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「通い」と「断絶の構造化」

地域、家庭、職場(教育現場)。

この三つの仕組みが、それほど明瞭な境界線を持たないことで、
『通い』 のバランスのうちに社会というものが成り立っていた、
という側面は確かにあると思います。

しかし現代は、このそれぞれの関係性が希薄になっています。

関係性が薄れるということは、
抜け道がどんどん無くなるということですので、

それぞれの仕組みは、
それぞれにおいて 『自己完結型』 にならざるを得ないことを意味します。

これを、僕は 『断絶の構造化』 と名付けます。

外のシステムや世界との断絶については、
『地域や共同体について』 の記事の中でも繰り返し述べた通り、

個人レベルにおいても、他者との断絶を繰り返し、
自己完結型の人間が大量に再生産されています。

ひとつの個体から、
或いはひとつの立場から世界を主張し、

それを個性と称して、
自分を中心に 『同心円状に拡大』 していくという在り方が、
殊更強調されるのは、現代社会の病症とも言えるでしょう。

そして、外との関係性が断絶され、運動性が内側に向かう、
このようなベクトルを持った 『自己完結型』 の在り方は、
何も個人レベルの話に留まらず、
社会全体を巻き込んだ形で表面化しています。

この 『自己完結型』 に向かう仕組みが、
その内部で目指すものは何か。

それは、『完全主義』 です。

その中にいる構成員が望む望まないに関わらず、
必ずその仕組みは、自己の中での 『完全・完璧』 を目指します。

外部との 『通い』 が希薄になり、
自身の中で世界が完結する方向に運動が強調されれば、

その器全体から、そのように構造化されていくのです。

恐らく、
近年急増するモンスターペイシェントや、モンスターペアレントも、
この 『断絶の構造化』 と無関係ではありません。

彼らは何故、『キレる』 のか。
何を恐れてそのような在り方になるのか。

僕には、
彼らは 『完璧なお客様』 『完璧な親』 を演じようと、
強迫的に駆り立てられているように見えます。


『完璧』 を自作自演しなければ、誰も自分をフォローしてくれない。

それを恐れるあまり、自身の不完全さが許せず、認められない。

のみならず、
ひとつの個体(立場)から、
外部に不完全さの全ての原因があるかのごとき主張をする。

要するに他責的になるということです。

そのように駆り立てられているように見えます。

ここに、『断絶の構造化』 による 『完璧・完全な個体化』 への
ひとつの希求の形が、
痛々しいまでに、如実に表れているように思えるのです。


戦後、冒頭三つの内でまず力を弱めていったのは、『地域』でした。

それは、大量の若者の、都市部への集団就職という形で、
表面化しています。

それでも、職場が地域の代用品として機能していた頃は、
まだマシでした。

終身雇用制度がほぼ崩壊した現代では、
職場は最早、曲がりなりにも
地域の 『投影体』 としての 『幻影』 ですら、
演じきれなくなっています。

それも、
自己実現を目指す大量の個体を抱え込んだ企業が進んだ、
当然の帰結といえばそれまでですが。

若者が大量に都市部へと流れていき、
地域が社会機能を失っていくことで、
僕らの社会は 『断絶』 の色合いを強めていきました。

『断絶』 は、
外に捌け口のない自己完結的な閉塞感を生み、

また個人レベルでも、
モンスターペイシェントやモンスターペアレントのような、
『完全・完璧を希求する個体』 を生み出してきました。


歴史を振り返れば、
個人レベルでの 『断絶』 と、
地域、家庭、職場(教育現場)相互の 『断絶』 は、

長いスパンで見れば、ほぼ同時進行的に進んできたことが分かります。


現代は、『断絶が構造化』 している社会です。

それを、尚古主義的に、
昔の姿そのままに戻すのが良いとは思いませんが、

例えば成年後見制度のように 『制度化』 したものを、
『通い役』 として、そこに当て嵌めただけでは、

『通い』 の構造は
根本的なところで、立て直しを拒んでいるようにさえ感じます。



渡辺京二著 『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー 2005)は、
江戸末期から明治初期にかけて、
日本を訪れた外国人の目を通して書かれた見聞記を、
詳細に整理したものですが、

そこで彼は二人の外国人の記述を紹介し、次のように述べています。

・『(日本の)家は通りと中庭の方向に完全に開け放たれている。
 だから通りを歩けば視線はわけなく家の内側に入り込んでしまう。
 つまり家庭生活は好奇の目を向ける人に差し出されているわだ。
 人々は何も隠しはしない。』

・『日本人の生活の大部分は街頭で過ごされ、従ってそこで一番よく観察される。
  昔気質の日本人が思い出して溜息をつくよき時代にあっては、
  今日ふさわしいと思われるよりずっと多くの家内の出来ごとが
  公衆の目にさらされていた。...(中略)....
  家屋は暑い季節には屋根から床まで開け放たれており...(中略)...
  夜は障子がぴったりと引かれるが、
  深刻な悲劇や腹の皮のよじれる喜劇が演じられるのが、
  本人たちは気づいていないけれど、影に映って見えるのである。』

・『家屋があけっぴろげというのは、
  生活が近隣に対して隠さず解放されているということだ。
  従って近隣には強い親和と連帯が生じた。』


日本の社会を根本で基礎づけるものは、『通い』 の性格です。

『断絶が構造化』 し、
一人の人間の 『個性』 にその救いと責任を求めること
を強調する現代に生きる僕は、

正直、これが自然に行われていた社会を、
羨ましいと思わざるを得ません。





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by hiro-ito55 | 2010-10-26 23:16 | 社会 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります。


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