自分の足で歩くということ


心身が何かにひどく疲れてしまったとき、
僕は、平日なら10時間以上、
休日なら12時間以上寝ることにしています。

それで、心身の疲労の少なからずはリセットできるし、
我ながら都合のいい体質だと思う。

けれどもし、
自分の足で歩いていくことに、不安や悩みを抱えてしまったときは、
問題はもっと根源的であるから、いつもより多く寝たからといって、
その問題の解決には繋がっていかない。

そんなとき僕は、
小林秀雄の本や、彼の講演のCDを聴くことにしています。

小林は、自分の見たもの、聞いたもの、確かめたものしか語らない。
自分自身で感得したものしか言葉にしない。

彼は、
知的好奇心を満たすだけの絵空事は、
所詮インテリのNarcissismだと、端から相手にしない代わりに、
自分の眼力を磨くことに心血を注いだ人で、

そこから得たものを言葉にして表現すること、
ただその一点に、人生を賭けることができた人だと、僕は思っている。


人一人が自分らしく生きていくためには、
自分の経験を何よりも大事にしていくことは、勿論大切なことだけど、

その自分の経験を主観的、客観的、相対的に眺める前に、
何かに引き寄せられ、包まれ、心動かされる瞬間、

そういった自分自身の経験が、いったい何物であるのかを、
まずはしっかりと見定めることが、何よりも先であると思う。

比較され、相対化されることで、
自分の経験を、関係性という枠の中で捉えることはできるかもしれない。

けれどそれは、
きっと、自分の経験を真正面から見詰めたことにはならない。

心動かされる瞬間、それがたったひとつの経験であったとしても、
そこに全体が隠されているのか、
それを見定めるのは、他の誰でもない自分自身であるということ。

これは、人それぞれが、自分の道を歩んでいくために、
とても大事な事実であるように思います。


どんなに大きな法則を発見した偉大な科学者でも、
その発見の裏には、自分自身の経験に対する驚きや感動が隠されていて、

それを手掛かりに事を進めて、やがて大きな発見へと繋げていった、
そういう科学者自身のabilityについては忘れられがちで、

僕らはどうしても、形として残されたもの、
完成されたものだけに目が行きがちだけど、

自分の見たもの、聞いたもの、確かめたもの、
それらが何物であるのかを問う能力を養うこと、

どのような分野で生きているとしても、
経験を磨くこととは、そういうことだと思うし、

それが、自分の道を作っていくことだと思う。

人は、どんな人でも自分の人生を生きることしかできない。
他人の足を借りて前に進むのは容易いが、他人の人生を歩むことはできない。

ならば結局、
知ることは、自分の人生を信じることに繋がっていく。

例えどんなにちっぽけな人生でも、
それを相対化し、他との関係性の中に落とし込む権利など、誰にもない。


信じるとは、
自分の経験を自分の言葉で見定め、考え、それを表現できること。

それが、自分の足で歩くという事だと、僕は思っています。

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by hiro-ito55 | 2013-05-05 00:42 | 哲学・考え方

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


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