諸行無常ということ

昨日の話の続きです。

先の東日本大震災に関連した 『復興の精神』 (新潮新書)
という本にも、
南直哉さん寄稿されています。


私にあったのは、断崖絶壁の端に立って遠くを見ているような、
なすすべのない空虚である。
それは、この問いに何も答えられない、という悲哀ではない。
答えを断念しなければならない、という無力さなのだ。

私は、彼らに届く言葉を持ち得ない。

死に、飢え、凍える者と、それを映像で見ている者を分かつ断絶が、
同時にその無根拠さを露わにするとき、
さすがに「愚かな」私も、「傲り」に気づく。

「傲り」とは何なのか。

この断絶の前で、臆面もなく理由を語り、解釈することである。
そして、この断絶の前の沈黙こそ、私がいま思う「無常」である。



南直哉さんは禅宗のお坊さんで、
禅宗では 『不立文字』 を説きますが、

南直哉さんの仰る、この 『断絶の前の沈黙』 という姿勢も、
それに根差したものでしょうか。

これには、
諸行無常』 の 『無常』 について、
よく考えてみなければなりません。


小林秀雄は、『私の人生観』 という随筆の中で
諸行無常について、次のように述べています。

諸行無常という言葉も、誤解されている様です。
「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し」
そういう風に、
つまり 「盛者必衰のことわりを示す」 ものと誤解されて来た。

因果の理法は、自然界の出来事のみならず、
人間の幸不幸の隅々まで滲透しているが、人間については、何事も知らぬ。

常無しとは又、心なしという事であって、
全く心ない理法というものを、
人間の心が受容れる事はまことに難しい事である、

私達の心の弱さは、この非人間的な理法を、
知らず知らずのうちに、人間的に解釈せざるを得ない。



なるほど、
無常なる現実の正体は、心がない現実であって、
人は、この現実を説明するために、
様々なをもって解釈し、説くことはできます。

しかしそれは、
無常なる現実に、直に向き合っていることではない
現実を受け入れることが困難な、
人間の弱さの現れ でもあるのです。


つまり、
仏教的解釈だの、
有識者や専門家の見解だの、
科学的な根拠だの、

そういった 『』 でもって、
尤もらしく解釈し、語ることは、
圧倒的な現実の前では、何の意味も持たない

私たちの理の及ばない 圧倒的な現実の前では、
人は 『なすすべもない空虚』 
つまり、『心がない』 ことを思い知らされるのであり、

それを忘れて、まずをもって処するのは、
ただの人間の驕りである。

そこに気付けば、自分はただ、
言葉を無くす瞬間に、立ち会っている』 のであり、

仏教者ではなく、
一人の人間として向き合う 『沈黙』 が、
そこにあるのではないか。

冒頭の南直哉さん言葉を、
僕はこのように受け取っています。







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by hiro-ito55 | 2011-12-05 10:12 | 哲学・考え方 | Comments(0)

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