カテゴリ:医療・福祉・対人支援( 84 )

リハビリに取り組む価値


最期のときまで、なんとか自宅で生活してみたいと頑張る人がいる。
ほんとうは、娘家族の許で同居すれば、いろいろと援助してもらえるし、
自分の毎日はもっと楽になるはず。

けれどその人は、住み慣れた我が家での生活を選んだ。
死に別れた妻との思い出が、いっぱい詰まった終の棲家だ。

40年の暮らしの中で、子供が生まれ、育ち、ずいぶん賑やかなときもあった。
そしてまた、二人きりになってみると、そこには細やかで静かな生活だけが待っていた。

毎朝同じ時間に起き、一緒に食事をして、
妻が買い物に出掛けている間、自分はテレビや新聞を見て過ごす。

夜になればまた一緒に食事をして、
妻の洗い物や洗濯が終わるのを待ち、一緒に晩酌をして寝床につく。

そんな、当たり前の生活。
細やかでちっぽけだが、それだけで満ち足りていた。


若い頃から、妻にはずいぶんと苦労をさせたが、
今、唯一の心残りは、葬儀に出席しなかったこと。

葬儀の日は、頑として家から一歩も出なかった。
その残酷な現実を、正視することができなかった。
棺の中に眠る妻の顔を見ることが、どうしてもできなかった。


今、いつも毎朝6時に起き、遺影の前で妻に静かに語りかけている。
「今日も一日始まるよ。ありがとう。」

そして、デイサービスやリハビリに、一所懸命取り組む一日が始まる。
妻の墓参りに、欠かさず行けるように...。

何だかんだ言っても、自分自身のためには違いない。
でももし、妻のためでもあるならば、
ここでの毎日の意味もまた、違ったものに変わるかもしれない。
だからそれが、自主トレやリハビリを頑張りたい理由であり、目標でもある。

その頑張りは、
人生全体からみれば、ほんの小さな出来事になるのかもしれない。

けれど、一緒に過ごす僅かな時間でも、
一生忘れることのできない思い出ができるように、
そこに、どういう意味や価値を見出すことができるかで、その価値が変わることがある。

たかがリハビリ。されどリハビリ。
でもその価値や意味は、その人自身が知っているから尊いのだと...。

それは、その人自身が大切にできるもの。
その人自身が育むもの。
そこに、掛けがえのない物語がある。


b0197735_2042289.jpg









[PR]
by hiro-ito55 | 2016-02-05 20:06 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

映画「風は生きよという」in尾張旭


僕の担当している利用者さんが、この度NPO法人を立ち上げます。
その立ち上げに際し、主催者として映画上映を行うことになりました。

呼吸器を常時装着している方たちが、生活者としてどのように生き、悩み、
そして関わる人たちとの触れ合いの中で、どのように暮らしているのかを追った、
ドキュメンタリー映画です。


障害を負った方たちは、病院を退院して自宅で生活するようになっても、
障害者や療養者としての生活が待っています。

しかしそうではなく、彼らが地域で生きる人、つまり生活者としての視点で、
何を感じ、何に価値を見出しているのかを知ることは困難です。

だから、人間として、本来は当たり前に営むことのできる生活を、
彼らはどのように感じて生きているのか、
当事者の目線から、それらの少しでも理解することができたなら...、
この映画の上映を前に、僕はそう思っています。





既に他県では上映されているところもあるようですが、
愛知県では今回が初上映となります。

当日は、僕もボランティアとして関わらせて頂きます。
愛知県、もしくはその近隣にいらっしゃる方たちに、ぜひ足を運んで頂ければ幸いです。

上映日時や会場、その他詳しいことは下記までお問い合わせ下さい。
                ⇓⇓⇓
『映画「風は生きよという」in尾張旭 ご案内トップページ』



b0197735_20594286.jpg










[PR]
by hiro-ito55 | 2016-01-20 21:03 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

互いにマネジメントできる範囲内であること


回復期の病院から退院され、在宅でのサポートが開始された

身体的な回復がまだまだ見込める段階であるが、動作全般に介助が必要であったため、
寝返りから移乗までの基本動作能力の向上を図ること、
毎日の介助を担うご家族へのアドバイス、入浴介助を担当する看護師との連携など、
課題は多い。

在宅でリハや看護サービスが開始される場合、
ご家族が介助のやり方に不安や混乱を抱えているケースも珍しくなく、
この方の場合も、ご家族から具体的な介護の進め方について戸惑う気持ちが感じられた。

そのため、ご家族の負担を軽減できるよう、
退院後早期からデイサービスやデイケアなど、
社会資源活用に向けたご家族への助言も、同時進行の形で進められた。

しかし、
ご家族の混乱が僕らの予想以上であることが、段々と分かってきた。

具体的にどうしてよいか分からないことがあると、
訪問のたびに丁寧に説明することで一時は納得されるが、
翌訪問日には「実は...、」と、逆の見解を示されることもしばしば...。

或いは、寝返りから移乗まで、基本的な介助の方法について助言したことが、
その後全く実行されていないことも、度々見受けられるようになってきた。

実は、ご家族が直面していたのは、「分からないことが分からない」という状況で、
これが長引くと、在宅介護継続は難しくなる。

今のところ、在宅介護に対する意欲は高いため、
混乱や疲弊によって、限界を迎える事態だけは避けたい。

だから、早めのデイサービスやデイケアの利用を、と考えていたけれど、
たとえ寝たきりになったとしても構わないから、
自宅内で一日を過ごさせてあげたいという思いが、一番強いことも分かってきた。

その思いの根拠は、どうやら入院中の出来事に由来していたようだ。
午前と午後のリハビリ、医療的処置、清拭や入浴介助など、
病院では、一日に何人ものスタッフと関わり、過ごされてきた。

しかし、家族以外の、よく知らない多くの人と関わるという状況が、
本人の不安を助長させ、精神的に不安定な状態を作り出してしまった。

帰宅願望やせん妄、暴言や暴力、激しい感情の入れ替わり...。
退院と同時に、それらの症状はパッタリと無くなり、表情もとても穏やかになったが、
ご家族にとっては、その時の様子が非常にショックだった。

退院後は他人が関わることに対する不安や、拒絶する気持ちだけが残り、
デイサービスなど、不特定多数の人が出入りする場に行くことで、
再びパニックにならないか、非常に心配されていたのだ。


とも倒れを防ぐため、ご家族と本人が離れて過ごす時間も必要だとは思う。
ショートステイや一時入院など、今後予想されるであろう事態に備えて、
本人の抵抗を少しでも和らげるため、今のうちに外出慣れをしておく必要も、
あるのではないかとも思う。

そう考えれば、通所系サービスを利用しながら、支援を進めることは重要だと思う。

しかし、在宅支援は、
ご家族や本人も互いにマネジメントできる範囲内で、進められなければ続かない。

もし今後も、デイサービスなど自宅以外で過ごす時間を作ることが、
必ずしも彼らに、良い影響を齎すとは言えないと判断された場合、
今の生活パターンの範囲内で、最良の在り方を見つけていかなければならない。

何れにしろ、彼らの、分からないことが分からないという状況を、
まずは解消していかなければならない。

寝返り、起床、立ち上がり、移乗、車いす座位のポジショニングなど、
具体的に混乱しているものを、訪問の度にひとつひとつ確認し、
自信が持てるよう、根気よく伝えていくしかない。

そして、その上で見えてくる可能性があるのなら、それを待つしかない。

その人にとって、そしてご家族にとって、
最善であると言える在宅生活継続に向けての、具体的な助言や支援の形は...。

色んなことを考えさせられる。


b0197735_19502231.jpg







[PR]
by hiro-ito55 | 2015-12-15 19:51 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

受け入れの少なさを実感


訪問で外を廻っていると、デイサービスの送迎車をよく見かける。
僕の住む地域でも、デイサービスを手掛ける所が増えてきているようだ。
中には、ショートステイの利用が可能なところもある。

