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生きる美意識 (その2)

芸術家というものは、
一瞬で消えてしまう何かを、永遠の何かに置き換えようと試みる人
であると思います。

例えば詩人であれば、その方法として用いるのは言葉であるし、
音楽家であれば音楽
画家であれば絵画であるといったように、

それぞれが直覚する最適の手段を用いて、
現実を永遠の何かに 『昇華』 しようとする。

彼らは何も自分の使役する方法を用いて、
自己主張を試みるのではない。

そうではなく、優れた芸術家というものは、
今それを、自分の直覚する最適な手段を用いて留めて置かなければ、
それは一瞬で消えてしまうのだという観念に囚われて、仕事をするのです。
 

例えば、花の魅力に魅せられて、花を描きつづけている画家がいる。

ある人から教わったことなのですが、
僕らの遥か前方に紫色の何かがあったとして、
その紫色の何かが何であるか分からない裡は、
僕らはそれを一所懸命に凝視し、興味を惹かれる、

そういうものであるが、

段々と近づいていくにつれ、
その何かが実はスミレの花であると判ったとき、
一瞬にして興味を無くしてしまい、
見るのを止めてしまうということは、よくある事実なのです。
 
しかし、芸術家というものは、
例えそれがスミレであると判ったところで、けして見るのを止めない。
 

何故、見るのを止めないのかといえば、 
いくら見ても見足りないから』 
なのです。
 

これは、僕らの領域で言えば、自閉症の子がひとつのものに拘る、
反復的常同的行動様式(こだわり)に似ているでしょうか。

ひとつのものに拘り続ける彼らの行為の動機は、
ものが自分の知覚に鋭く迫る
という感覚の受容である筈でしょう。

その感覚が、常人よりも少しだけ深いものであるが故に、
ものの方が自分を捕えて離さなくなる。

ものの方から捕えてくるのですから、受け手の自分は、
その行為の段階において、ただ 『反復的』 に成らざるを得ない。

このように、自分ではなく、
ものの方から迫ってくる知覚というものを想像すれば、
自閉症の子が示す 『拘り』 も、 
『僕ら人間の持つ知覚の方法である』 と気づくと思います。

ただ、自閉症の子は、
この知覚の在り方を、上手く日常に昇華させることができない。

そこに彼らの 『苦しみ』 はあります。

そして、芸術家の 『見足りない』 という 『渇き』 もまた、
たった一輪の花にさえ、
僕らの知覚に鋭く迫るものが存在するという 『Real』 を、
直覚しているということであり、
それを繰り返し見定めようとする

そういう行為なのです。

それは恐らく、ひどく苦しみを伴う行為なのでしょう。

古今優れた芸術家というものが、
とかく精神のバランスを崩しがちであることが、
その苦しみの大きさを物語っているように思われます。



生きる美意識 (その2)_b0197735_21402135.jpg

                     (ゴッホ:ひまわり)


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by hiro-ito55 | 2011-04-25 22:02 | 美意識 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります。


by いとちゅー