考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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今回も作業療法とはあまり関係のない話ですが、
最近、僕は 「地域」 「共同体」 といったものに
少し関心を持ち始めていますので、

今回はそれについて少し書きたいと思います。


僕らの社会は、僕らの親の世代あたりから、
大量生産・大量消費の生活を絶え間なく、ずっと追及してきました。

でもそれは同時に、
地域共同体の解体作業そのものであったとも感じています。

大量消費社会というものは、
かんたんに言えば 「ひとりで自由に使えるお金をたくさん持ちましょう」 
ということで、

自分のお金を使うのに、
いちいち親や親戚、兄弟などの承認を必要としていては、
消費活動自体が滞ってしまいます。

消費活動を滞らせる生活よりも、
そうでない生活を半ば連続的・脅迫的に選択してきた
僕らのその絶え間ない消費行動への追求は、

「個性」 や 「自由」 や 「自己実現」 
といったイデオロギーの名の下に加速され、

それを遮る 「やっかいな結びつき」 は、
僕らの意識の隅の方と追いやられていきました。

こうして、
人と人との結びつきの基本である地域共同体は
どんどん解体されていったのでしょう。

つまり長い間、直向きに我々が目指してきたのは、
上記のイデオロギーの下に消費活動を加速させ、

消費主体を地域共同体にとっては
これ以上分割できない個人レベルへと、
細分化していく作業そのものであったと言えるのではないでしょうか。

それが極限まで追求されて、
老人の孤独死や高齢化、少子化、ニート、引きこもり

といったものを生み出してしまったのだと思います。

ですから、これらの問題は、
我々が絶え間なく努力してきた 「結果」 として、
受け取らなければならないのだと思います。

そして、僕らのその絶え間ない努力はまた、
同時に 「もの」 や 「ひと」 の価値を、
ひたすら下げ続ける作業でもあった筈です。

例えば、一昔前までは歌手になることは
ほんの一握りの人間に与えられた特権であったはずです。

歌手になるために音楽学校に通い、
ボイストレーニングのような専門家の指導を受け、

場合によっては留学し、
それでも一流と呼ばれる歌手になり、
レコードが売れる人はそう多くはありませんでした。

しかし、現代では
作った歌がミリオンセラーとなる人やグループも珍しくなく、

ましてや似たような表現をし、
ミリオンセラーを達成するミュージシャンは巷間に溢れています。

そして、「二番煎じ」 や 「三番煎じ(?)」 の登場によって、
彼らの 「寿命」 もどんどん短くなっています。

歌手よりもお笑い芸人と呼ばれる人達の方が、
その傾向は顕著かもしれません。

去年ブームになった芸人が、
今年はほとんどテレビで見かけなくなった
ということがよくありますから。

つまり、歌や歌手や芸がすぐに代替可能で、
「あなたでなくても他に同じよう表現をする人はいくらでもいるし、
 すぐに売れる歌はいくらでも探せるよ」
ということなのかもしれません。

そして、歌や芸に限らず
このような代替可能なサイクルは、
あらゆる分野で年々加速しているようにさえ感じます。

同じようなことは、「表現」 を 「仕事」 に、
「売れる歌」 を 「雇える人」 に入れ替えれば、

大企業のサラリーマンにも当てはまりそうです。

(その②に続く...)




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# by hiro-ito55 | 2010-08-15 19:57 | 社会 | Comments(0)

靖国参拝と日本人

今日のNHKで、
今年の8月15日の靖国神社への公式参拝を、全閣僚が見送った
というニュースを見ました。

政治のことには詳しくありませんが、
恐らく、そこには政治的判断が働いたのでしょう。

閣僚が靖国に参拝した結果得られる利益よりも、
参拝しないで得られる利益の方が大きい、

彼らはそう判断したのでしょう。たぶん。

8月15日に政府の閣僚が靖国に公式参拝すれば、
日本と中国や韓国など東アジア各国との関係が一時的にしろ拗れて、

その 「拗れ」 は政治に限らず、
経済の分野にも影響することは、
今や誰にでも予想がつくことです。

その結果、得をするのはアメリカかもしれませんし、
日本政府としてはそれを恐れているのかもしれません。

この政治的判断の詳しい分析は専門家にお任せするとして、
僕個人の意見としては 「参拝しろ」 とまでは言いませんが、
「参拝してもいいんじゃないか」 とは思います。

