リハビリの歩行練習にて

今日、仕事である利用者さんの歩行練習を、
平行棒内で一緒に行いました。

彼女は、Tさんという90歳代の小柄な女性で、
目立った身体の麻痺はない方です。

そのTさん、歩くときに前に出す足のつま先は、
必ず内側を向いて地面に接地するのです。

左右両足とも。

当然、平行棒に掴まりゆっくりとした歩行になります。

ふと、疑問に思い、Tさんに
「昔、着物をきていませんでしたか」 と尋ねてみたところ、
「そうだ。」 と答えてくれました。

いつも黙々と歩くだけのTさんが、
「みんな、足をしっかりと真っ直ぐにして歩けと言うけど、
昔の癖なもんでしょうがないわ。今更直せん」
と笑いながら話してくれました。

ついでに、僕が 「じゃあ、ナンバ(歩行)だったんですか」 と訊くと、

大声で笑いながら
「おお、そうだそうだ」 と嬉しそうに答えてくれました。


ナンバとは、着物が着崩れしないように、
同側の手と足を前に出して歩く歩き方のことです。

それで、
「じゃあ、着物を着ているつもりで、ちょっと歩いてみましょうか」
と僕が言うと、

Tさんは急に背筋をピンと伸ばして歩き出しました。

それはもう綺麗な姿勢で。

これは、今日僕が経験した、
リハビリ中の利用者さんとの何気ないやりとりです。

通常、僕らは利用者さんに対して「正しい姿勢」 「正しい動作」を、
知らず知らず押し付けてしまいがちです。

でも、時と場合によっては、
それはこちらの価値観を相手に強制することにもなります。

時代時代によって、例えば髪型が違うように、
或いは言葉使いが異なるように、

身体の運用の仕方も、現代の僕らとは違うことがあります。

それは、どれが 「正しい」 というものでもありません。

「経験」 の違いなのです。

僕らが経験してきた身体の使い方と、
彼女の経験してきたそれとが 「違う」 という、
ただそれだけのことなのです。

極論を言えば、
Tさんに僕らの考える「正しい歩き方」を適用させようとすることは、

彼女の 「着物を着て生活していた」 
という生活経験を、少なからず否定することになります。

こちらにその意思がなくとも、
受け手は単に言葉という記号伝達以上のメッセージとして、
そのように受け取ることがあるのです。

それを今日、Tさんとのやりとりで改めて感じました。

でも、Tさんには
「洋服を着たときには、洋服を着た歩き方というものがあるのも、
 また事実ですけどね。」
とちゃんと伝えときました。

Tさんは当然、笑っていましたが。




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# by hiro-ito55 | 2010-08-19 23:18 | 作業療法 | Comments(0)

絵画の視点でみる作業療法

西洋で絵画として 「風景画」 が成立するのは、
16世紀末~17世紀の頃だと言われています。

一方日本では、9世紀頃から風景画というものはありました。

例えば「曼荼羅」がそれです。

曼荼羅には
①金剛界曼荼羅と
②胎蔵界曼荼羅の
二種類があり、

この二つを合わせて「両界曼荼羅」というそうです。

この曼荼羅が大陸から日本に伝わり、
その後年月をかけて山や川や鹿などをモチーフに取り入れ、
日本独自の曼荼羅が描かれるようになりました。

また、源氏物語の絵にあるように、
屋根の上から建物内部の様子が見えるように描いた絵も、
一種の風景画といえるでしょう。

ここで、日本の絵画で特徴的なのは 
「視点が複数ある」 ということです。

「視点が、描かれているそのものに応じてある」
といってもいいかもしれません。

そして、絵の中にはっきりとした 「明暗」 を付けないのは、
そのものに応じて視点を動かせば、
「明」も「暗」もその都度変わるという観点からです。


これに対し西洋画の場合は、
一般的にひとつの固定した視点から、ものを描きます。

「主体が客体を見る」のです。

そのために、遠近法というものがあるのですが、
これは、ひとつの統一した視点で世界を纏めるという描き方です。

日本の場合は逆で、
「描かれているそれぞれの客体から見る」のです。

いわば 「客体の立場になって描く」 のです。

そのため、視点が自由に動きます。

例えば、葛飾北斎の 「富嶽三十六景」 に 「神奈川沖波裏」 という
有名な大波の絵がありますが、

ここで描かれている大波は
常識では考えられない程の大きさで描かれています。

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これは、「舟の上で縮こまっている人から見た(感じた)波の様子」 
として描かれていると見るべきだと思います。

大波を目の当たりにした舟上の彼らが感じたそのままを、表現しているのです。

これは、日本人の持つ独特な表現の仕方・感覚だと思います。


さて、日本人に合ったリハビリを考えるとき、
このような 「主体からの視点で固定しない」 という発想で
捉えることはできないものでしょうか。

我々作業療法士も、
障害を克服するべき、或いは戦うべき相手として規定し、

それを乗り越えようと治療を施していくという発想を、
半ば当たり前のように採用しています。

しかし、このように 「自分」 を主体として固定し、
その 「自分」 という主体から見た 「障害」 を客体として見据え、

それを乗り越えよう・克服しようと取り組むというのは、
どちらかというと西洋的な発想です。

そのように固定した二項対立的な発想で捉えるよりは、
むしろ自分や障害や周りの環境を 「基本的には」 固定せず、

「お互いの程良い距離感を保つ」 という関係性の在り方で、
もう一度作業療法を捉え直してみることは
できないものでしょうか。




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# by hiro-ito55 | 2010-08-18 23:13 | 作業療法 | Comments(0)

「地域」や「共同体」について~その①~

今回も作業療法とはあまり関係のない話ですが、
最近、僕は 「地域」 「共同体」 といったものに
少し関心を持ち始めていますので、

今回はそれについて少し書きたいと思います。


僕らの社会は、僕らの親の世代あたりから、
大量生産・大量消費の生活を絶え間なく、ずっと追及してきました。

でもそれは同時に、
地域共同体の解体作業そのものであったとも感じています。

大量消費社会というものは、
かんたんに言えば 「ひとりで自由に使えるお金をたくさん持ちましょう」 
ということで、

自分のお金を使うのに、
いちいち親や親戚、兄弟などの承認を必要としていては、
消費活動自体が滞ってしまいます。

消費活動を滞らせる生活よりも、
そうでない生活を半ば連続的・脅迫的に選択してきた
僕らのその絶え間ない消費行動への追求は、

「個性」 や 「自由」 や 「自己実現」 
といったイデオロギーの名の下に加速され、

それを遮る 「やっかいな結びつき」 は、
僕らの意識の隅の方と追いやられていきました。

こうして、
人と人との結びつきの基本である地域共同体は
どんどん解体されていったのでしょう。

つまり長い間、直向きに我々が目指してきたのは、
上記のイデオロギーの下に消費活動を加速させ、

消費主体を地域共同体にとっては
これ以上分割できない個人レベルへと、
細分化していく作業そのものであったと言えるのではないでしょうか。

それが極限まで追求されて、
老人の孤独死や高齢化、少子化、ニート、引きこもり

といったものを生み出してしまったのだと思います。

ですから、これらの問題は、
我々が絶え間なく努力してきた 「結果」 として、
受け取らなければならないのだと思います。

そして、僕らのその絶え間ない努力はまた、
同時に 「もの」 や 「ひと」 の価値を、
ひたすら下げ続ける作業でもあった筈です。

例えば、一昔前までは歌手になることは
ほんの一握りの人間に与えられた特権であったはずです。

歌手になるために音楽学校に通い、
ボイストレーニングのような専門家の指導を受け、

場合によっては留学し、
それでも一流と呼ばれる歌手になり、
レコードが売れる人はそう多くはありませんでした。

しかし、現代では
作った歌がミリオンセラーとなる人やグループも珍しくなく、

ましてや似たような表現をし、
ミリオンセラーを達成するミュージシャンは巷間に溢れています。

そして、「二番煎じ」 や 「三番煎じ(?)」 の登場によって、
彼らの 「寿命」 もどんどん短くなっています。

歌手よりもお笑い芸人と呼ばれる人達の方が、
その傾向は顕著かもしれません。

去年ブームになった芸人が、
今年はほとんどテレビで見かけなくなった
ということがよくありますから。

つまり、歌や歌手や芸がすぐに代替可能で、
「あなたでなくても他に同じよう表現をする人はいくらでもいるし、
 すぐに売れる歌はいくらでも探せるよ」
ということなのかもしれません。

そして、歌や芸に限らず
このような代替可能なサイクルは、
あらゆる分野で年々加速しているようにさえ感じます。

同じようなことは、「表現」 を 「仕事」 に、
「売れる歌」 を 「雇える人」 に入れ替えれば、

大企業のサラリーマンにも当てはまりそうです。

(その②に続く...)




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# by hiro-ito55 | 2010-08-15 19:57 | 社会 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


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