心がそれに共鳴するということ
2012年 07月 03日
『今や私は自分の性格を空の四方にばら撒いた。
これからこれらを取り集めるのに、骨が折れることだろう。』
記憶が定かではないですが、
これは確か、フランスの詩人、批評家の
シャルル・ボードレールの言葉であったように思います。
彼の言うように、
人の感受性とは、そういうものだと思います。
感受性は、『心』 と置き換えてもいいかもしれない。
僕らがなぜ詩や音楽に感動できるのか。
それは僕らの心が、詩や音楽に共鳴するからです。
でも、詩人や音楽家は、
なにも新しい言語や音符を発明するわけではない。
詩で使われる言語自体は、僕らが日常使っているコトバだし、
音符自体も、音階で定められた五線紙の上にあります。
だとすれば、
詩や音楽の材料は、既に僕らに等しく与えられているもので、
詩人や音楽家は、
それらを組み合わせて、僕らに感動を与えることのできる人達で、
そういう、
言葉や音に対する鋭い感受性と、創造性を持っている。
通常、僕らは聞き流してしまうだけの言葉や音に
リズムを与えて命を吹き込むことを、創造と呼ぶならば、
彼らは、自然界に当たり前のように存在している
言葉や音といった詩や音楽の材料を拾い上げ、
僕らの注意を、そちらに向かわせるように導いていく、
そういう人達だ。
そして、
普段はさしたる関心もなく通り過ぎる
当たり前の言葉や音に命が吹き込まれ、
それらに僕らの感受性が共鳴するということは、
僕らの心もまた、
自然にある言葉や音と繋がっている、
ということを証明している。
感動は、
なにかの拍子に、その繋がりにパチンと火が付くようなもので、
感動したいという、自分の意志が齎す産物ではない。
僕らが自分の意志でもって、
全てコントロールできるように思っている心は、
実は、そのような自分だけの所有物のようなものではなく、
心の断片は、僕らの外にいつも散りばめられていて、
創造によっていつも、ある形に導かれる。
感動の点火作業は、自分の意志ではなく、
それはいつも、何かのきっかけで齎されます。
創造によって導かれ、
いつも向こう側からやってくるのです。
点火によって流される電流が、
心の形を、物凄い速度で変えていくならば、
その運動の中において心は、
その形を整えられるのを、ただ待つしかない。
そういう仕方でもって導かれた心は、
最早、自分の完全な所有物とは言い切れない。
感動や共鳴する経験を通して、僕らは、
自分の心が、自分の意志を離れることもあること、
自分の中だけにある独占的な所有物ではないことを、
教えられます。
ならば、自分の心を 『我が心』 と呼ぶのは、
随分とおこがましいことのようにさえ、思えてくるのです。
冒頭に挙げたボードレールの言葉は、
こういった心や感受性の本質への覚醒、
或いは自覚の瞬間でありながら、
それを見抜いてしまった自分は、
これから創造という手段でもって、
それらをある形に導いていかなければならない、
そういう、ある種の自分の運命と呼ぶべき困難さの自覚と、
これと向かい合う決意の言葉に違いない。
僕はそう思います。
by hiro-ito55
| 2012-07-03 00:10
| 哲学・考え方
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