というのも、
亡くなった人をどのように国内で祀るかは、
その国の人が決めることで、

基本的に他の国の人がどうこう言う問題ではないと思うからです。

「死者をどう扱うか」。

それはその国の持つ宗教観と強く結びついています。

そしてそれは、原初的で根源的なところで、
同じ共同体であることの確からしさ、

つまり共同体のアイデンティティーを形成しています。

そこに横から異を唱えるということは、
相手のアイデンティティーの否定を意味しますし、

それは日本人を認めないということと同義です。

中国や韓国から靖国の参拝に異を唱えてくるのは、
戦犯と呼ばれる人たちを 「合祀」 しているからだと言われていますが、

悪人も善人も死んでしまえばただの仏様
というのが、日本人の宗教観です。

現に、明治政府にとっては敵であった徳川幕府の創始者は、
日光で東照大権現として今も祀られていますし、

天皇家にとって反逆者であった平将門の墓も、
現代まで残されています。

易姓革命によってその都度、
自らの王朝の正当性を主張してきた儒教文化圏のように、

滅ぼされた前王朝は 「悪」 であり、
その 「悪」 は死んでも変わらないとする思想とは、
根本的に死者に対する扱いが違うのです。

そのように主張すればいいと思いますし、
死者をどう扱うかは、日本人のアイデンティティーに関わることですから、

政治的判断で扱う問題ではない
と個人的には思うのですが、

政治家という立場でものを見れば、
見方も行動もまた違うものになるのでしょうね。




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# by hiro-ito55 | 2010-08-10 20:38 | 哲学・考え方 | Comments(0)
最初の記事にしては内容が重いですが、
我々医療に携わる者にとって、
「死」 は避けては通れないテーマですので、載せておきます。

一応最初に断っておきますが、
僕は決して科学技術を否定しているわけではありません。

あるイデオロギーへの 「偏重」 や 「一元的な考え」
が嫌いなだけです。

そう思って読んでください。


僕が 「脳死」 に違和感を持つのは、
一言でいってしまえば 
『「脳の死」という一点で、人の死を規定してしまって良いものなのか』
ということです。

また、倫理的観点から言えば、
臓器提供されるために脳死を待つということは、

他人の死を待つということですから、
それは仏教における 「迷い」 に当たるのではないか
という意見も一部であるようです。

そもそも、死は生の一部であるという捉え方が、
長い間日本人には一般的だった
という話を聞いたことがあります。

ですから、長い間、「死」 自体
或いは死を含んだ 「生」 までもが
「割り切れないもの」 
として捉えられてきたのではないでしょうか。

その証拠に例えば、死をゆっくりと受け入れていくために、
「初七日」 や 「四十九日」 があり、

そういった一種の割り切れなさというか、
智慧みたいなものが、
死という在り方自体に含まれていたと想像できます。


そこで、今回のテーマですが、

脳死を人の死とすることは、
この割り切れない死と生の境界を、
科学的観点という 「線」 で無理やり明確化し、

我々が無意識的にも抱いている、
死を生の一部と捉える割り切れなさを、
無理やり割り切らせようとする行為
であるように、少なくとも僕には感じられてしまいます。

更に、「死」 を科学的観点という一点で規定してしまうことで、
ちょうど合わせ鏡のように 
「生」 も同じ観点で規定されてしまうのではないか、
と思えてきます。

つまり、科学的に 「死」 を規定すれば、
「生」 も科学的に計量化されてしまう

この問題は、そういう危険性を含んでいるように思います。

むしろ、こっちの方が恐ろしいかもしれません。

「いかに生きるか」 「いかに死と向き合うか」
といった個人個人の価値観に還元される
そういう性質のものに、

科学的に、或いは一元的に線を引いてしまうことは、
非常に危険な風潮のように思われるのです。


そういえば、
「心身一如観」を採用してきたのも日本人ですが、

日本語の中には、「身にしみて」 
或いは 「他人の身になって」 という表現があります。

これは 「全体的な存在になって思う」 という在り方であって、
「他人の身になって」 の 「身」 というのは、
単に英語で表現される 「Body」 のことではありません。

