『糸』





自分がなぜ生まれてきたのか

人生経験というものを一切排除した
根源的なところで、この問いに向かい合っても、
誰も答えることはできません

自分の意志で生まれてきた人など
ただの一人もいないのだから。

でも人間は、色々な人と巡り合ううちに、
時に、生まれてきた意味を問われる
きっかけのようなものを与えられる、

そういう出会いがいくつもあります。

仕事においても、
もし自分がここにいなければ、
この利用者と語り合うことはなかったであろうという
そういう偶然を考えてみても、
そのような出会いはいくつもあります。


先生のことは生涯忘れんよ

その言葉を、ただのお世辞ではなく
真剣に受け取ることができれば、お互いに語り合うこともでき、
やがてそれは、人と人との物語となります。

そして、
人間だけがなぜ、そんな物語と出会うのか。

それは恐らく、
僕らが、言葉というものを持ったからでしょう。

人間が言葉を持たなければ、
何も自分の存在の根源的な命題について、
真剣に考えることもなかったでしょう。

でも、なぜ言葉を持ったのかということには、
だれも答えることはできません。


言葉を持つということは、
相手と 『語らう』 ということです。

語る』 のではなく、
語らうこと』 で言葉というものは生きてくる。

自分一人のことを自分一人で考えるだけなら、
自分自身が合点していればいいだけのことで、
だれに伝えるわけでもない。

誰かに伝えなければならないから、
言葉というものが必要になる。

言葉は、
そのように、『語らうため』 に僕らに与えられています。

では、何を語ろうとしているのか。

人間は、誰一人として
自分の意志で、自主的に生まれることができず、
誰もが生かされている
そういうものなら、

語らうことは全て、
生かされていることを確かめるための物語です。


僕らが語らうために、誰と出会うのかは分からない。

それは、何故生まれてきたのか
誰一人として、根源的に知ることができないのと同じように、

だれと語らうかどんな物語を語り合うかを、
誰かと語り合う前に、予め知ることはできない。

そこに、
人生の不思議があるのかもしれません。





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Commented by colnago510 at 2011-11-02 22:04
人はなぜ生きているのか、なぜ生まれているのか。
おっしゃるとおり、それはおそらく根源的に分からないことなんです。
故に、「死んではいけない」「生きるべきだ」という論拠も不確かになってきます。

そうなってくると、誰かと誰かの関係性の中で、
まさに「生きていることを確かめる」やりとりがなされているんでしょうね。

「死んではいけない」という論理が通じない以上、
「僕はあなたに生きていてほしい」という懇願でしか、
投げかけられないのではないかと思います。

南直哉さんの受け売りなんですがね(笑)

ただ、こうして繋がった人たちと
こういったことを語りあうこと、それが「縁」なのではないかと思います。

一元論や先入観を押し付けることがないよう、
さまざまなことを考えていきたいですし、根本を疑っていきたいですよね。
・・・ということも疑っていかなくちゃと思ってみたり(笑)
Commented by hiro-ito55 at 2011-11-03 19:04
510様、丁寧なコメントをありがとうございます。

仰る通りで、人間は、自分の経験を通してしか、人と語らうことはできない。
例えば、科学的に友達を見ても、深くその人のことを知ることはできないのと同じように、
科学的に利用者を見ても、深くその人のことを知ったことにはならない。

ならば、仕事でもなんでも、人と語らうためには、科学や自分の主観を通してではなくて、経験の仕方を考えてみる必要があると思うのです。

そう考えると、PTやOTという仕事でさえも、随分深いものですね(^_^)。
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by hiro-ito55 | 2011-10-29 02:14 | 哲学・考え方 | Comments(2)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


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