自宅に閉じこもりがちな利用者さんたちが、
機能維持や社会交流の場としてデイを利用する。

また、介護を担う家族のレスパイトの時間を確保するために、
デイやショートを利用する場合だってある。

でも、経鼻栄養の患者さんを受け入れてくれるところが、実は非常に少ない。

現在、痰の吸引を必要としている利用者さんが、何名かいらっしゃる。
呼吸リハをした後には、毎回ご家族に痰の吸引をお願いしている。

どの家庭も、デイサービスやショートステイの利用を望まれているが、
今のところ、受け入れに手を挙げてくれるところは見つかっていない。

痰吸引器を常備していても、実際のところは、
誤嚥や窒息などの事故を恐れて断られているというのが、現状なのかもしれない。


そもそも、
経鼻栄養が適用になる患者さんは、嚥下機能が著しく低下しているため、
痰や唾液などでも誤嚥しやすく、そのために一日に何度も吸引が必要となる。

ご家族は、退院前、或いは退院時に吸引器の使い方を教わるが、
経鼻栄養の患者さんは、介護度が重度である場合も多く、
ヘルパーや訪問看護をフルに利用したとしても、在宅での介護負担は大きい。

しかし、こういったケースでは、
在宅生活を支える介護者の、レスパイト確保が重要となるにも拘らず、
吸引を適時行える体制にないという理由で、受け入れを断られてしまう。


確かに、
運動器リハを売りにしたリハビリ型や、のんびりと半日を過ごすための民家型、
集団でのイベントや催し物で賑やかに過ごせる大規模型など、
一見すると、デイサービスも利用者の多様なニーズに応えているかのように見える。

しかし、痰吸引のような処置が適時必要となる利用者さんとなると、
それに対応してくれる所を探すのは難しい。

経鼻栄養の患者さんの、在宅での絶対数は少ないといっても、
ニーズがある以上、受け入れてくれる事業所もそれなりにあってほしいと思う。


b0197735_2114435.jpg









[PR]
by hiro-ito55 | 2015-11-13 21:16 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

伝わること


重度の認知症を抱え、ベッド上で寝たきりの患者さんがいる。
一日中ベッドの上で過ごし毎日が過ぎてゆくが、
妻や娘や孫に囲まれ、家の中はいつもとても賑やか。

ベッド脇には、結婚式の写真が飾られている。
妻はいつも、夫と一緒に行った旅行の思い出話や、新婚時代の幸せだった日々の話をされ、
夫も時々、思い出したように微笑する。

今は一人で起き上がることもできないが、
妻や家族にとっては、今でも大切な夫であることに変わりはないことが、
訪問させて頂くたびに、僕にもしっかりと伝わってくる。

妻や娘にとっての大きな疑問は、自分たちの話が夫には分かっているのかということ。

孫の顔を見て微笑んだり、妻の声掛けに頷いたり....、
その姿は、健康であった頃の夫の表情と何ひとつ変わらないけれど、
ただいつも穏やかなだけの顔に、自分から言葉を発しない夫に、
私たちのことが本当に分かっているのか、とても不安になることがある。

先日、初めての訪問入浴があった。
そのとき夫は、妻の手を握り激しく抵抗したという。

数人の見知らぬ人がベッドに集まり、入浴するためにベッド上で衣服を脱がされたとき、
妻の手を強く握りながら、大きな叫び声をあげた....。


人にとっていちばんの恐怖は、自分の意思が誰にも伝えられなくなることだと思う。

耳が聞こえない。目が見えない。
それも確かに恐怖には違いないが、相手に自分の意思が伝えられれば、
その恐怖は、孤独には繋がらない。

でも、耳が聞こえていても、目が見えていても、
誰にも自分の意思が伝わらないのだとしたら、それは絶対的な恐怖になるのだと思う。

重度の認知症を抱えた患者さんは、自分の意思を上手く伝えられないことが多い。
でも、伝えられないからといって、何も感じていないということにはならない。


微笑んだり、大声をあげたり....、
それはみんな、ちゃんと伝わっている証拠。

だから妻には、分かっているのか分かっていないのかで悩むよりも、
しっかりと伝わっていることが大事だと、お話しさせて頂いた。

夫からの言葉を聞けなくなったことは、確かに辛いことかもしれないけれど、
意思を上手く伝えられない不安や恐怖を分かってあげられるのは、ご家族しかいない。

孫の顔を見て微笑んだり、妻の声掛けに頷いたり。
それは本人が、何よりも安心できているからこそ見せてくれる、精一杯の心。

認知症を抱えているから、理解できていないのではないかと不安になるよりも、
伝わっていることを、しっかりと受け止めてあげること。

それが、たとえ自分たちにしか分からないサインだったとしても、
大事な人だからこそ、しっかりと受け止めてあげてほしいと思う。


b0197735_21583387.jpg









[PR]
by hiro-ito55 | 2015-10-20 22:01 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(2)

