考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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西洋で絵画として 「風景画」 が成立するのは、
16世紀末~17世紀の頃だと言われています。

一方日本では、9世紀頃から風景画というものはありました。

例えば「曼荼羅」がそれです。

曼荼羅には
①金剛界曼荼羅と
②胎蔵界曼荼羅の
二種類があり、

この二つを合わせて「両界曼荼羅」というそうです。

この曼荼羅が大陸から日本に伝わり、
その後年月をかけて山や川や鹿などをモチーフに取り入れ、
日本独自の曼荼羅が描かれるようになりました。

また、源氏物語の絵にあるように、
屋根の上から建物内部の様子が見えるように描いた絵も、
一種の風景画といえるでしょう。

ここで、日本の絵画で特徴的なのは 
「視点が複数ある」 ということです。

「視点が、描かれているそのものに応じてある」
といってもいいかもしれません。

そして、絵の中にはっきりとした 「明暗」 を付けないのは、
そのものに応じて視点を動かせば、
「明」も「暗」もその都度変わるという観点からです。


これに対し西洋画の場合は、
一般的にひとつの固定した視点から、ものを描きます。

「主体が客体を見る」のです。

そのために、遠近法というものがあるのですが、
これは、ひとつの統一した視点で世界を纏めるという描き方です。

日本の場合は逆で、
「描かれているそれぞれの客体から見る」のです。

いわば 「客体の立場になって描く」 のです。

そのため、視点が自由に動きます。

例えば、葛飾北斎の 「富嶽三十六景」 に 「神奈川沖波裏」 という
有名な大波の絵がありますが、

ここで描かれている大波は
常識では考えられない程の大きさで描かれています。

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これは、「舟の上で縮こまっている人から見た(感じた)波の様子」 
として描かれていると見るべきだと思います。

大波を目の当たりにした舟上の彼らが感じたそのままを、表現しているのです。

これは、日本人の持つ独特な表現の仕方・感覚だと思います。


さて、日本人に合ったリハビリを考えるとき、
このような 「主体からの視点で固定しない」 という発想で
捉えることはできないものでしょうか。

我々作業療法士も、
障害を克服するべき、或いは戦うべき相手として規定し、

それを乗り越えようと治療を施していくという発想を、
半ば当たり前のように採用しています。

しかし、このように 「自分」 を主体として固定し、
その 「自分」 という主体から見た 「障害」 を客体として見据え、

それを乗り越えよう・克服しようと取り組むというのは、
どちらかというと西洋的な発想です。

そのように固定した二項対立的な発想で捉えるよりは、
むしろ自分や障害や周りの環境を 「基本的には」 固定せず、

「お互いの程良い距離感を保つ」 という関係性の在り方で、
もう一度作業療法を捉え直してみることは
できないものでしょうか。




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# by hiro-ito55 | 2010-08-18 23:13 | 作業療法 | Comments(0)
今回も作業療法とはあまり関係のない話ですが、
最近、僕は 「地域」 「共同体」 といったものに
少し関心を持ち始めていますので、

今回はそれについて少し書きたいと思います。


僕らの社会は、僕らの親の世代あたりから、
大量生産・大量消費の生活を絶え間なく、ずっと追及してきました。

でもそれは同時に、
地域共同体の解体作業そのものであったとも感じています。

大量消費社会というものは、
かんたんに言えば 「ひとりで自由に使えるお金をたくさん持ちましょう」 
ということで、

自分のお金を使うのに、
いちいち親や親戚、兄弟などの承認を必要としていては、
消費活動自体が滞ってしまいます。

消費活動を滞らせる生活よりも、
そうでない生活を半ば連続的・脅迫的に選択してきた
僕らのその絶え間ない消費行動への追求は、

「個性」 や 「自由」 や 「自己実現」 
といったイデオロギーの名の下に加速され、

それを遮る 「やっかいな結びつき」 は、
僕らの意識の隅の方と追いやられていきました。

こうして、
人と人との結びつきの基本である地域共同体は
どんどん解体されていったのでしょう。

つまり長い間、直向きに我々が目指してきたのは、
上記のイデオロギーの下に消費活動を加速させ、

消費主体を地域共同体にとっては
これ以上分割できない個人レベルへと、
細分化していく作業そのものであったと言えるのではないでしょうか。

それが極限まで追求されて、
老人の孤独死や高齢化、少子化、ニート、引きこもり

といったものを生み出してしまったのだと思います。

ですから、これらの問題は、
我々が絶え間なく努力してきた 「結果」 として、
受け取らなければならないのだと思います。

そして、僕らのその絶え間ない努力はまた、
同時に 「もの」 や 「ひと」 の価値を、
ひたすら下げ続ける作業でもあった筈です。

例えば、一昔前までは歌手になることは
ほんの一握りの人間に与えられた特権であったはずです。

歌手になるために音楽学校に通い、
ボイストレーニングのような専門家の指導を受け、

場合によっては留学し、
それでも一流と呼ばれる歌手になり、
レコードが売れる人はそう多くはありませんでした。

しかし、現代では
作った歌がミリオンセラーとなる人やグループも珍しくなく、

ましてや似たような表現をし、
ミリオンセラーを達成するミュージシャンは巷間に溢れています。

そして、「二番煎じ」 や 「三番煎じ(?)」 の登場によって、
彼らの 「寿命」 もどんどん短くなっています。

歌手よりもお笑い芸人と呼ばれる人達の方が、
その傾向は顕著かもしれません。

去年ブームになった芸人が、
今年はほとんどテレビで見かけなくなった
ということがよくありますから。

つまり、歌や歌手や芸がすぐに代替可能で、
「あなたでなくても他に同じよう表現をする人はいくらでもいるし、
 すぐに売れる歌はいくらでも探せるよ」
ということなのかもしれません。

そして、歌や芸に限らず
このような代替可能なサイクルは、
あらゆる分野で年々加速しているようにさえ感じます。

同じようなことは、「表現」 を 「仕事」 に、
「売れる歌」 を 「雇える人」 に入れ替えれば、

大企業のサラリーマンにも当てはまりそうです。

(その②に続く...)




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# by hiro-ito55 | 2010-08-15 19:57 | 社会 | Comments(0)

靖国参拝と日本人

今日のNHKで、
今年の8月15日の靖国神社への公式参拝を、全閣僚が見送った
というニュースを見ました。

政治のことには詳しくありませんが、
恐らく、そこには政治的判断が働いたのでしょう。

閣僚が靖国に参拝した結果得られる利益よりも、
参拝しないで得られる利益の方が大きい、

彼らはそう判断したのでしょう。たぶん。

8月15日に政府の閣僚が靖国に公式参拝すれば、
日本と中国や韓国など東アジア各国との関係が一時的にしろ拗れて、

その 「拗れ」 は政治に限らず、
経済の分野にも影響することは、
今や誰にでも予想がつくことです。

その結果、得をするのはアメリカかもしれませんし、
日本政府としてはそれを恐れているのかもしれません。

この政治的判断の詳しい分析は専門家にお任せするとして、
僕個人の意見としては 「参拝しろ」 とまでは言いませんが、
「参拝してもいいんじゃないか」 とは思います。

というのも、
亡くなった人をどのように国内で祀るかは、
その国の人が決めることで、

基本的に他の国の人がどうこう言う問題ではないと思うからです。

「死者をどう扱うか」。

それはその国の持つ宗教観と強く結びついています。

そしてそれは、原初的で根源的なところで、
同じ共同体であることの確からしさ、

つまり共同体のアイデンティティーを形成しています。

そこに横から異を唱えるということは、
相手のアイデンティティーの否定を意味しますし、

それは日本人を認めないということと同義です。

中国や韓国から靖国の参拝に異を唱えてくるのは、
戦犯と呼ばれる人たちを 「合祀」 しているからだと言われていますが、

悪人も善人も死んでしまえばただの仏様
というのが、日本人の宗教観です。

現に、明治政府にとっては敵であった徳川幕府の創始者は、
日光で東照大権現として今も祀られていますし、

天皇家にとって反逆者であった平将門の墓も、
現代まで残されています。

易姓革命によってその都度、
自らの王朝の正当性を主張してきた儒教文化圏のように、

滅ぼされた前王朝は 「悪」 であり、
その 「悪」 は死んでも変わらないとする思想とは、
根本的に死者に対する扱いが違うのです。

そのように主張すればいいと思いますし、
死者をどう扱うかは、日本人のアイデンティティーに関わることですから、

政治的判断で扱う問題ではない
と個人的には思うのですが、

政治家という立場でものを見れば、
見方も行動もまた違うものになるのでしょうね。




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# by hiro-ito55 | 2010-08-10 20:38 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー