人気ブログランキング | 話題のタグを見る

脳死について (再録)

昨日の記事で、脳死と臓器移植について書きました。

脳死を人間の死と判定することが可能であるのは、
人間の死の不可逆性を科学で証明できたからですが、

ラザロ兆候というものがあり、
これは臓器摘出時に、脳死者が手足を激しく動かす不可解な現象で、
その臨床報告もなされています。

ラザロ兆候は、
脳死者に物理的な刺激を与えることで脊髄反射が起こり、
その結果、四肢が動いたり血圧が上昇したりする

というのが科学者の間では定説となっているようですが、

個人的には、人間の死というものに対しては
倫理的観点も含めて慎重に向き合うべきものであり、
もっとデリケートに扱うべきものであると思います。


この脳死の問題に対して、
僕は一年前に記事を書いていました。

思えば、第一回目の記事
このような重いテーマだったのですが、
基本的には、今の考えと大きくは違わないので、
今回はそれを再録しておきます。


僕が 「脳死」 に違和感を持つのは、
一言でいってしまえば 
『「脳の死」という一点で、人の死を規定してしまって良いものなのか』
ということです。

また、倫理的観点から言えば、
臓器提供されるために脳死を待つということは、

他人の死を待つということですから、
それは仏教における 「迷い」 に当たるのではないか
という意見も一部であるようです。

そもそも、死は生の一部であるという捉え方が、
長い間日本人には一般的だった
という話を聞いたことがあります。

ですから、長い間、「死」 自体
或いは死を含んだ 「生」 までもが
「割り切れないもの」 
として捉えられてきたのではないでしょうか。

その証拠に例えば、死をゆっくりと受け入れていくために、
「初七日」 や 「四十九日」 があり、

そういった一種の割り切れなさというか、
智慧みたいなものが、
死という在り方自体に含まれていたと想像できます。


そこで、今回のテーマですが、

脳死を人の死とすることは、
この割り切れない死と生の境界を、
科学的観点という 「線」 で無理やり明確化し、

我々が無意識的にも抱いている、
死を生の一部と捉える割り切れなさを、
無理やり割り切らせようとする行為
であるように、少なくとも僕には感じられてしまいます。

更に、「死」 を科学的観点という一点で規定してしまうことで、
ちょうど合わせ鏡のように 
「生」 も同じ観点で規定されてしまうのではないか、
と思えてきます。

つまり、科学的に 「死」 を規定すれば、
「生」 も科学的に計量化されてしまう

この問題は、そういう危険性を含んでいるように思います。

むしろ、こっちの方が恐ろしいかもしれません。

「いかに生きるか」 「いかに死と向き合うか」
といった個人個人の価値観に還元される
そういう性質のものに、

科学的に、或いは一元的に線を引いてしまうことは、
非常に危険な風潮のように思われるのです。


そういえば、
「心身一如観」を採用してきたのも日本人ですが、

日本語の中には、「身にしみて」 
或いは 「他人の身になって」 という表現があります。

これは 「全体的な存在になって思う」 という在り方であって、
「他人の身になって」 の 「身」 というのは、
単に英語で表現される 「Body」 のことではありません。

この 「全体的なものになって思う」 という心身一如観のあり方にも、
「心と身体」 という二元論からの観点では説明できない、
割り切れないものが多分に含まれていますね。


さて、少し話は逸れましたが、
極論を言ってしまえば、

現代において死や病とは 「事故」 であり、
「科学の敵」 です。

これは、死や病を戦うべき対象と規定し、

医療とは、
死や病という 「科学の敵」 に対し行なう 「戦争」 である
というような捉え方です。

そして、戦うべき対象と規定すれば、
次に、これをいかに、どのようにして克服するべきか
に主眼が置かれます。

これは何も医者の側に限ったことではなく、
それと向き合う患者さんも
死や病と戦うことを強制されていますし、

それを半ば当然のこととして受け入れているのが現代です。
(受け入れざるを得ないのかもしれませんが)

でも、本当に死や病とは敵であり、
単に戦う対象であるべきものなのでしょうか。

ここに脳死判定の是非も含めて、
人間の生死という問題を考えるとき、

そこに科学技術が深く関わっていることが、
この問題の根底を成しているように思われます。


科学技術は人間の役に立つために存在するものですから、
M.Heidegger的な表現を用いれば、

臓器までも 「人間に役立つ部品である」 
と捉える観点になっても不思議ではありません。

しかし、
臓器が 「役に立つという在り方」 においてのみ顕わになっていれば、

やがて役に立つこと以外の可能性や姿を追い払って
忘却せしめることに繋がります。

つまり、脳死を人の死と定めることは、
人の臓器も 「何かの役に立つ」 という点でしか注目されなくなる
ということに繋がりかねないということです。

この観点においては、当然人間の体は人間の体として、
死は死として守られなくなります。

そしてそれだけに留まらず、
人間がこの科学技術の持つ 「役に立つという在り方の連鎖」 
に加担していくことは、

更に 「何かの役に立つ」 という
技術の本質を手助けするように次々と用立てられていくのです。

一元論の本質は、
そのように連鎖的に関わるよう構造化されているのです。

これを、Heideggerは 「Gestellenの連鎖」 と表現しました。


科学的な観点からのみで人の死を規定するのは、
間違いなくGestellenの連鎖の中にいるからです。

そこに、僕はこの問題の根っこを感じます。


これに抵抗を感じるのは、
あらゆるものとの距離感や、融合の軸を大事にしてきた、
日本人としての抵抗感かもしれません。

また現代においては、この流れとは逆に、
「尊厳死」 ということが盛んに言われているのも事実です。

かつては 「死は尊厳である」 ということは
当たり前であったのかもしれませんが、

尊厳死が取り沙汰される現代は、
死は死として守られ、
死が死としてありうる場が開かれていないのかもしれません。 

むしろ死や病は敵であり、戦う対象である
というネガティヴな視点から見ているため、

守るというよりも、
克服するべき、或いは打ち勝つべき対象
として捉えてしまいがちなのではないでしょうか。

しかし、このように
生と死を二項対立的に捉える考え方は、
元々日本人には、あまり馴染まないように思うのですが
如何でしょう。

 
以上、内容の薄いまま、
脳死や人の死について思うことを
素人的につらつらと書いてみましたが、

要するに人の生や死というものについて、
もっと時間をかけて考えてもいいんじゃないかということです。

人間は 「心」 という厄介なものを抱えていますから、
それは哲学的、或いは宗教的になってしまうかもしれません。

ですが、それでいいと思います。

いつか、
科学とそれらが上手く統合するような観点が生まれれば。

というか、そう願ってます。


脳死について (再録)_b0197735_229409.jpg


名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by hiro-ito55 | 2011-09-20 22:10 | 社会 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります。


by いとちゅー