人気ブログランキング | 話題のタグを見る

心や精神の独立性


たとえばこの世界を、力学的なひとつの大きなメカニズムと捉える傾向があるとしよう。
そこに方法の有効性が加われば、僕らがその傾向から離れるのは難しくなる。

人に対しても同じだ。
心や精神は独立して存在せず、脳という物質の中に全てがあるという一元論は、
世界を、力学的なひとつの大きなメカニズムと捉えるためには、非常に都合がいい。

科学が、世界の機械論的構造への信仰から生まれて以来、
心や精神というものは幻想であり、脳という物質の反映が、そのまま精神の世界である。

この傾向に抗うのは、とても困難だ。
脳という物質に対する、心や精神のアリバイを見つけるのは簡単ではない。

だから僕は、心や精神そのものについて分析することを止めて、
その代わり、画家や詩人の、芸術家たちの経験について考えてみた。


画家が、或いは詩人が、深い感動を絵や言葉にする。
彼らは絵や詩によって世界を自覚し、それをある形にして見定めようとする。

それは、目の前の対象に包まれ、世界の姿が顕わになるという、
私と相手が、ひとつの出会いを通して統一される経験だ。

もし、経験する自己という完璧なメカニズムが、最初にまずあるのだと考えれば、
個人の経験は全て強固な、主観的、自己中心的、内在的なものだと見ることもできる。

しかしそれなら、僕らが不意を突かれて何かに感動するような、
或いは、芸術家たちを突き動かす、自己の殻が破られるような経験を、
どう説明できるというのだろうか。

感動という心の働きは、主観的でも自己中心的でも内在的なものでもない。
むしろそれらを全部否定するような経験なのだから。

心や精神があるからこそ、僕らは人間なのだ。
我が心、我が精神ではない。
ときに、自分では如何ともしがたいからこそ、心や精神と呼べるのだ。

たとえば、誰かの笑顔に触れることができた。誰かの涙に言葉を失った。
ただそれを「嬉しい」「悲しい」という印象で終わらせるのではなく、
それを通して、そこから形のある何かが始まるならば、

僕らは、画家や詩人が、絵や詩というもので見定めようとしてきた行為と、
根源的な部分で、とても近い経験をしていくように思う。


僕らは、どんなことにもとかく心が動かないことを、精神の理想としがちだが、
しかし、ものに触れれば必ず動くのが、心や精神の姿であればこそ、
それが、僕らの尋常でいちばんマトモな、経験の形であると思う。

それを心に留め置き、
経験以前にある、ひとつの目的意識に制せられるところから解放されるなら、
ものに触れれば心が動かされる在り方に、僕らは呼び戻されるだろう。

人が生きるということが、物事を経験しながら生きるということであれば、
その人の気質に応じて、ものの姿はあるのだから。


だから、心や精神を説明するため、動かぬ原理を先に立てるより、
その都度の経験に柔軟に応じるあり方、それと向き合う姿勢を持つことが、
心を識るための尋常な智恵であると思う。

心や精神は、力学的なひとつのメカニズムの内に閉じ込められてはいない。
たったひとつの出来事にすら、意に反してふいに感動するように、僕らの心はできている。
そういった経験のうちで、僕らの心は生きている。

確かに、脳と心との間には密接な関係があるのだろう。
しかし、我が意に反して動く心とは、精神が独立した自立性を持っている証でもある。

心は、自分自身を見つめるようにも働くし、
外界と応接する橋渡しとしても働くことがある。

そういった僕らの心や精神とは、いったい何ものであるのか、
知りたければ、個々の経験の豊かさや多様なことを認め、
それにその都度応対している自分の存在に気付くこと、僕はそれで充分だと思う。


心や精神の独立性_b0197735_20293429.jpg









名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by hiro-ito55 | 2015-08-04 20:31 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります。


by いとちゅー