考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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平和


人は、善悪の判断によって悪魔になるのではない。
思想の違いによって悪魔になる。

自分を律する判断ではなく、
思想の相違によって、平気で人を殺すことのできる悪魔になる。

臆病な心は人を支配したがるものだ。
そして、それが成されなかったとき、
その衰弱した精神は、最も残酷な姿を人前に曝け出す。

自分と他人との違いを認めることのできない、
臆病な心を社会に向かって使役する人間は、もう人間とは呼ばない。
思想の家畜だ。

主義主張を掲げることよりも、人が人であるために大事なことがあるとすれば、
それは、生きることへの敬虔を忘れずに持つことに違いない。

誰にとっても、生きることが経験することと同義であるように、
自分の直接経験をとことん信じることで、
他人もまた、同じ道を生きているのだと気づくことができるのだと思う。

そこに目を向けた人間は、
社会化された主義主張を掲げる人間よりも、よほど人間らしく生きることができる。

僕らが生きるということの根源には、
集団化も一般化も合理化も必要のない次元で、命への敬虔が確立していなければならない。

本当の平和が成るというのは、自分の経験を純化していくことに心血を注いだ、
そういう人たちの総意が、ある形になることなのだと思う。


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# by hiro-ito55 | 2016-07-15 20:31 | 哲学・考え方 | Comments(0)

樫の木モック


小さい頃、テレビアニメで『樫の木モック』というのがあった。
僕が見たのは再放送だったけど、その中で大人になっても覚えている話が一つだけある。
めでたしめでたしというか、それがどうしようもなく救われない話だったので、
今でも覚えているのだと思う。

物語に登場するモックは、
木彫り職人のお爺さんが、樫の木から作ったマリオネットの人形。

人形が完成すると命を吹き込まれ、
そこからまるで、一人の人間のように振る舞うことができるようになった。

そしてそこから、お爺さんとの二人暮らしが始まるのだけど、
ある日モックは、学校の同級生の誕生日に催される、食事会に招待されることになった。

その同級生の家はたいへんなお金持ちで、
貧しい暮らしをしていたモックたちには縁遠い場所だったけど、
ぜひにということで、お爺さんも一緒に招待されることになった。

でも実はそれは、親切なお誘いではなく、
テーブルマナーも知らない彼らを招待することで、公の場で二人に恥をかかせようという、
意地悪な同級生たちの策略だった。

見たことも味わったこともない、スープやステーキやケーキ。
お爺さんは次々と運ばれてくるそれらを、美味しそうに食べ始める。
一生味わえないと思っていたご馳走に、我を忘れて夢中になる。
スープは皿から直接飲み干し、ステーキは歯で喰いちぎり、お酒はガブ飲み。

ガツガツと料理を平らげていくお爺さんを見て、
同級生の両親や召使いたちは、蔑むような視線を彼に送り、
意地悪な同級生たちは、ただニヤニヤと笑っている。
やがて彼らは、「汚らしい」「卑しい」という言葉を口にしはじめる。

その様子に耐えられなくなったモックは、
ついにお爺さんに「恥ずかしいからもう帰ってくれ!」と叫んでしまう。

自分が場違いな人間であることに気づいたお爺さんは、
モックに対する申し訳なさと、恥ずかしさでいっぱいになり、
「ごめんよモック」と呟いて退室し、暗い夜道を一人歩いて家路に向かう....。


大人になるまでこのお話しを思い出すのが、僕はとても嫌だった。

お話しの最後に、モックとお爺さんは仲直りするのだけど、
戻ったのは、モックとお爺さん二人だけの、今まで通りの貧しい暮らしだけ。
食事会に出席した他の登場人物たちは、物語の中で、
自分たちの悪意で他人を傷つけたことなど、少しも省みることはない。

だからこれは、どうしようもなく救われない話として、
それからの僕の心に残ってしまった。

もし登場人物の中で、
お爺さんと一緒になってガツガツと食べる、そんな心優しい少年が一人いたなら、
きっとこのお話しは、幼かった僕の心をあんなにもざわつかせることはなかったと思う。

「フランダースの犬」や「ザンボットスリー」など、
最終回では悲しい結末で終わったアニメも色々あるけれど、
子供ごころにも救いのなさを一番に感じたのは、僕にとっては樫の木モックのこのお話だった。











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# by hiro-ito55 | 2016-06-01 00:01 | 日常あれこれ | Comments(0)

この前、久しぶりに何人かのOTさんやPTさんと話す機会があった。
在宅や病院や研究職、それぞれ挑んでいる分野は異なるだけに、
お話を聞いて、なるほどと感心することがいくつもあったが、インテリジェンスが高い人ほど、
物事を抽象的にというか、観念的に考える傾向は、確かにあるように思う。

自分もいくつか意見を述べさせて頂いたけど、
結局は、自分が関わっている利用者さんやご家族から日々感じること、
或いは、彼らから直接伝えられたことに対して、自分がしたことやできなかったこと、
それに対する思いなどを、雑多にお話しさせて頂いた。

でも例えば、在宅医療やリハをこの先どうしていくべきか、
或いは、どうあるべきかについて聞かれても、たぶん僕は何も答えなかったと思う。

僕も駆け出しの頃は、「OTの将来はこうあるべきだ」などと、
生意気にも周りに吹聴していたことがあったが、
今は経験が身になっていないことを語るのを、極力避けるようにしている。

だから、
自分が実際に見聞きしていないことについて意見を聞かれたときは、
「分からない」と答えることも多くなった。


抽象的に考えることは、何か物事全体を捉えているかのように錯覚しやすいし、
毎日の現実的な選択よりも、高次な価値観を持っていると誤解しやすい。

けれどよほど注意していなければ、観念的に捉えたその言葉の意味についての無知や、
責任についての無関心に、気づくことはできない。
錯覚や誤解に基づいて語られる言葉は、非現実的なただのお喋りにすぎないということに、
なかなか気づくことができない。


「認知症で普段喋らない母が、食事介助中に私の目を見てありがとうと言ってくれた」
「妻が亡くなり、昼間独りになるけれど、デイに行く気にはなれない」
「夫の物忘れや世話は大変だけれど、息子と協力して家庭を守っていこうと決めた」
「車いすにもう少し長く座れれば、一緒に買い物を楽しむことができる」.....。

毎日のように利用者さんや、それを支えるご家族たちと接していると、
実に様々な悩みや喜び、楽しみがあると気づくことは多いと思う。

そこから僕らは、その人たちが在宅で充実した生活を送るためにはどうしたらいいかを、
自分なりに考えていく。

それは、相手について考えることと同時に、自分自身に何ができるのかという、
相手との間で共有しえた、現実問題を考えることにも繋がる。

そうして得た答えや疑問が、
自分が本当に考えたい問題であったり、取り組むべき課題となっていくこと、

それが何よりも大事なことで、
それが僕らにとって、遥かに現実的な力を持っているのだと信じている。

在宅医療やOTの将来をどうしていくべきかについて、考えることも必要かもしれないが、
利用者さんの前にいる、たった一人の臨床家であろうとする限り、
直接的な経験から自分の言葉が生まれ、世界を語ることができるのではないか。

そうして生まれた言葉は言葉で終わるのではなく、
利用者さんたちを支える様々な選択肢や、可能性という形になっていくことを、
僕らは日々の実践を通して経験している。

雄弁な主義者にも、ただのお喋りにもなる必要はない。
僕らはただ、現実に悩む人の選択肢であり、戸惑う人の伴走者であればいいと思う。


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# by hiro-ito55 | 2016-05-12 19:44 | 作業療法 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー