。

ですから、正に自分史そのものと言えるでしょう。


これに対し 『個性』 とは、
例えば、 
『初対面の人にも、最初から明るく接するのが自分らしいから、
これが本当の自分らしい自分なんだ。』 とか、

『俺は、相手が上司だろうが同僚だろうが、
忌憚のない意見を言えるところに、自分らしさがある。』 
と思い立ち、

人生のあらゆる場面で、
そんな姿の自分を顕示しようとするようなことです。

これは、自分のある一側面、
つまり、アイデンティティーの 『ある瞬間』 を強引に切り取って、
今の(或いはこれからの)自分に無理やり当て嵌める行為です。

自分の歴史の中で 『瞬間的に現れたある一側面』 を
自分の 『全体像』 に引き伸ばして、
自分を打ち立てていくわけですから、

そのような振る舞いはどこか不自然で、
いつも 『それに合わない』 自分と葛藤することになります。

しかし、それも当然です。
圧倒的な歴史を有する自分の軌跡に対して、
このような 『個性』 には 『歴史』 がないのですから。

歴史がないということは、 
『無時間的である』 と言ってもよいかもしれませんが、
昨今声高に叫ばれる個性とよばれるものの正体は、
大方そんな 『不自然にデフォルメされた自分』 かもしれません。

しかし、それまでの歴史がないからこそ、
そのようにデフォルメされた自分に、
何か生まれ変わったような気分を感じるのかもしれません。

でも、本質的には 『無時間的な自分の断面』 ですから、
個性を打ち立てるという強引な自己顕示は、
ほとんどの場合、行き詰まることでしょう。


個性というものが、これほど強調される社会において、
例えば70~80年代のヒットソングを特集したテレビ番組や、
復刻版の商品が、なぜ一時的なブームとして流行ることがあるのか。

そこに普遍的価値があるからではありません。

自分のアイデンティティーの 『ある時期』 を、
一時的にもう一度確認することができるからです。
 
その歌や商品を聴いたり、味わったり、購入したりしたときの
自分の感性や、情景や、匂いや、味などが、
今の自分に鮮やかに甦るからです。


個性的に生きていると思っている人にとっても、
自分の軌跡を、今の自分と切り離して生きていくことはできません。

軌跡の中には今の自分にさえ、
未だ意味の解らない経験も含まれている筈ですが、

それを含めた自分の軌跡が、 『自分らしさそのもの』 なのです。

それをもし 『個性』 と呼ぶならば、
それこそが個性と呼ぶに相応しいものでしょう。



と、まぁ今回もなかなか手前勝手な解釈ですが、
自分のことをどう定義しようが、それはその人の自由だと思っています。

今回も、あくまで僕の個人的な意見であり、 
『俺は個性的だ』 と自信を持って生きている誰かの生き方を
否定するつもりも、誰かを傷つけるつもりもありませんので、
念のため、それだけは最後に付け加えておきます。





# by hiro-ito55 | 2010-12-23 22:28 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります。


by いとちゅー