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感謝の姿と祈りの形


曹洞宗の開祖、道元禅師の言葉に、
嫡々相承』という言葉があります。

禅宗では師から弟子へ、
その教えを継ぐことを『衣鉢を継ぐ』と言いますが、

その中で、
師の教えを一滴も溢さずに、且つ、一滴も加えずに継ぐことを、
嫡々相承と言うそうです。

一滴も溢さず一滴も加えないというのは、
師の教えを余すところなく、且つ、自分自身の個性だとか、私だとか、
自我といったものを一切付け加えてはならないということで、
師の教えのそのままの形を、受け継ぐことを言います。

ですから、嫡々相承には、
単に技術や教えを弟子が引き継ぐという、形だけの継承ではなく、
仏に対したときの自分自身の在り方を問う、という意味が含まれています

恐らくそれが、慎みや敬虔というものであって、
それを分かり易い言葉で言えば、感謝と言うのだと思います。

感謝の気持ちというのが、
相手やものとの一体感の中にこそ育まれるものであれば、
それは、一滴も溢さず一滴も加えないという、
無私な態度となって、現れるのかもしれません。


禅宗のような仏教の世界に限らず、
相手や周りのものに慎みや敬虔の心を感じ、それを言葉にすること、

つまり、
感謝の気持ちを、素直に相手に伝えることというのは、
実際にやってみようとすると、なかなか容易にできることではありません。

相手にこうあってほしい、相手をこうしたいと要求する方が楽で、
親しみや信頼を相手に伝える方が、遥かに難しいのです。


僕らは、
誰かや何かと共に生きている、そういう数え切れない多くの縁の中で、
今、自分がここに在るということ、

自分は、
誰かと繋がっていると同時に、誰かを繋いでいる存在でもあるということ、

或いは、
人一人の一生は、たかだか百年足らずの短いものですが、
その百年足らずの一生のうちに、
社会の中で折り合いをつけたり、駆け引きをしたりする前に、
様々な循環の中に身を置いているということ、

その中では、
誰もが生かされる存在であり、生かす存在でもあるということ、

そういう生(せい)の循環を感じられることで初めて、
感謝の気持ちを、素直に伝えることができるのかもしれません




先日、僕の勤めているステーションに、
看取りをした利用者のご遺族が、ご挨拶のために来所されました。

その方が所長に語っていたのは、亡くなったご家族の思い出話や、
最期の看取りまで行なった看護師に対する、感謝の気持ちでした。

死んだ人を前にして遺された人ができることは、ただ首を垂れること、
そして、思い出を語ることなのだと思う。

それは、
誰かと共に生きていた確かな証、それを伝えるという敬虔なのであり、
亡くなった人に首を垂れ、そこに関わった人へ気持ちを伝えることでしか、
思いを形にすることはできないのではないか。

いつの時代も、
良くも悪くも、人の生きた刻印というものは、
そのようにして、誰かの心に刻まれるものなのだと思う。

亡くなった後も、その人の形を共に喜び、共に悲しむ。

そういう感謝の形があるのなら、
感謝というものはどこか、祈りに似ているような気がします。


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by hiro-ito55 | 2013-06-18 22:47 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります。


by いとちゅー