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 『ある夢の話』 (後半)

 前回のつづきです。

前回は、僕の見た 『夢』 を例に挙げて、
事実の因果論的抽象化というものを、個人の経験的事実に適用した場合は、
その考察には、根本的な間違いが行われる、とさえ思えてくる。

というところまで述べました。

そしてそうであるならば、やはり、 
『経験的事実を背負う』 とは、
これを直視し、それに耐えるということなのでしょう。


このことから一般に、 
『身近な人の死』 というものを考えた場合、
僕にはある疑問が浮かんできます。

それは、
『近しい人の死を経験した人間のその経験を、悟性的判断に委ねることなく、
自分の経験的事実というものだけを直視し、
その孤独な感慨に耐えながらも、前に進む道を選び、
これに進んで耐えようとする
そんな人が、果たして一体どれ程いるのであろうか』
という問いです。


確かに、 『論理的な思考』 というものは、
僕らの生活上の諸問題を、上手く整理してくれているように見えます。

しかし、人の死という 『圧倒的なリアリティー』 は、
既に人間の悟性の判断というものを超えているようにも思えるし、

ならば、人の死にあたってそれを経験したという事実は、
何物にも置き換えることのできるものではなく、
ただ直視し、これに耐えるしかないのではないか。

そのために、 『初七日』 や 『四十九日』 というものがあり、
これは、近しい人の死を、
そのまま自分自身の経験として、孤独にこれを直視し、
ゆっくりと受け入れていくための、 『舞台装置』 であったのではないか。

近しい人の死を、その孤独な感慨に、
誰も独りで耐え切れるものではないのならば、
それはけっして、形式ばった形だけの儀礼なのではないのでしょう。

むしろ、それは生活人の経験から生み出された、 
『生きた智恵』 であった筈であり、

死とはある瞬間を境に、生と切り離されるものではなく、
生と地続きの姿をしている、
そのような在り方を身近に想像してみると、

それはまた同時に、 『命の敬虔』 という、 
『限りある生への直視』 でもあることが分かります。

いかに、口で 『人の命は大事である』 と言ってみたところで、
人の死という、悟性的判断を超えた経験を直視しなければ、
それと地続きである、限りある生への、反省や驚きなど、
生まれよう筈もない筈です。


生と死を分けてみれば、
なるほど、経験は一応はすっきりとするかもしれないが、
分けるということは、生と死に、
それぞれ別々の意味を与えるということではないでしょうか。

そして与えればそこに、個々に意味付けをするための、
人間の悟性というものが、入り込んでくるのです。

そうなれば、人の死はそれを受けとった人の経験を離れ、
いくらでも誤魔化しの効く方便と化してしまう、

そういうものだと思います。

しかし、そうは言ってみても、
ここで自分に都合のよいような解釈に到達せざるを得ない、
人間の知性というものを考えてみると、

その知性もまた、 『人間の弱さの一部』 なのだと、
認めざるを得ないのかもしれませんが....。


そういえば、祖母が亡くなった後、祖父は随分と塞ぎ込んでしまいました。
その様子は、祖母の葬儀にも出席しないほど、徹底されていました。

祖母が亡くなった日から、
周りが何と言おうとも、頑として家から一歩も出ようとせず、
祖父は、ただ淡々と日々を過ごしていたように記憶しています。

あれは、あの姿は、祖母の死という事実に、ひたすら耐えようとしていた、 
『祖父の直向きなまでの姿』 であったのだろうか。

そんなことを、折に触れてふと、考えてしまうことがあります。





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by hiro-ito55 | 2011-03-18 18:36 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります。


by いとちゅー