もし、逆の立場だったら...。


想像してみてほしい。
もし僕や私の生活が、ベッドの上で送らなければいけない毎日だとしたなら。

看護師や医師、ケアマネやヘルパーさん、そして大切な家族や友人。
色んな人たちが毎日、自分の傍までやってきて、
親しげな言葉で話しかけたり、汚れた身体を綺麗に拭いてくれたり、
優しく手足をマッサージしてくれたりする。

そうやっていろんな人たちが、いつも自分の許に来てくれる。
それらはみんな、僕や私にとってとても心地よいものかもしれない。

だから、「もう少し話をしていたい」「一緒にお出かけして買い物をしてみたい」、
そう望んでみても、実際に返ってくる答えは「また来るからね」、
「必要なものは買ってきてあげるよ」、という優しい言葉だったりする。

何かがいつも、少しだけ手の届かない所にあるのに、
それでも毎日が、上手く廻っているかのように見えてしまうのは、
或いは、そんな優しい言葉のせいだったりする。


だから僕はいつも思っている。
もし、自分が誰かの支援を必要とし、不自由な自分とも折り合いをつけていかなければ、
生きていけないのだとしたら....。

確かに、支援があれば全てが受身でも、成り立ってしまうかのように見える、
そんな便利な毎日が与えられたとしても、

全てが自分からではなく、いつも向こう側からやってくるのなら、
それは果たして自分の生活だと、胸を張って言えるのだろうかと、
想像せずにはいられない。

もしそうでないのなら、見せかけの調和ではなく、
精一杯ワガママになることに、僕は何のためらいもないだろう。


本当の支援は、
誰かではなく、自分から世界に働きかけてみたいという、
人の意思を支えるためにあるのだと思う。

人の生活が、誰かに決められた便利で都合のいいモノのように扱われることを、
本質的に拒絶するところに、具体的な支援の形は現れる。

主体性を守るというのは、そういうことではないだろうか。

だから、限られた時間、限られた体力、限られた人生。
それらを自分なりに尽くしたとき、もしその選択が間違っていたとしても、
自分で、生活の今や未来のことを選択していければ、
人はきっと、後悔はしないだろうと思っている。

その人らしく生活することが、一人の人間として生きることと同義ならば、
支援は、ワガママな、人の意思を支えるためにあるのであって、
それを汲み取ろうとする支援者の、想像力と実行を必要としているのではないか。

ワタシのことは、ワタシ自身で決めてみたい。
それが時に、どれだけ切実な思いに基づいているのかということは、
相手の身になって考えようとしなければ、けっして分からないものだと思う。


b0197735_1862630.jpg









[PR]
by hiro-ito55 | 2015-10-01 21:07 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

患者さんから断ることって、勇気がいるんだよ。


時々、患者さんや利用者さんから、サービスを断られることがある。
それが例えば、「今日は体調が悪いから」、「お客さんが来るから」といった都合で、
一時的に断られるのであれば、問題はないと思う。

けれど今回、
患者さんが、サービスの提供者である訪問看護者への不信感を抱いていて、
そのサービスを「打ち切るため」に断わる、というケースがあった。

その方には、僕も週一回、リハで訪問させて頂いているが、
数か月前からは、訪問看護ステーションを二か所利用するようになっていた。
必要な医療処置やケアが多く、一か所ではとても対応しきれなくなったからだ。

でも、新しく入ったステーションの対応が悪く、
緊急訪問でアタフタと慌てたり、通常の訪問時に自分の子供を一緒に連れて来たり、
意思疎通が上手く取れなかったために、必要な処置もせずに帰ってしまったり....。
と、聞けば耳を疑うような話ばかりが出てきた。

本人が、どうしても信頼することができないので、
そこのステーションには直接訴えずに、訪問に入っている所長が直接相談を受け始め、
結果、主治医とも相談の上、代わりのステーションを探すことになった。

