正しいこと、納得すること
2012年 04月 10日
昨日、岡崎の方では桜はほぼ満開でした。
以前、『桜と日本人の心』 の記事でも触れたように、
古来、日本人に馴染みの深い桜といえば山桜でしたが、
こうやって見ると、
ソメイヨシノも綺麗な桜であることに違いはありません。
花でも何でもそうだけど、それの価値を認めるかどうかは
自分が納得しているかどうかの問題です。
もっといえば、それに親しみを持てているかどうか
ということ。
いくら世間一般で正しいと言われていることでも、
自分自身がそれに対して本当に納得していなければ、
そのものの価値は、自分には響いてこない。
これは何も、花やものに限った話ではなく、
仕事で向き合う利用者に対しても、同じことだと思います。
対人支援という切り口で日々の仕事を見ていると、
それが少し分かってくると思います。
利用者を支援することにおいて、
僕が忘れてはならないと思うのは、
利用者を、
あの手この手を使いながら納得させるために
僕らが関わるのではなく、
利用者が納得したものを支援していくのが、
僕らの仕事であるということ。
そのために、どうするべきかが問われるのであって、
けして、こうあってほしいからという僕らのエゴを、
支援という方法に形を変えて、
相手に押し付けることではない筈です。
そこの部分は、履き違えてはならないと思う。
そのことが分かっていないと、
例えば、レクを行なう場においても、
いつでも、『何とかして場を盛り上げなければならない。』、
最初から、『利用者を楽しませなければならない。』、
そうあることが正しいことなんだと、勘違いをしてしまう。
場として盛り上がること、楽しむことを
利用者自身が納得している場合はいいけれど、
でもそれは、
相手との関わりの中で、僕らが支援していく過程の中で、
お互いを発見しながら確立していくもの。
レクやアクティビティーは
盛り上げなくてはいけない、
楽しくなくてはいけない、
という態度でいつでも接するということは、
裏を返せば、
相手にもそれを強要するということです。
それは、
根拠のない正しさを、相手に強要するということなのです。
『正しいこと』 で言えば、
科学は、ものとものとの関係性を探る学問ですが、
それが万人にとっての共有ツールに成り得るのは、
科学が 『正しいこと』 だからです。
でも、
AやBの関係性ではなく、それ自身のことを知るためには、
正しいことだけではダメなのです。
ものや、相手や、作業活動の本当の価値というものは、
科学だけでは分からない。
(現に僕らだって、友達のことを理解することが、
科学的に知るということとイコールではないことは、分かる筈です。)
ものの価値を知ることが、科学的に知ることとイコールでないのは、
『それ』 を知るためには、
『それ』 に対する納得や親和性という、
僕らや相手の情緒が、深く関わっているからです。
身体に障害を負ったり、認知症になったり、
例えどんな人生になってしまおうと、
その人が本当に納得している生き方であれば、
最期は後悔はしないと思うし、
その後悔をさせないために、僕らのできることを提供するのが、
対人支援という僕らの仕事です。
日々、利用者に触れながらも、
改めて、そのことをはっきりと認識させられた一日でした。
by hiro-ito55
| 2012-04-10 19:22
| 作業療法
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