カテゴリ:医療・福祉・対人支援( 84 )

 共生機能集団の補完

先日、 『ロジックの飛躍と適正化』 というタイトルで記事を書きましたが、
酒井穣さんのブログ 『NED-WLT』 でも、
コミュニティーについての大変興味深い記事を書いておられるので、
興味のある方は一度覗いてみてることをお勧めします。

データ的な裏付けがきちっとなされているので、説得力があります。

タイトルは 『コミュニティーが見直されつつある背景』 です
(僕の記事の右下の 『エキサイトブログ』 のところにもリンクを張ってあるので、
そこからジャンプできます。)。



その記事から、一部抜粋させていただきます。

日本では、少子高齢化によって地域コミュニティーの重要性が高まっているにも関わらず、そもそも日本人は他人と付き合いたがらない傾向があるとすれば、「なんらかのルールを自発的に共有しようとする人々の集まり」である地域コミュニティーを活性化していくのは相当難しいチャレンジと言えそうです。
コミュニティーが持っている「助け合いの精神(互酬性)」は利用したいものの、コミュニティーへの参加自体に気が乗らないという状態なのです。このギャップ(問題)を埋めようとしているのが、どうやら各種のNPO(非営利団体)のようです。 


(中略)

NPO法人も立派なコミュニティーの一種なので「ひたすら、サービスを行うコミュニティー」と「ひたすら、サービスを受ける孤立した個人」に分断されているという部分は、相当気になります



僕も現在、
地域や共同体についての考察を纏めている最中ですが、
下線部分の酒井氏の 『役割の分断』 に対する違和感は、
僕も全くの同感です。

介護保険制度を利用した各種在宅サービスも、
実はこれと同じで、 
『サービス提供者』 と 『サービス利用者』 という、 
『役割を固定化されたもの』 であると思うからです。

これについて、まだ書きかけの文章ですが、僕の考察を載せておきます。



現在、老健の抱えている大きな問題のひとつに、 
『入所している期間の長い利用者が少なからずいる』 
という問題があります。

ご存知の通り、老健の役割は 『利用者の在宅復帰の支援』 にあり、
そのために介護や医療などの様々なサービスを提供するもので、

利用者の早期の在宅復帰を実現することが望ましいとされています。

しかし、現実には、
家族が利用者を自宅に引き取ることを渋っていたり、
利用者が自宅に帰っても、妻(夫)も要介護者となって
他施設に入所中であるため、
一人暮らしをせざるを得なかったりするケースも存在します。

つまり、入所者の在宅復帰を目指すはいいが、
その 『受け皿』 がしっかりと機能しえないケースが、
少なからずあるということです。

これは、共同体や家族が、 
『共生機能集団』 としてはもはや機能していない、

もしくは機能するには能力的に不足し、
受け皿としては大きな負担となっているという事実を、
少なからず示しているのではないでしょうか。

そして、
このような 『長期入所』 の可能性を持った 『予備軍』 が、
現在の長期入所者よりも遥かに多いであろうことは、
老健に 『入所待ち』 をする人が全国に相当数いる現状を見ても、
容易に推測できます。


この問題に対して国は、
施設利用者の在宅復帰の推進を、更に推し進めていく方針で、

そのために介護保険下での在宅サービスの充実が、
急務であるとしています。

つまり、
共生機能集団である共同体や家族の能力的な不足を、
介護保険サービスで補おうという方針であるのですが、

現状はそれほど効果は上がっていないと言えるでしょう。 

そうでなければ、
老人の 『孤独死』 ということが、
昨今これほど多く話題に上ることもない筈です。


その効果が上がらない原因のひとつに、
『介護保険サービスを提供する者は、
介護保険サービス以外のサービスを提供してはならない』
というルールの存在があります。

これは、
『定められた時間通りにきっちり自分のサービスのみを提供する』 
ことを、厳密に規定することであり、

本来、人情的に 『してあげたいこと』 も 『認めてあげたいこと』 も、
提供したりされたりすることができないことを意味します。

もし、うっかりしてしまえば
それは 『法律違反』 となり、厳罰に処せられます。

これは、 『役割の固定』 のためのルールなのです。

このルールに則る限り、
サービス提供者は、あくまで提供者としての役割を、
利用者は、あくまでサービスを提供される者としての役割を、
それぞれ外れることはできません。