悩みに悩んだ末の、相談だったようだ。


サービス提供者への信頼を築けないにも拘らず、ずっとそのサービスが続けられていて、
患者さん自身がそれを断るために行動を起こすのは、とても勇気がいる。

サービス提供者側の人間とすれば、定期的に担当者会議など、
サービスの質や体制について検討される機会もあるのだから、
もし不信感や疑問があるのなら、その都度思っていることを素直に話せばいい、
と考えるかもしれない。

でも、患者さんから信頼できない相手に自分の思いを伝えたり、
サービスを断るために行動を起こすのは、気持の上でとても大きな負担になるし、
「何か嫌だな」「この人たちとは合わないな」と感じていたとしても、
提供者に向けて直接それを口にするのは、そんなに簡単なことじゃないと思う。


断り切れなかったら、その後の関係性はもっと悪くなるんじゃないか....、
そんなことを言うと、我がままだと思われるんじゃないだろうか....、
断わった後、自分の生活はどうなるんだろう....、
もう少し辛抱してみようかな....、
こんなこと思うのは自分だけなのかな....、

自分の生活を預けている患者さんは、
たとえ相手に不信感を持っていたとしても、そんなふうに悩んだり迷ったりしている。

患者さんがそんなふうに思うこと、それが何も特別なことじゃないと分かるためには、
思いを吐露したときには、もうクタクタに疲れてしまっているその人を見れば、
それで充分だと思う。

それに、痰の吸引や呼吸器の管理、或いは緊急時の対応など、
現実に生きるために欠かすことのできない処置や対応をお願いしている場合、
それを別の提供者に代わってもらうことは、それなりのリスクも伴っていたわけで、

それを考えれば、
認知面や判断力に問題のない人が、「止めたい」「断りたい」と言い出すだけでも、
それはとても勇気がいることだったに違いない。


今回、僕は何もすることはできなかった。
けれどせめて、そんなふうに置かれている患者さんの立場や気持ちを、
少しでも理解していくことは、僕にでもできると思う。



b0197735_231381.jpg










[PR]
by hiro-ito55 | 2015-08-28 00:01 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

もう少し説明があると助かるのに


訪問に入ると、何らかの形で福祉用具を使用している利用者さんがほとんどだ。
特にベッドや車いすは、ほぼ全ての利用者さんが使っている。

でも、福祉用具を扱う業者さんは、
その使い方について、ご本人やご家族にしっかりと説明して下さっているのか、
疑問に感じるケースに出会うことがある。
特に車いすについては、そう感じる機会がこのところ多いのだ。


離床時は車いすに座って過ごされ、自宅の浴室でも入浴している利用者さん。
入浴介助はご家族、ヘルパーさん、看護師さんが交替で行っており、
浴室までの移動ももちろん車いすを使っている。

入浴の際は浴室の入り口まで横付けし、
そこから、浴室内に設置したシャワーチェアーに移るのだが、
そのとき、どうしてもフットレストの跨ぎ動作が必要となり、
移乗介助がたいへんだったので、車いすをフットレストが取り外し可能なものへと、
変更して頂いた。

けれど、新しい車いすを持ってきた業者さんは、
ご家族やご本人に対して、充分な使い方の説明をされていなかった。

バックレストの湾曲角度の調整のしかた、フットレストの高さ調整や取り外しの方法、
どうやったら肘置きを跳ね上げられるのか、などなど....。

僕らのような専門職であれば、車いすを見ればどのような機能が備わっていて、
どうしたらそれらを使えるのか一目瞭然だけど、
ご家族やご本人にとっては、説明がなければ使い方がなどまるで分からない。

なので、車いすを交換してすぐに、
ご家族と訪問に入っている看護師さんから相談を受け、
必要な調整と使い方の説明をすることになった。


実際に座って頂くと、問題点だらけだった。

バックレストのたわみは全くない状態のままで手渡されており、
フットレストと肘置きの高さも最大限まで上げてある。

身長が180cm近くある利用者さんなので、
このままだと体全体を折り曲げて座らなければならず、
とても窮屈な姿勢で座らなければならない。

これでは、とても座る気にはなれないだろうなと感じた。


訪問に入ってすぐ、機能訓練やADL練習はとりあえず後回しにして、
まずは車いすの調整に入った。

太ももの後ろ側が、しっかりと座面につくようにフットレストの高さを変え、
ゆったりともたれられるように、バックレストのたわみと肘置きの高さの調整を行い、
併せて、脱着して調整可能な部分の説明も行った。

ご家族からはとても感謝されたけど、
僕自身は、福祉用具を扱う業者さんには、自分たちが扱う商品について、
ご家族に対してもう少し説明をしてほしいなと思った。

僕らがリハの専門家であるように、
福祉用具を扱う業者さんは、その専門家であるのだから、
少なくとも自身が扱う商品については、しっかりと説明してほしいと思う。

商品を利用者さんに手渡して終わりでは、あまりに無責任であるように感じてしまう。

もちろん、そういう業者さんばかりではないけど、
このところ、そういうケースが続いているせいもあって、
もう少し、説明なりアドバイスがあってもいいように思うことが多いのも事実だ。

福祉用具というのは、利用者さんの生活のしかたを左右するものなのだから....。













[PR]
by hiro-ito55 | 2015-06-05 20:55 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(3)

どうしても受け入れがたいもの


ある利用者さんが、デイサービスの利用を拒否し始めた。
理由は、職員から「○○ちゃん」と、「ちゃん」づけで呼ばれていることだ。
「今どき?」と思ったが、利用者さんを「ちゃん」づけで呼んでいるところは、
今でもちゃんとあるようだ。

実際に、そこの事業所を利用する他の利用者さんたちからも、
以前から、「○○ちゃん」と呼ばれたり、「ご飯食べようか」とタメ口で訊かれたりする、
そういう話を聞かされていたが....。

知識も経験もお持ちのこの方にとって、
デイサービスに出掛けるというのは、単に外出の機会があるという意味だけでなく、
それ以上に、社会人としての交流の場でもある。

たとえ認知症を抱えて利用していたとしても、
一人の大人であることに変わりはないからだ。

だから初めは、
他利用者やスタッフと会話を楽しみ、穏やかに過ごすつもりでいた。

同居の娘さんがヘルパーの仕事をしているため、
母の意向に合いそうな事業所を、知り合いを頼りにいくつか目星を付けて探し出し、
最後はケアマネさんと相談しながら、利用する事業所を決めた。

ところが、利用し始めて半月も経たないうちに、下の名前でちゃんづけで呼ばれ始めた。
しかも、自分よりも遥か年下の人たちから....。

一度だけ、思い切って自分の思いを話したところ、職員から却ってきた返事は、
「いいじゃない。ここではみんなそう呼んでいるんだから。」
「敬語を抜きにしたほうが親しみを持ち易くなるし、会話も自然だから。」
という反応。

そこの事業所が、接遇に対して、どのような方針を持っているのかは分からないし、
親しみを込めて接しているというのなら、それもコミュニケーションのひとつだと思う。

でも、相手がそれを不快だと感じているのに、
そのやり方を押し通すというのは、どうなんだろう。


よほど親しい間柄でもない限り、
ちゃんづけやタメ口をされるのは、とても不愉快なものだ。

会話に親しみを込めたり、同等の立場で接したりするのは、
お互いを尊重することの現れなのだと思う。

信頼関係がしっかりと築けた上で、それは可能なことなのだから、
ちゃんづけで接すれば、利用者さんとの距離が縮まるというものではないはずだ。
もしそう思い込んでいるとすれば、それは職員の自己満足に過ぎないのだと思う。


実は僕も、老健に勤めていたころに、
利用者さんに平気でちゃんづけする上司を持った経験がある。

その上司が決まって口にしていたのは、
「その方が○○ちゃんが喜んでくれるから」、というセリフだった。

僕には、どうしてもこういう人の感覚が分からない。

一見して喜んでいるように見えても、
本当に喜んでいるのは、ちゃんづけをしている本人なのかもしれないということに、
専門職ならどうして気付けないのかと、いつも不思議に思う。

