知るとは生きること ―小林秀雄について―


僕の尊敬する思想家に小林秀雄がいますが、
今年は、小林秀雄の没後三十年の年にあたります。

そのせいか、今年の大学入試センター試験にも、
小林の随筆鐔(つば)』が出題されたようです。


僕にとって小林秀雄は、
偶然にも誕生日が同じである、というつまらない事実を除けば、

物事を本当に知るとは、どういうことか。』
という根源的な問いを、常に投げ掛けてくれるような存在で、

どんなに知識がある人でも、ひとつの経験に向き合い、
 これを大事にする人には敵わない
。』

ということを、最初にはっきりと教えてくれた人でした

例えば、ひとつの音楽について様々な知識を持ち、
分析的に、或いは専門的詳しく説明することのできる人がいたとしても、

たった一曲でもいい
他人に話して聞かせられるような、ろくな知識などなくても、
その音楽に心底感動できる、そういう人には敵わない


主観客観か、というところから始めるのではなく、
感動共感共鳴することから知るというのも、
物事を知るための、僕らに与えられた大事な能力
で、

それを育むことのできる人は、自分の経験を大事にすることができるし、
他人が何と評価しようと、そういう人は、
例えば音楽なら音楽について、それが何であるかをよく知っている

音楽だけではない
人が人生を送る上で、無駄なものなどないと思えるのは、
どんなにつまらないことでも、真摯に取り組むことができる、
そういう自分自身の姿に気付いたとき
で、

この、自分に与えられた確かな能力自覚し、向き合える人は、
現代人とは』、『人生とは』と、
人間についてどんなに抽象的客観的に語れたとしても、

それは本当に人生を知っているとは言えない、
ということをよく知っている


今一般的に、
物事の価値というものは、量と質のバランスで決まると言われていますが、

僕が小林の文章に強く魅かれるのは、
そういう相対主義的価値観の、無限ループの輪から連れ出し

その先に、
確かに根を張ることのできる知の大地があることを、
教えてくれたことにあります



知るとは生きることだとは小林の言葉ですが、
この言葉の持つ意味は、本当はとても深い

知ることと生きることとが同じであるそう感じることのできる人は、
何かに自分の人生を賭けることのできた人で、
失敗すれば、自分で責任を取ることのできる人の言葉です。

僕らは、
そのような覚悟で、本当にものを知ろうとしているだろうか


間違いに気づいたとき、
それは科学的限界だ、歴史的限界だと、
何かのせいにできる形の知を、求めていないだろうか


もしそうだとしたら、
それは知的好奇心という、僕らの欲を満たすだけのことで、
本来、知ること生きることとは、なんの関係もないことの筈です。

に対する共感共鳴感動を頼りに、
何かを知ろうとすることは、非常に不安定で、
心許ないことには違いないですが、

そうして知ったことを、誰かと共有したいと感じられれば
その知は、自分の内側では収まり切れない力を、持つことになります

そういう知の力は、
やがて不安定な個別性の中では、どうしても片づけられなくなり
安定する方向を目指していきます。

言葉であったり、であったり、であったり...と、
その姿を整えるように、知は具体的な形となって現れ、

それが、
人々の間に共有されることで、普遍的な何かに変わる瞬間がある


そういう、内側から知るという知があり、
物事の価値は、けして量と質のバランスだけで決まるものではなく

また、
人には、それをしっかりと見定める能力が与えられていることも、
僕は、小林の文章から教えられました


総じて小林の文章は、昔からよく『難解だ』と言われます。

確かに、易しい文章ではないですが、
小林自身も言っているように、
何かを知るとは、何を置いても、批判精神時代意識だとか、
そういうつまらない自己意識に惑わされずに

ただ、我がものになるまで見定めようという、
一体感を目指してものに向かっていく素直な僕らの能力
それを信じることであると思います


そうすれば、
人が人として、本当に自分らしく生き抜くために、
それぞれに何が必要であるかということが、
各々の間に、自ずと明らかになってくるであろうし、

小林の言葉は、
いつもそういうところから、発せられているように感じます


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by hiro-ito55 | 2013-02-13 20:48 | 哲学・考え方

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


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