介護保険が
『利用者とサービス提供者』 との 『契約』 に基づくものである以上、
これはいたしかたのないことなのかもしれませんが、 

『贈与の往還』 という共同体の基本コンセプトを考えたとき、
現在の介護保険下での在宅サービスでは、
質的に、共同体を補完するための機能を十分に発揮することは、
今後もできないでしょう。


もはや、介護保険サービスの枠内で
地域を考える段階ではなくなっているということは、
介護・医療関係者の間では気付かれつつありますが、

介護保険も
共同体や家族の共生機能集団の不足を補う方法のひとつにすぎない
と捉え直した上で、

それと他の 『贈与』  をいかに組み合わせていけるか、
という 『もう一段大きな枠組み』 で
考えていく必要があるのではないでしょうか。

そうでなければ、
介護保険サービスのみに頼らなくてはならない高齢者の 『孤独』 は、
ますます深まっていくように思われるのです。




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by hiro-ito55 | 2011-01-11 20:39 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

 『ロジックの飛躍』 と 『適正化』

『少子化問題』 『高齢化問題』 『超高齢化社会』。
こういった言葉を、僕らはほぼ毎日のように目にしたり、耳にしたりします。
僕らの社会の構造が変化してきている証拠ですね。

しかし、そもそも 『少子化』 や 『高齢化』 というものは、 
『何を基準に』 したものであるのか、
という問いは見落とされがちです。

いや、見落とされがちというよりは、
ほとんど無視されてこれらの事柄が論じられている
というのが、現状ではないでしょうか。

僕はここにロジックの飛躍があるように思えてなりません。


例えば、

『まだまだ作業療法士の数が足りないので、養成校をどんどん増やしましょう』

という方針は、

『そもそも作業療法士になりたいと思っている人が現状で何人存在するのか』
『存在するとして、今後そのような人は増え続けていくのか』

といった考察が抜けているとしたら問題ですよね。


実際、養成校の中には
既に定員割れをおこしているところもありますし、
学生の募集を停止している養成校もあります。


『少子化』 問題や 『高齢化』 問題もこれと同じで、

『そもそも高齢化(少子化)とは、
何と比較してどれだけの人数に達したら
高齢化(少子化)していると言えるのか』

『高齢化(少子化)しているとして、
今後それは何を基準にして適正化を目指すのか』

といった筋道が見えてこないということです。

いや、具体的には
65歳以上の人口が総人口の21%以上に達したら 
『超高齢社会』 と呼ぶのだ、
という人がいるかもしれませんが、

では、その 『超高齢社会』 の21%という数字は 
『何を基準にして』 そう設定しているのか、
という問いの答には成り得ません。

この 『問い』 つまり 
『何を基準にしているのか』 という考察がスッポリ抜けてしまうと、

例えば、
『少子化対策として、出産を奨励する政策を立案施行したとしても、
産科や保育所が不足し』 たり、

『高齢化対策として施設数を増やしたが、
思った以上に高齢者が集まらない』 

という結果を招くということです。

そのような結果は、明らかに失敗です。


もちろん、この結果にはバラつき、
つまり地域差というものがありますが、
僕らが 『少子化』 や 『高齢化』 というものを考えるとき、
その言葉をそのまま鵜呑みにして考察していくことは、
少し危険であるように思えるのです。

何故なら、 『少子化』 『高齢化』 という言葉自体に、
それを 『問題である』 と捉える意識が、
既に刷り込まれていると思えるからです。

問題に対しては適正に処理されなければならない
という思考が働きます。

しかし、その適正状態がどのような状態なのか分からないのであれば、
そもそもその問いの立て方自体が問題であるのです。

もし、僕らの社会が世間で言うところの 
『少子化』 や 『高齢化』 といった 
『異常な状態』 に向かっているのではなく、

むしろ今までの出生率の高さや、
高齢者人口の比率の低さの方が 
『異常』 であったと捉えることは、
できないのでしょうか。

僕らの社会が、どこかで均衡な人口構成状態に戻り、
それがその社会の適正な構成状態であり、
現在はそれに向かう移行期である、
と考えることは不可能なのでしょうか。

それを社会の回帰的な成り行きであると考えれば、
今までのそれと 『相対的に比較』 して、

現在の社会が、
僕らの目に 『少子化し、高齢化しているように映る』 だけではないか
とも思えてくるのです。

もしそうであるならば、
出生率を上げて高齢人口の相対的減少を目指すのではなく、
高齢者が増えた(と見える)社会でも、
混乱なく移行していける社会を目指すべきではないのか。

そして、『少子化』 や 『高齢化』 を論ずるときには、
そのような 『問い』 の立て直しを図るべきなのではないのか
と思うのです。

仮に、そのような根本的な問の立て直しがあれば、
人口構成変化の流れに逆らうような対策は減少し、
ロジックの飛躍による失敗は避けられるように思えるのです。





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by hiro-ito55 | 2011-01-09 21:54 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

「科学的根拠」と「ある母集団の中での傾向とその分析」 ~医療人の節度~


科学的な根拠というのは、
「同じ条件下或いは、同じ状況下の下では必ず同じ答えが繰り返し導き出せる」
ということです。

つまり、反証が可能ということです。

反証が可能ということは必ず計量化できるということであり、
科学では、計量化できるものだけが扱えることを意味します。

それが科学の守備範囲なのです。

更に付け加えれば、
計量化できるということは、
同じ条件(状況)がいつでも再現可能であるということですので、

それができないものは全て、
真に科学的であるとは言えないことになります。


例えば、
脳血管障害を持つ70歳以上の男性100人を対象に、HDS-Rを実施したとします。

その対象者の中から、同じ15点の人たちをサムプルとして抽出し、
更にその中から記銘力に減点がある人の統計を取り、
そこから更に条件を絞り込んでいって、
共通点やその傾向を分析したとします。

ここから取り出されたデータは、
どんなに条件を細分化してバラバラにして吟味したところで、
真に科学的とは言えません。

これは、「科学的データ」 というよりも、
むしろ 「ある母集団の中での傾向とその分析」 
として扱われるべきものなのです。

この類のデータが科学的ではないという理由のひとつに、
共通の条件を絞り込む過程で 『再現不可能な項目の「漏れ」』 が、
必ず存在することが挙げられます。

再現不可能な項目の漏れは、
絞り込まれた条件の中にまだ埋もれているかもしれないし、

意図的ではなかったにしろ、
項目から選択されずに消去されていったものの中にあったのかもしれません。
 

僕の言う、「再現が不可能な項目」 というのは

例えば、検査の日はたまたま寝不足であったとか、
そのおかげで集中力が持続しなかったり、
はたまた検査をする人間が運悪く自分の嫌いな人間で、
そのせいで検査中に急に眠気が襲ってきてしまったとか、
ただ単にその日は気分的にボーっとしていたり

といったようなことです。

相手は 「人間」 ですから、
検査の日に限ってこのようなイレギュラーな条件が
追加され得ることは当然考えられますし、

それが検査に影響を与える可能性を排除することはできません。


このことは日常的には僕らも経験していることです。

例えば僕らが毎日同じ時間に出勤し、先日と同じ仕事をしても、
いつも同じ作業効率で同じ結果が出せるとは限りません。

何故かといえば、
天気とか気温とか、
今日は挨拶した同僚の返事がイマイチだったとか、
身体の疲れ具合が酷いだとかといった、

「変数的な諸条件」 が仕事に影響を与えているからです。

そして、それらの変数的な諸条件は無限に存在し、
それをひとつひとつピックアップして
因果関係を精査するという作業を完遂させることは、まず不可能です。

このような、再現不可能な変数が多数存在するのは、
ひとつには人間が 「心」 や 「精神」 といった
やっかいなものを抱えているためです。

心や精神は計量化することはできません。

何故なら心や精神の世界では、物理的な法則は通用しないからです。

例えば、想像の中では僕らは翼が無くとも空だって飛ぶことができます。

マッハ10で飛べます。
仕事中でも。

このように、物理的な法則が通用しない世界が確かにあり、
それを 「込み」 で人間というものが存在するという事実を考えると、

そこに 「科学的(と信じている)根拠」 をあまり拡大適用しないほうがよい
という在り方があることに気づきます。

(それを認めるか認めないかが、
 僕が医療人として相手を信用するかしないかの
 ひとつのバロメーターともなるのですが...)

しかし、科学的な根拠の適用は
人間の細胞や器官に対しては有効かもしれません。

例えば、上腕二頭筋に電気刺激を与え、
そこから得られる出力の統計を取り、
その分析をするといったようなことです。

この場合、筋肉の質・量と、
加えた電気刺激の違いによって出力される力の大きさとの間に、
相関関係を見出すことができるかもしれません。

このような人間の組織レベルの場合とは異なり、前述のような
計量化できないものが含まれている「人間全体として」 問題をみる場合は、

「ある母集団の中での傾向と分析」
として扱われるべきものなのです。

特に僕らのような維持期の対象者を治療する分野では、
「〇〇先生の科学的な△△療法」 が上手く適用できないことが多々あります。

それは、上肢や下肢という部分だけでなく、
人間全体或いは、
付随する住環境や家族関係などといった
変数も含めて診ていかなければならないことが、多くなるからです。

(加えて、セラピストとしての腕が悪いという僕の「変数」も存在しますから)

そこには、科学的な根拠以外の、別の物差しが必要なのです。

科学を 「秤」 に例えるとするなら、
秤で測れるのは重さのみです。

「光」 や 「匂い」 や 「質感」 は秤では測れません。

別の計器が必要です。

それでも光や匂いや質感を秤で測ろうとするなら、
その行為は科学に対する冒涜となります。

それを弁えることが、
医療人としての節度ある態度だと思いますし、

そのような俯瞰的な立ち位置を持った 「大人の医療人」 が、
これからは求められていくでしょう。
きっと。
(非科学的希望的観測)




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by hiro-ito55 | 2010-08-26 20:39 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

脳死や人の死について思うこと

最初の記事にしては内容が重いですが、
我々医療に携わる者にとって、
「死」 は避けては通れないテーマですので、載せておきます。

一応最初に断っておきますが、
僕は決して科学技術を否定しているわけではありません。

あるイデオロギーへの 「偏重」 や 「一元的な考え」
が嫌いなだけです。

そう思って読んでください。


僕が 「脳死」 に違和感を持つのは、
一言でいってしまえば 
『「脳の死」という一点で、人の死を規定してしまって良いものなのか』
ということです。

また、倫理的観点から言えば、
臓器提供されるために脳死を待つということは、

他人の死を待つということですから、
それは仏教における 「迷い」 に当たるのではないか
という意見も一部であるようです。

そもそも、死は生の一部であるという捉え方が、
長い間日本人には一般的だった
という話を聞いたことがあります。

ですから、長い間、「死」 自体
或いは死を含んだ 「生」 までもが
「割り切れないもの」 
として捉えられてきたのではないでしょうか。

その証拠に例えば、死をゆっくりと受け入れていくために、
「初七日」 や 「四十九日」 があり、

そういった一種の割り切れなさというか、
智慧みたいなものが、
死という在り方自体に含まれていたと想像できます。


そこで、今回のテーマですが、

脳死を人の死とすることは、
この割り切れない死と生の境界を、
科学的観点という 「線」 で無理やり明確化し、

我々が無意識的にも抱いている、
死を生の一部と捉える割り切れなさを、
無理やり割り切らせようとする行為
であるように、少なくとも僕には感じられてしまいます。

更に、「死」 を科学的観点という一点で規定してしまうことで、
ちょうど合わせ鏡のように 
「生」 も同じ観点で規定されてしまうのではないか、
と思えてきます。

つまり、科学的に 「死」 を規定すれば、
「生」 も科学的に計量化されてしまう

この問題は、そういう危険性を含んでいるように思います。

むしろ、こっちの方が恐ろしいかもしれません。

「いかに生きるか」 「いかに死と向き合うか」
といった個人個人の価値観に還元される
そういう性質のものに、

科学的に、或いは一元的に線を引いてしまうことは、
非常に危険な風潮のように思われるのです。


そういえば、
「心身一如観」を採用してきたのも日本人ですが、

日本語の中には、「身にしみて」 
或いは 「他人の身になって」 という表現があります。

これは 「全体的な存在になって思う」 という在り方であって、
「他人の身になって」 の 「身」 というのは、
単に英語で表現される 「Body」 のことではありません。