それにもし、自分の親や身内が、他人からちゃんづけやタメ口をされていたら、
それを、不愉快なものだとは感じないのだろうかとも思う。

専門職として、たとえどんなに立派な理念を持っていても、
そして、たとえどんなに立派なことをしていても、
相手をちゃんづけしても、タメ口で話をしてもよいという感覚を持った人を、
僕は、どうしても理解することができない。

10年以上、医療・介護の世界に携わっているが、
人として、未だにこういう感覚だけは、受け入れがたいものがある。


b0197735_23485154.jpg









[PR]
by hiro-ito55 | 2015-05-28 00:01 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(6)

イップス


スポーツの世界に、「イップス(Yips)」という言葉がある。
過去の失敗経験から、それと似たような場面に出くわしたときに、
また同じ過ちを繰り返すのではないか、という恐怖心が先に立ち、
その経験を繰り返すことで、スランプに陥ることを指して言う言葉だ。

当初はゴルフ界で使われていた言葉だが、
今では、スポーツ界全般で使われているらしい。


先日あるお宅に訪問したときに、
患者さんの娘さんに、歩行介助の方法を教えたことがあった。
ご家族介助下での入浴を強く希望されていた方で、
そのためには、ベッドから浴室までの安全な歩行介助方法の獲得が、ぜひとも必要だった。

娘さんは以前、外出のために歩行を手伝っていたときに、
誤って玄関先で転倒させてしまったことがあり、
それ以来、自分が歩行介助を行うことを断念してきた。

自分との身長差が20㎝以上もあるというのも、断念した大きな理由だった。

ポータブルトイレへの移乗であったり、歩行であったり、
身長差の大きい方を介助する場合も、
なるべく患者さんの身体に密着した姿勢で介助するのが、一般的かもしれない。

けれども、患者さんによっては、
介助する人との距離が近すぎることで、却って患者さん自身の動きが封じられてしまい、
結果として窮屈な動作となってしまうことがある。

また、密着して動作介助をすることで、
介助者が、患者さんの不安定な動きに引きずられやすくなることも確かで、
そのために、どうしても力任せの介助となることがあり、
万一バランスを崩したときに、大きな事故へと繋がりかねない危険もある。


この方の場合も、
過去に転倒させてしまったという経験から、過度に密着して力を入れたまま、
ポータブルトイレや、車椅子への移乗を行う傾向が強く現れていた。

こういった悪循環を断ち切るため、
身体を離したままでも安全に行える介助方法を、実演も交えながらお伝えした。

転倒させないためには、
できるだけ身体を密着させて介助しなければならない、という強い思い込みから、
お互いの持っている力を利用しながらできる介助方法があり、
それを身に着けることができることを納得して頂くまでには、
繰り返し助言と指導を必要とした。
               
               ・
               ・

過去の失敗体験に捕われる、つまりイップスに捕われるというのは、
何もスポーツの世界に限ったことではないと思う。

僕も、過去に何度も失敗を繰り返してきた。
そして、同じような状況に出会ったときに、また同じ失敗をするのではないかと、
ついつい考えてしまう癖がついてしまったことがある。

今思えば、そのような癖がついてしまった最大の理由は、
失敗したことの原因について、冷静に分析して考えるよりも、
その失敗自体を嘆いた方が、精神的に遥かに楽だったからだ。

失敗した原因についてしっかりと分析し、具体的に次に備えることは難しい。
いつでも全てを完璧にとはいかないからこそ、漠然と失敗することを恐れてしまう。

でも反対に、だからこそ自分のできる精一杯をやっていくしかない、
という考え方に行き着くこともある。

そうしたら、失敗することを恐れるよりも、
万が一失敗したときに、自分がどう振る舞うべきかを考えることの方が大事だ、
ということにも、気付くことができると思う。

失敗したときの自分が、恥ずかしくない自分であるためにはどうしたらいいか、
そのことを考えると、自然と力が抜けて自分のできることを精一杯やってみよう、
という気になる。

不思議なものだけど、そういう自分自身の経験を踏まえて、
患者さんのご家族にも介助や支援の方法を伝えられたら、
リハ職が行える生活支援の在り方も、随分広がるように感じている。

技術と一緒に、伝えられることはあるはずだ。


b0197735_20284588.jpg








[PR]
by hiro-ito55 | 2015-05-21 20:33 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(3)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー
プロフィールを見る
画像一覧