個別性への共鳴と、普遍的であるということ


世捨て人とは世を捨てた人間ではない。世に捨てられた人間だ。』
とは、小林秀雄言葉ですが、

世捨て人とは、尊敬同情共感捨て
他人と何かを共有すること煩わしいものとした、
そんな人を指すのではないでしょうか。

そしてそれは、
その人が、人との繋がりを見放したからではなく

人と人との共有や共感の場の方から、
当の本人が遠ざけられていく
のだと思います。


例えば、農作業が好きな利用者さんがいる。

彼女は畑を見れば
耕したり肥料蒔いたり雨が降るのを今か今かと待ちわびたり
大根ほうれん草植えたりしたくなる。

そして、一旦農作業に取り掛かると、
暑さも寒さも時間さえも忘れて自分の作業に没頭してしまう

この、農作業が好きな方の姿を見て、
周りの人手伝ってみたいと思ったり、共感したりすることができる。

そういう風に心が動かされるということは、
周囲の人の心の中にも、作業するその姿が現れるということ。

もし、その利用者さんの行動が、
全く僕らの外部化されたところで起こっている出来事であれば、
他人その姿共感したり、心を動かされたり、
介入しようとしたりすることなど、そもそもないはずです。

これは、
作業をする人の主観とか、周りからの分析的な評価といった、
人が勝手に作り出した恣意的な距離からは、
測ることのできない出来事の内に、
僕らが巻き込まれているということで、

言うなれば、
作業や場の方から、共有されることを強烈に求めてくるような、
そういう如何ともしがたい特性を持った経験を、
僕らがしているということです。

この、誰かの行動共感したり、心を動かされたり、
介入したいと思えたりするような経験は、
実は、作業療法の最も基本的な動機なのかもしれません。

作業する姿を、お互いの前で明らかにするような、
そういう共有する姿を感じ合う場と時間の中に、
作業療法の、最も基本的な姿があるに違いないのです。

そして、
作業療法が、まず何よりも
人との共感や共有というものを土台としていることを考えれば、
何を作業するのかではなく、どのように作業するのかということが、
僕らにとっては大事なことになりますが、

それは、
テクニック云々のレベルの話ではないと思います。

このことは実は、
作業療法の普遍性探る上でも、
重要なヒントになるのかもしれません


例えば、
モネスザンヌ児玉希望横山大観は、
100年以上も人々に愛されています

人それぞれ、その絵に対する思い入れや愛着違うし、
絵と向き合って語り出すときの言葉も、人それぞれで違います

けれども、
絵と向き合ったときの感動を共有することはできます

そして、
彼らの絵が、彼らの絵の個別性に関わらず
人々の共感をずっと得られているということは、

絵に触れる人達によって齎される、
途絶えることのない共有共感という、
一人一人の経験積み重ねが、

100年に渡る、人々の美への共鳴という、
普遍性作り上げていることになります

いわば、
普遍性とはけして観念的空想的なものではなく

むしろ、
何かに共感したり共有したりするという、
僕らが当たり前に経験する具体的な何かとの繋がりを、
土台としているのです。

に限らず、日常経験する繋がりを、
当たり前のこと切り捨ててしまわずに、

それに素直に向き合い続けることに、
物事の普遍性を探る道のヒントは、あるのかもしれません


一方で、
今でも、科学的でなければ作業療法ではないと平気で仰る方がいるが、
僕からしてみれば、こんな無神経で浅薄な言葉はないのです。

人は、合理的に毎日を生きているわけではないこと
自分にも他人にも、簡単には解釈できない相を持っていることは、
誰もが知っている常識です

認知症のある利用者さんでも、
家族の前で見せる言動と、
デイに来られた時に見せる振る舞い違うことはよくあるし、

そういう細かな矛盾を抱えつつも
全体としては一つの総体を成しているのが人というものです。

割り切れない考えても解らないこと感じるしかない
それが共有共感という、人に与えられた能力で、

僕らはそのことについて、
よくよく自省しなければいけない立場にあります。

作業行動を、
心身平行の因果論語り切ることが可能だと考えるのは、
実証主義の、単なる自惚れにすぎないのです

現に、科学的手法を用いて、
人の作業行動外部化して人を知ることが、
本当に客観的な方法であるのかという検証もないまま

作業療法にも、科学的手法が用いられているという事実は、
科学人の主観で用いられていること何よりの証拠です

もし、
人に対して本当に客観的ということが言いたいのであれば、

そういう方法捨てて
共感することや共有するという経験を通して、
そこからできるだけ多くのものを汲み取る

そういう複雑で煩わしい
博覧強記のような世界身を委ねるしか、他に方法はないと思います。


作業療法世捨て人のようなものとなるか、
人と人との間に、
普遍的に残る可能性を持ったものとして引き継がれていくか、

それは、
共有されることを求めてくる作業と、
僕らがどのように向き合おうとするのか

そういう問い投げかけられることと、
同じであろうと思います

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Commented by 桜葉佳代 at 2012-11-18 17:12 x
はじめてコメントさせていただきます。
とっても、とっても、
共感してしまいました。
「同じ釜の飯を食った仲」は中々切りきれるものではないのも同じことなのかなぁとも感じ…。
宗教哲学オタクな私はそのくせ実生活の重要性をひしひしと思うのです。
Commented by hiro-ito55 at 2012-11-19 23:05
佳代さん、はじめまして(^.^)。
素直なコメントを、ありがとうございます。
僕のコメントが長いので、二つに分けさせて頂きます。

哲学や宗教というものは、僕らの実生活から離れると、
どんどん観念的なものとなってしまいます。
今の学問は、哲学宗教に限らず、兎角、方法論というものを持ち出し、
一旦僕らの世界から外部化して、そこから、物事の因果関係を見つけ出そうとする傾向が強くあります。

これは事実かそうでないか、
そういう尺度は、対象が物的なものであればよいですが、
人間にこれを当て嵌めることが一番いけないことで、
行きつく先は、主観か客観かという味もそっけもない結論です。
人間の経験を直に見ないで、計量化してしまう。
だから、物事を内側から知るということを認めないのですね。
(次のコメントにつづく)
Commented by hiro-ito55 at 2012-11-19 23:05
佳代さんの仰る「同じ釜の飯を食った仲」というのは、
当に内側から繋りを知るという、
人の知性のひとつの在り方だと思います。

それは、自我や主観や客観などと何の関係もない、
何物かに自分が満たされ、それに何の過不足も感じない場に、
自らの身を置くということ。

実は、宗教や哲学というのは、
そういう人間の営みから生まれ、生き続けるのもので、
そこを離れると、ただの観念となってしまいます。

宗教や哲学は、
そういう卑小とも呼べるような場を離れては生きられないものですから、
宗教や哲学に関心を持たれている佳代さんが、
実生活が重要だと感じてらっしゃることは、
全然矛盾のない、健全な精神の働きだと思います。

コメント、ありがとうございますね。
また宜しければコメントして下さい。
そして、これからも宜しくお願いします(^_^)。
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by hiro-ito55 | 2012-10-30 21:12 | 作業療法 | Trackback | Comments(3)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


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