考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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エンゼルケアを終えて


先日、看護師さんのエンゼルケアに立ち会った。
長女さんの懸命の呼びかけにも拘らず、その方は二度と息を吹き返すことはなかった。
そして、父親の最期を看取ったの長女さんは、母と交代で一年以上も介護に携わってきた。

自分にとって大切なその人が、老いや障害によって、誰かの手を借りなければ、
生きていくことが困難になる瞬間は、たぶん誰にでもやってくる。

そのときに、愛する人への介護を選択するということは、
自分にとって大切な近しい人と、ともに奮闘していく毎日を通して、
一緒に生きることを目指す厳しさに、自ら身を置く決断をするということだ。

そうして時に、自分にとって大切な人のことが、無条件には愛せなくなる瞬間もあり、
そうした辛い現実とも、しっかりと向き合わなければならなくなることもある。
それは、とても悲しいことなのだと思う。

けれどそれでも、介護を受ける側にしても、介護者にしても、
同じように奮闘していく毎日であることに変わりはない。

実際に介護を進めていけば、
そこには、一緒に生きることを目指して、懸命に介護を続けているという思いもあれば、
その苦労を、頼みたくて頼んでいるわけではないという思いもあるかもしれない。
介護を通してそんな毎日が、やがて巡ってくる可能性はきっと誰にでもある。

けれど介護に関わる以前は、
その本当の大変さについて知らないというのが、ごく一般的な感覚なのだと思う。

だから、誰もがとても戸惑うことになるのだし、
今回、父親の最期を看取ったご家族たちも、
介護が始まってから大変なご苦労をされて、ここまでやってきた。

仕事の有給休暇を介護の時間に充てることや、昼夜交代で休みを取りながら看る毎日は、
介護を受けるご本人も含めて、家族としての生活そのものを一変させてきた。

だからこそ、在宅医療・介護に関わる僕らが、
彼らの苦労に少しでも寄り添い、ともに奮闘することが大事になるのだし、
在宅生活の質を支えるという意味において、その関わりは強い意味を持つのだと思う。

介護は、喜びと悲しみが激しく入れ替わる毎日に、
当事者である彼らが戸惑いながらも、それでもめまぐるしく進んでいくものだ。

いいことばかりではない。でも、辛いことばかりでもない。
そうやって、最後まで人間らしく生きようと奮闘する彼らに対して、
その時々で、彼らに寄り添うケアというものが、僕らはできたのだろうか。

エンゼルケアを終えた後、
大切な人を見送るご家族の姿を見て、僕は今までの自分の姿を振り返っていた。


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# by hiro-ito55 | 2016-08-18 21:07 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

平和


人は、善悪の判断によって悪魔になるのではない。
思想の違いによって悪魔になる。

自分を律する判断ではなく、
思想の相違によって、平気で人を殺すことのできる悪魔になる。

臆病な心は人を支配したがるものだ。
そして、それが成されなかったとき、
その衰弱した精神は、最も残酷な姿を人前に曝け出す。

自分と他人との違いを認めることのできない、
臆病な心を社会に向かって使役する人間は、もう人間とは呼ばない。
思想の家畜だ。

主義主張を掲げることよりも、人が人であるために大事なことがあるとすれば、
それは、生きることへの敬虔を忘れずに持つことに違いない。

誰にとっても、生きることが経験することと同義であるように、
自分の直接経験をとことん信じることで、
他人もまた、同じ道を生きているのだと気づくことができるのだと思う。

そこに目を向けた人間は、
社会化された主義主張を掲げる人間よりも、よほど人間らしく生きることができる。

僕らが生きるということの根源には、
集団化も一般化も合理化も必要のない次元で、命への敬虔が確立していなければならない。

本当の平和が成るというのは、自分の経験を純化していくことに心血を注いだ、
そういう人たちの総意が、ある形になることなのだと思う。


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# by hiro-ito55 | 2016-07-15 20:31 | 哲学・考え方 | Comments(0)

樫の木モック


小さい頃、テレビアニメで『樫の木モック』というのがあった。
僕が見たのは再放送だったけど、その中で大人になっても覚えている話が一つだけある。
めでたしめでたしというか、それがどうしようもなく救われない話だったので、
今でも覚えているのだと思う。

物語に登場するモックは、
木彫り職人のお爺さんが、樫の木から作ったマリオネットの人形。

人形が完成すると命を吹き込まれ、
そこからまるで、一人の人間のように振る舞うことができるようになった。

そしてそこから、お爺さんとの二人暮らしが始まるのだけど、
ある日モックは、学校の同級生の誕生日に催される、食事会に招待されることになった。

その同級生の家はたいへんなお金持ちで、
貧しい暮らしをしていたモックたちには縁遠い場所だったけど、
ぜひにということで、お爺さんも一緒に招待されることになった。

でも実はそれは、親切なお誘いではなく、
テーブルマナーも知らない彼らを招待することで、公の場で二人に恥をかかせようという、
意地悪な同級生たちの策略だった。

見たことも味わったこともない、スープやステーキやケーキ。
お爺さんは次々と運ばれてくるそれらを、美味しそうに食べ始める。
一生味わえないと思っていたご馳走に、我を忘れて夢中になる。
スープは皿から直接飲み干し、ステーキは歯で喰いちぎり、お酒はガブ飲み。

ガツガツと料理を平らげていくお爺さんを見て、
同級生の両親や召使いたちは、蔑むような視線を彼に送り、
意地悪な同級生たちは、ただニヤニヤと笑っている。
やがて彼らは、「汚らしい」「卑しい」という言葉を口にしはじめる。

その様子に耐えられなくなったモックは、
ついにお爺さんに「恥ずかしいからもう帰ってくれ!」と叫んでしまう。

自分が場違いな人間であることに気づいたお爺さんは、
モックに対する申し訳なさと、恥ずかしさでいっぱいになり、
「ごめんよモック」と呟いて退室し、暗い夜道を一人歩いて家路に向かう....。


大人になるまでこのお話しを思い出すのが、僕はとても嫌だった。

お話しの最後に、モックとお爺さんは仲直りするのだけど、
戻ったのは、モックとお爺さん二人だけの、今まで通りの貧しい暮らしだけ。
食事会に出席した他の登場人物たちは、物語の中で、
自分たちの悪意で他人を傷つけたことなど、少しも省みることはない。

だからこれは、どうしようもなく救われない話として、
それからの僕の心に残ってしまった。

もし登場人物の中で、
お爺さんと一緒になってガツガツと食べる、そんな心優しい少年が一人いたなら、
きっとこのお話しは、幼かった僕の心をあんなにもざわつかせることはなかったと思う。

「フランダースの犬」や「ザンボットスリー」など、
最終回では悲しい結末で終わったアニメも色々あるけれど、
子供ごころにも救いのなさを一番に感じたのは、僕にとっては樫の木モックのこのお話だった。











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# by hiro-ito55 | 2016-06-01 00:01 | 日常あれこれ | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー