感受性の中に


作業療法で出会う対象者は、
僕らが当たり前に経験できていることに、少なからず困難さを覚えている。

自分のできる活動、できなくなった活動、したいと望む活動、それらを意識し、
日常の中で、ひとつひとつのそれらと向き合っている。

腕を動かすことや座位になること、
当たり前であるうちは、普段意識することもない簡単な動作や活動でも、
その人にとっては、非常に強い意味を持っている。

だから彼らにとって、自分が直接に経験するあらゆるものが、
あまりにも生々しく感じられる。

彼らについて僕らが最初にしたいのは、
何かを上手く処理するために、それについてのアナロジーな説明を施すのではなく、
その「生々しいもの」を感受し、一緒に向き合っていくことだと思う。

対象者の行為や生活そのものを、論理の糸で加工してしまう前に、
僕らは、彼らの生きた言葉を感じ取れるよう、努力しなければならない。

それは恐らく、
作業療法の本質が、純粋な科学にあるのではなく、
感受性の中にあるのだということなのかもしれない。

どれだけ知識や技術を身に着けたとしても、
僕はいつでも、それを見失わずにいたい。
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「さかしだちて物を説く」人は、「物のことわりあるべきすべ」を説くので、
実は、決して物を説かない。物を避け、ひたすら物と物との関係を目指す。

個々の物は、目に見えぬ論理の糸によって、互に結ばれ、
全体的秩序のうちに、組み込まれるから、先づ物は、物たる事を止めて、
推論の為の支点と化する必要がある。

なるほど物の名はあるが、実名ではない。
或る物と自余の物との混同を避ける為に付された記号、
そういう段階まで下落した仮りの名に過ぎない。

言うまでもなく、「物を説く」人には、そういう事は一向気にならない事なのだが、
諸概念の識別標として、言葉を利用し、その成功に慣れて了うという、避け難い傾向は、
どうしても、心の柔らかさを失わせ、生きた言葉を感受する力を衰弱させる。

そうしているうちに、言葉とは、理解力の言うなりに、これに随伴して来る、
本来そういう出来のものである、という考えを育てて了うのである。

しかし、物を説く為の、物についての勝手な処理という知性の巧みが行われる、
ずっと以前から、物に直に行く道を、誰も歩いているのは疑いようのないところだ。


                          ― 小林秀雄「本居宣長」―

*注:さかしだちて(賢ぶって)
   自余の(他の)

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by hiro-ito55 | 2013-11-11 00:01 | 作業療法

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


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