この 「全体的なものになって思う」 という心身一如観のあり方にも、
「心と身体」 という二元論からの観点では説明できない、
割り切れないものが多分に含まれていますね。


さて、少し話は逸れましたが、
極論を言ってしまえば、

現代において死や病とは 「事故」 であり、
「科学の敵」 です。

これは、死や病を戦うべき対象と規定し、

医療とは、
死や病という 「科学の敵」 に対し行なう 「戦争」 である
というような捉え方です。

そして、戦うべき対象と規定すれば、
次に、これをいかに、どのようにして克服するべきか
に主眼が置かれます。

これは何も医者の側に限ったことではなく、
それと向き合う患者さんも
死や病と戦うことを強制されていますし、

それを半ば当然のこととして受け入れているのが現代です。
(受け入れざるを得ないのかもしれませんが)

でも、本当に死や病とは敵であり、
単に戦う対象であるべきものなのでしょうか。

ここに脳死判定の是非も含めて、
人間の生死という問題を考えるとき、

そこに科学技術が深く関わっていることが、
この問題の根底を成しているように思われます。


科学技術は人間の役に立つために存在するものですから、
M.Heidegger的な表現を用いれば、

臓器までも 「人間に役立つ部品である」 
と捉える観点になっても不思議ではありません。

しかし、
臓器が 「役に立つという在り方」 においてのみ顕わになっていれば、

やがて役に立つこと以外の可能性や姿を追い払って
忘却せしめることに繋がります。

つまり、脳死を人の死と定めることは、
人の臓器も 「何かの役に立つ」 という点でしか注目されなくなる
ということに繋がりかねないということです。

この観点においては、当然人間の体は人間の体として、
死は死として守られなくなります。

そしてそれだけに留まらず、
人間がこの科学技術の持つ 「役に立つという在り方の連鎖」 
に加担していくことは、

更に 「何かの役に立つ」 という
技術の本質を手助けするように次々と用立てられていくのです。

一元論の本質は、
そのように連鎖的に関わるよう構造化されているのです。

これを、Heideggerは 「Gestellenの連鎖」 と表現しました。


科学的な観点からのみで人の死を規定するのは、
間違いなくGestellenの連鎖の中にいるからです。

そこに、僕はこの問題の根っこを感じます。


これに抵抗を感じるのは、
あらゆるものとの距離感や、融合の軸を大事にしてきた、
日本人としての抵抗感かもしれません。

また現代においては、この流れとは逆に、
「尊厳死」 ということが盛んに言われているのも事実です。

かつては 「死は尊厳である」 ということは
当たり前であったのかもしれませんが、

尊厳死が取り沙汰される現代は、
死は死として守られ、
死が死としてありうる場が開かれていないのかもしれません。 

むしろ死や病は敵であり、戦う対象である
というネガティヴな視点から見ているため、

守るというよりも、
克服するべき、或いは打ち勝つべき対象
として捉えてしまいがちなのではないでしょうか。

しかし、このように
生と死を二項対立的に捉える考え方は、
元々日本人には、あまり馴染まないように思うのですが
如何でしょう。

 
以上、内容の薄いまま、
脳死や人の死について思うことを
素人的につらつらと書いてみましたが、

要するに人の生や死というものについて、
もっと時間をかけて考えてもいいんじゃないかということです。

人間は 「心」 という厄介なものを抱えていますから、
それは哲学的、或いは宗教的になってしまうかもしれません。

ですが、それでいいと思います。

いつか、
科学とそれらが上手く統合するような観点が生まれれば。

というか、そう願ってます。




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by hiro-ito55 | 2010-08-09 18:20 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー
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