この 「全体的なものになって思う」 という心身一如観のあり方にも、
「心と身体」 という二元論からの観点では説明できない、
割り切れないものが多分に含まれていますね。


さて、少し話は逸れましたが、
極論を言ってしまえば、

現代において死や病とは 「事故」 であり、
「科学の敵」 です。

これは、死や病を戦うべき対象と規定し、

医療とは、
死や病という 「科学の敵」 に対し行なう 「戦争」 である
というような捉え方です。

そして、戦うべき対象と規定すれば、
次に、これをいかに、どのようにして克服するべきか
に主眼が置かれます。

これは何も医者の側に限ったことではなく、
それと向き合う患者さんも
死や病と戦うことを強制されていますし、

それを半ば当然のこととして受け入れているのが現代です。
(受け入れざるを得ないのかもしれませんが)

でも、本当に死や病とは敵であり、
単に戦う対象であるべきものなのでしょうか。

ここに脳死判定の是非も含めて、
人間の生死という問題を考えるとき、

そこに科学技術が深く関わっていることが、
この問題の根底を成しているように思われます。


科学技術は人間の役に立つために存在するものですから、
M.Heidegger的な表現を用いれば、

臓器までも 「人間に役立つ部品である」 
と捉える観点になっても不思議ではありません。

しかし、
臓器が 「役に立つという在り方」 においてのみ顕わになっていれば、

やがて役に立つこと以外の可能性や姿を追い払って
忘却せしめることに繋がります。

つまり、脳死を人の死と定めることは、
人の臓器も 「何かの役に立つ」 という点でしか注目されなくなる
ということに繋がりかねないということです。

この観点においては、当然人間の体は人間の体として、
死は死として守られなくなります。

そしてそれだけに留まらず、
人間がこの科学技術の持つ 「役に立つという在り方の連鎖」 
に加担していくことは、

更に 「何かの役に立つ」 という
技術の本質を手助けするように次々と用立てられていくのです。

一元論の本質は、
そのように連鎖的に関わるよう構造化されているのです。

これを、Heideggerは 「Gestellenの連鎖」 と表現しました。


科学的な観点からのみで人の死を規定するのは、
間違いなくGestellenの連鎖の中にいるからです。

そこに、僕はこの問題の根っこを感じます。


これに抵抗を感じるのは、
あらゆるものとの距離感や、融合の軸を大事にしてきた、
日本人としての抵抗感かもしれません。

また現代においては、この流れとは逆に、
「尊厳死」 ということが盛んに言われているのも事実です。

かつては 「死は尊厳である」 ということは
当たり前であったのかもしれませんが、

尊厳死が取り沙汰される現代は、
死は死として守られ、
死が死としてありうる場が開かれていないのかもしれません。 

むしろ死や病は敵であり、戦う対象である
というネガティヴな視点から見ているため、

守るというよりも、
克服するべき、或いは打ち勝つべき対象
として捉えてしまいがちなのではないでしょうか。

しかし、このように
生と死を二項対立的に捉える考え方は、
元々日本人には、あまり馴染まないように思うのですが
如何でしょう。

 
以上、内容の薄いまま、
脳死や人の死について思うことを
素人的につらつらと書いてみましたが、

要するに人の生や死というものについて、
もっと時間をかけて考えてもいいんじゃないかということです。

人間は 「心」 という厄介なものを抱えていますから、
それは哲学的、或いは宗教的になってしまうかもしれません。

ですが、それでいいと思います。

いつか、
科学とそれらが上手く統合するような観点が生まれれば。

というか、そう願ってます。




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# by hiro-ito55 | 2010-08-09 18:20 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー