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『ネット上の仮想コミュニティーはコミュニティーと言えるのか』

『作業療法私的概論その2』 を書き進めようと考えていたら、
コミュニティーのことについて、ついつい気になり出してしまったので、
今回はそれについて書いてみます。



コミュニティーというものを考える際、
ネット上の様々な 『仮想コミュニティー』 が存在する事実は、
もはや無視できないものでしょう。

しかし、僕はこの 『仮想コミュニティー』 というものを、
ツールを用いたバーチャルな世界として、ある程度までは評価しますが、
コミュニティーとして過度には評価していません。


その理由は二つあります。


ひとつめの理由は、
このネット上の仮想コミュニティーにおいては、
繋がりの発信主体は、ほとんど全て 『自分』 にあると言えるからです。

例えば、ある仮想コミュニティーに参加して、
自分が気に入れば(居心地がよければ)饒舌にもなりますが、

もし、気に入らなくなれば、
いつでもカットオフが可能なのが、この繋がりの特徴です。

つまり、そのコミュニティーに存在するか、
そこから消滅するかといった生存の判断は、

ほとんど全て自分の側にその決定権があると言えます。

それは、本質的には、自分と他者との繋がりにおいて、
自分が相手よりも、最終的な決定権において優位に立っている、
という優越感に基礎づけられていなければ、
持続していくことが不可能な繋がりであると言ってもよいものです。

しかも、この優越感は、
自分が不利になれば、いつでも退散が可能という
逃げ道が保障してくれる、やや確信犯的な感情に支えられているとすれば、

その繋がりは、実はとても脆いものなのかもしれません。

この優越感の獲得にさえ失敗した者は、
例えば、他の仮想コミュニティーの間を彷徨う、
云わば 『難民』 のような存在になってしまうのでしょうか。

人間の主体性というものは、
他者との関係性の中で、そのネットワークの中において、
他者からみられる自分という姿が、時間をかけて熟成されていく、
そういうものなのであり、

それは他者から見られる自分というものの、
同一性を獲得していく作業であるのです。

この、 『主体性の非内在性』 を、
ジャック・ラカンは生後6ヶ月の赤ん坊が、
鏡の前で示す行動を分析することで、証明しました。

それを、 『鏡像段階』 と言います。

主体性が自分の側にあると錯覚している場合、
それが、ラカンの言うように、
人間の社会的生物の本質から解離している姿であるならば、

そのような繋がりは、
果たして安定して持続していけるようなものなのか、
少なからず疑問が残るところです。



ふたつめの理由は、 
『仮想コミュニティー』 では、
同じような考えや趣向の人で満たされてしまう特徴があることです。

極端なことを言ってしまえば、
それは 『原理主義』 に発展する可能性を持っています。

コミュニティーの性格的な本質は、 
『自分とは異質なものと共存できる』 ことにあり、

これが可能なコミュニティーが、もっとも安定している集団です。

何故ならば、人間が社会的生物であれば、
異質なものと共存するうちに、自己防衛機能は磨かれ、
社会の中でのバランス感覚は培われるのであり、

云わば、人間の社会性を確保するものは、
そのバランスの中で、自分と他者との 
『境界線と距離感が、時間をかけて成熟する』、
そういうものだからです。

コミュニティーが人間同士の社会性を表した集団であるならば、
コミュニティーとは、
そのような 『忍耐』 を、時に僕らに要求するものです。

結果からみれば、持続・安定しているコミュニティーは、そ
の内部では質的に単一的なものが寄せ集まっているのではなく、
お互いに上手く調和が図れているものである筈でしょう。


質的なものがより均質である集団は、
その集団を形成・維持していくために、
同じ目的やイデオロギーを必要としますが、

質的に均質であればあるほど、
その目的やイデオロギーは、
より強固なものに成らざるを得なくなります。

もしこのような集団が、動物の群れと違うとすれば、
その一点にあると言えるでしょうが、

それは調和というよりはむしろ、
自己のアイデンティティーの集団への投影や依存によって
成り立っているものでしょう。

先程、 
『仮想コミュニティー』 が原理主義に発展する可能性を持っている
と申し上げたのは、そのような意味においてです。



今年に入って、
チュニジアに始まった 『ネット革命』 と呼ばれる運動が、
アフリカや中東の国々において連鎖的に呼応しています。

その運動の原動力となったのも、 
『フェイスブック』 と呼ばれる
ネット上の仮想コミュニティーであると言われています。

今のところ、この仮想コミュニティーは、
原理主義的な性格のものではなかったようですが、

それでも、 『独裁政権打倒』 という目的のもとに、
仮想コミュニティーがこれだけ大きな力を発揮したということは、
注目すべきことでしょう。

何故なら、ネット上の仮想コミュニティーが、
このようは力を持っているという事実は、
共同体(コミュニティー)の性格とはあまりにもかけ離れている、
という事実を示しているように思えるからです。

共同体には、政権を打倒するような暴力的な力などありはせず、
ならばネット上の仮想コミュニティーは、
飽く迄 『仮想』 なのであり、

その姿は、コミュニティーとは違う 『何か別のもの』 である、
と考えた方が良さそうです。

その 『何か別なもの』 が、
どのような定義に当て嵌まる性質のものであるかは分かりませんが、

ひとつ言えることは、このような集団の特徴は、
生身の人間が、五感を働かせて直に接触する、
生活臭のするような生きた繋がりではなく、

人間の脳が作り出した、
極めて聴覚と視覚に依存したデフォルメであるということです。

そして、その姿を覗き込めば、
テクノロジーというツールによって、人間が集団で使役される、
一種の 『Gestellenの連鎖』 を、
そこに見るような気がします。



(次回は、 『作業療法私的概論その2』 を書くつもりです。)





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by hiro-ito55 | 2011-02-23 19:55 | 社会 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります。


by いとちゅー