桜の木


庭の入り口に、大きな桜の木がそびえている。
娘さんが生まれた記念にと植えた木だから、樹齢50年になるという。

毎年きれいな花を咲かせるこの木も、去年は見ることができなかった。
玄関から、ほんの15メートルほどの距離にあるのに、
その距離が、途方もなく長いものに感じられた。

今年も諦めかけていた。

でも、ほんの少しだけ春めいた日に、
何か月ぶりだろう、外の空気を吸うことができた。

午後の暖かな春の空気を、全身で味わうようにゆっくりと顔を上げ、
その人は、まだ咲かぬ桜の木を眺めている。

その木に、その手で触れるまで、まだ10メートル以上の距離がある。

何でもない距離だったはずなのに、
椅子に腰かけ、傍らに立つセラピストに娘の思い出話をすることが、
今のその人の心を落ち着かせている。


なぜ、自分の力で歩きたいのか。
それは、桜の木を自分の目で見たいから。歩いて、自分の手で触れたいから。

頑張りたいからじゃない。
自分にもできることを、家族やセラピストに見せつけたいからでもない。
ただ、自分で植えたあの桜の木を見たいだけ。


毎年毎年、満開の花を咲かせるたびに一番に喜んでくれたのは、
障害を持って生まれてきた娘だった。

不自由な体を不憫に思うこともあった。
こんな形でしか生を与えることができなかったことを、申し訳なく思うこともあった。

でも、今年も元気に咲いてくれたこと、娘の笑顔を見られたこと、
満開のその木を眺めるたびに、家族でいることの幸せをいつも感じることができた。

その木には、
成長とともに重ねた年月と同じだけ、今も変わらぬ大切な思いが詰まっている。

だから今年も、あの桜を一緒に見たい。
咲き誇る桜の木に、今年も変わらぬ姿を見せられるように。


歩きたいと思うその人の願いは、桜の木を見ること。
歩いて、自分の手でそれに触れることなんだ。


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# by hiro-ito55 | 2017-04-01 21:53 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

感動するということ


歌や詩というものは、その姿や形にこそ人を惹きつける力がある。
普通は、言いたいことや訴えたいことを考えるのが難しいと考えやすいが、
言葉やメロディーの型を決めて、それを表現するほうが難しい。

人が訴えたいことは、
乱暴に言えば、喜怒哀楽の四つしかないと言ってしまってもいいと思う。

表したいことが喜びなのか怒りなのか、哀しみなのか楽しみなのか、
歌や詩の元となるそういった内的な動機は、驚くほど単純なものだ。

でも、その気持ちや情景を表現するための言葉やメロディーを考えたとき、
或いはそれを見つけようとしたとき、
それにはこの言葉しかない、或いはこのメロディーしかないという、
他に置き換えることのできない言葉や旋律の発見や構築が、歌や詩の形を決める。

そして、それを確かなものとすることに、詩人やアーティストの意識は注がれる。


歌や詩が、なぜ人の心を動かすのか。
それはそこに私心がないからだ。

自分が思うのはこれだ、自分が感じることはこうだと、
それをそのまま表現したものは、書いた人の自我にすぎない。

感動は、見る人聴く人と、表現する人との共有物だ。
具体的な気持ちや情景が、ありありと聞く人の心にも思い浮かぶことだ。
自我を相手に見せつけることではない。

だから、本当にいい詩や音楽は、見る人聴く人の心を落ち着かせるもので、
自然とそういう形や姿をとるものとなる。

誰も、自分は感動するぞと、心に決めて詩や音楽に感動するわけではない。
自分というものを忘れて夢中になるからこそ、心を突き動かされるのだ。

それを無心と呼ぶのだし、自己表現に囚われているというよりも、
それはむしろ自分という殻を突破された経験を、確かにしているということだ。
だから、感動は見る人聴く人と表現する人との、共有物と成り得ることができる。


感動するのは、なにも詩や音楽だけでなくてもいい。
リハビリを続けて、やっと少し歩けるようになった...。
自分の手で食べることができた...。
庭に出て外の空気を吸うことができた...。

その瞬間に立ち会えたとき、僕らはそれをともに喜ぶことができる。

そのとき僕らは、無心になっている。
相手もまた、無心になってその瞬間を迎えている。

それは、その姿や形を共有できている瞬間なのだと思う。
感動という共有物が、形を得た瞬間なのだと思う。

具体的な気持ちや情景が、ありありと互いの心にも思い浮かぶからこそ、
僕らは、何かを共有するということの掛けがえのなさを、知ることができる。


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# by hiro-ito55 | 2017-02-07 21:48 | 哲学・考え方 | Comments(0)

これからも言葉を大事にしていきたい


今年は例年になく忙しく、また充実した年となりました。
忙しさの影響か、このブログを更新する機会も、随分と少なくなった年でもありました。

ブログは、自分の考えを自分で認識するためには、とても有意義なツールです。
考えや思いを言語化せず、その感情をそのまま日常の中で消費していくことは、
毎日を漠然と過ごすという生き方に繋がりかねません。

忙しさの中にも、自分の思いや感じたことに流されず、
人として、少しずつ成長していくためには、言語化という作業が重要なように思います。

僕には好きな、というか、非常にすっきりとくる言葉があります。
それは、「人はいつから大人になるのか」という問いに対する答えです。
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「自分の世界を、自分の言葉で言い表せたとき、人は大人になる。
 借り物の言葉をいくら使っても、何を話しているのかすら自分でも分からない。
 それに気付くことができたとき、人は自分の言葉を持とうとする。

 自分の言葉で語ろうとする本能によって、
 それぞれが、それぞれの生に対する答えを見つけようとする。」
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               ・
それは人間だけがなぜ、言葉というものを持ったのか、
という問いに対する、ひとつの答えだと僕は思います。

だからこそ、僕は自分の経験を大事にしていきたい。
自分の言葉は、自分の経験から生まれてくるものだから。


来年は、もう少し自分の考えを整理して言語化できるよう、
今以上に自分を見つめ直すことができる、そんな年にしていきたいと思います。

今年も一年間、ありがとうございました。
来年は、皆様にとって良い一年でありますように。


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# by hiro-ito55 | 2016-12-31 17:47 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


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