言葉に対する感覚


今年古事記撰録から、ちょうど千三百年
古事記日本の始まりを語る神話

当時、書き言葉としての日本語
つまり、平仮名やカタカナが存在していなかった中で、

借り物の漢文ではなく、
日本人の心を、何とか日本語で表現しようとした、
古事記そんな書物

その結果、
としては、日本語の読みを強引に漢字に当て嵌めるといった、
非常に難解な文章になっています。

だから、
稗田 阿礼(ひえだのあれ)口誦を、
太安万侶(おおのやすまろ)らが書き写してから数年で、
誰も正確に本文を読めなくなったといわれています。

なぜ
そんな複雑なことをしたのか。

それは、
今、日本人の精神や世界観を表す最初の言葉を、
そのままの形で残しておかなければ、

今後、日本人の心を、
日本語で表現することができなくなってしまう

という危機感が働いていたからだと、言われています。


当時は、文章はみんな漢文で書かれていました

漢字表意文字だから、
文字の表す意味に強く惹かれてしまう

例えば、『』という文字は、
日本語で『あめ、あま』などと訓読されますが、

漢文の持つ『』の意味と、日本語の『あめ、あま』のそれには、
微妙なニュアンスの違いがあります。

書き言葉としての日本語がないということは、
この微妙な違いを無視して、『』=『あめ』というふうに、

日本人の感じ方が、
漢文の世界観に同化してしまう危険があるということ。

例えば、現代において、
日本の公用語英語にしてしまったとしたら、
数十年後には、『枝ぶり』や『咲きわう』といった、
日本語の持つ意味や世界観は、分からなくなってしまうでしょう。

コトバ輸入するということは、
文字だけを取り入れるという、そんな単純なことではなく
コトバの持つ世界観

つまり、
輸入元の文化や歴史までをも受け入れることなんだ、
ということは、忘れてはならないことです。


現代は、書き言葉としての日本語存在しますが、
当時の文章の公用語漢文で、それに対抗する言語を持っていない

しかも、
圧倒的な文化力の差でもって、漢文はどんどん輸入されている

そんな状況が、どれほど危険なものであったか

複雑表記古事記撰録背景には、
そういう言語に対する非常に鋭い危機感が働いていた
読むことができます


そしてその古事記本文を、
約千年振りに、ほぼ完全な形読み解いたのが、
本居宣長

千年も昔の日本人の心を、甦らせることができたのだから、
彼もまた、言語に対する非常に鋭い感覚を持っていたのでしょう。


言語に対する鋭い感覚を持っている人は、
文化や歴史、そこに生きる生身の人間というものを大事にする

逆に、
言葉を大事にできない人間は、
文化や歴史はおろか、人を大事にすることができない

というのが、僕の持論です。

報奨契約インセンティブと言ってみたり、
先導主導権イニシアティブと、
カッコよく言い換えてみたりする一方で、

遵守を『そんしゅ』、他人事を『たにんごと
言い間違えるようでは、言語に対する感覚は、鈍い


現代に生きる僕らは、コトバに対する感覚というか、
敬意というものを見失いがちで、

それが、自分や他人の持つ世界観を狭め
自分自身の感じ取る能力をも、削いでいるのではないか、


古事記撰録の背景から、翻って現代というものを考えてみると、
そんなふうに思えてきます

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by hiro-ito55 | 2012-09-16 16:21 | 日本人

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


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