消去法による目標設定 ~その3~
2011年 02月 09日
先月の記事のつづき、 『その3』 です。
今回が最後です。
前回は、
『僕らの仕事というものは、個人的には、
利用者の 「したいこと」 よりも 「できること」
を提示することを基本とし、
利用者の
「今のままの自分を認めてもらえる」 という 「自尊心」
を尊重するようにしたいものです。』
というようなことを述べました。
そして、
『 「大きな目標あっての日常」 という観点も、
実は、ひょっとしたら僕ら若い世代が、その若い時期に、
限定的に持つ価値観であるかもしれないことに留意し、
そのような価値観の押しつけになっていないか、
細心の注意を払うことも無駄ではない。』
と述べました。
あくまで個人的に思うことですが、
歳を取ってからも、
何かに毎日頑張らなければ、成り立たない日常というものは、
僕はごめんです。
そんな、何かに縋りついて一喜一憂するような毎日よりは、
今、自分にできることを他者に贈与してあげられる毎日のほうが、
例え些細なものしか贈れない自分であったとしても、
より充実しているように思えます。
そのためにも、
『健康で、五体満足であることが何よりも幸せ』 という有り難味を感じ、
いつも健康であることを心がけるだけでなく
(つまり、一元的価値観にどっぷり浸かるだけでなく)、
今の内から
『今の自分でできることを行使する』 という癖をつけておくことは、
身体に不自由を来すようになっても、
自尊心を保ち続けるための 『秘訣』 になるだろうと思います。
もちろん、このような予防的観点は、僕の個人的な価値観ですし、
幾つになっても、何かに取り組み頑張るという姿勢も、
時には必要であると思います。
ですので、これはどっちかの在り方を選べというよりは、
『比重の問題』 であるとも思えてきます。
しかも、この比重は、
歳を取るとともに、徐々に変化していくもののように思えます。
一般的に
『目標に向かって頑張る』 という目標志向型は、若い時代に強く現れ、
『できることをする』 という現実志向型的な在り方は、
人生経験の積み重ねや、歳を取るという変化とともに、
強まっていくように感じます。
『地に足の着いた生き方を選択していく人』 ならば、
この傾向は強いでしょう。
しかし、そもそも歳を取るという実感自体も、とても曖昧なものであるし、
また、歳を取ったと感じることにも、
個人差というものが当然あるので、
この傾向に対する年齢や人生経験を軸にしたデータ的な裏付けはありません。
飽く迄、僕の想像に基づく見解です。
そういった僕の想像に基づけば、
歳を取って、施設で毎日在宅復帰という大きな目標に向かって、
リハビリに精を出さなければ、一日が終わった気になれない
『スーパーじいちゃん』
を、理想の将来像として、
僕は上手く想像することができないのです。
分かるのは、
想像することができないということは、
自分にとってはそれは現実的な将来像 (老人像?) ではないのだろう
ということぐらいです。
しかし、中には上手く想像できる人もいるかもしれませんし、
在宅復帰に向かって頑張ることが、
実際に日々の充実感に繋がっている人も、現に存在しますので、
今できることに重点を置くことが、
全ての利用者にとって充実した毎日であるとは、
一概に断定することはできません。
ですので、
『大きな目標に向かって頑張る』 人もいれば、
『できることをさせてもらえることで満たされている』 人もいるし、
そのどちらともつかない人もいる、
という現実の中で、
それを無視して一元論的に
『在宅復帰に向けて毎日頑張りましょう。』 と、
乱暴に一括りにしてしまってはいけません。
『その1』 から述べてきたことを簡単に言えば、
ありきたりの事ですが、
『私的な考えをあまり拡大適用しない』 という 『節度を伴った言動』 が、
僕ら現場のスタッフには必要である、
といったところでしょうか。
今回が最後です。
前回は、
『僕らの仕事というものは、個人的には、
利用者の 「したいこと」 よりも 「できること」
を提示することを基本とし、
利用者の
「今のままの自分を認めてもらえる」 という 「自尊心」
を尊重するようにしたいものです。』
というようなことを述べました。
そして、
『 「大きな目標あっての日常」 という観点も、
実は、ひょっとしたら僕ら若い世代が、その若い時期に、
限定的に持つ価値観であるかもしれないことに留意し、
そのような価値観の押しつけになっていないか、
細心の注意を払うことも無駄ではない。』
と述べました。
あくまで個人的に思うことですが、
歳を取ってからも、
何かに毎日頑張らなければ、成り立たない日常というものは、
僕はごめんです。
そんな、何かに縋りついて一喜一憂するような毎日よりは、
今、自分にできることを他者に贈与してあげられる毎日のほうが、
例え些細なものしか贈れない自分であったとしても、
より充実しているように思えます。
そのためにも、
『健康で、五体満足であることが何よりも幸せ』 という有り難味を感じ、
いつも健康であることを心がけるだけでなく
(つまり、一元的価値観にどっぷり浸かるだけでなく)、
今の内から
『今の自分でできることを行使する』 という癖をつけておくことは、
身体に不自由を来すようになっても、
自尊心を保ち続けるための 『秘訣』 になるだろうと思います。
もちろん、このような予防的観点は、僕の個人的な価値観ですし、
幾つになっても、何かに取り組み頑張るという姿勢も、
時には必要であると思います。
ですので、これはどっちかの在り方を選べというよりは、
『比重の問題』 であるとも思えてきます。
しかも、この比重は、
歳を取るとともに、徐々に変化していくもののように思えます。
一般的に
『目標に向かって頑張る』 という目標志向型は、若い時代に強く現れ、
『できることをする』 という現実志向型的な在り方は、
人生経験の積み重ねや、歳を取るという変化とともに、
強まっていくように感じます。
『地に足の着いた生き方を選択していく人』 ならば、
この傾向は強いでしょう。
しかし、そもそも歳を取るという実感自体も、とても曖昧なものであるし、
また、歳を取ったと感じることにも、
個人差というものが当然あるので、
この傾向に対する年齢や人生経験を軸にしたデータ的な裏付けはありません。
飽く迄、僕の想像に基づく見解です。
そういった僕の想像に基づけば、
歳を取って、施設で毎日在宅復帰という大きな目標に向かって、
リハビリに精を出さなければ、一日が終わった気になれない
『スーパーじいちゃん』
を、理想の将来像として、
僕は上手く想像することができないのです。
分かるのは、
想像することができないということは、
自分にとってはそれは現実的な将来像 (老人像?) ではないのだろう
ということぐらいです。
しかし、中には上手く想像できる人もいるかもしれませんし、
在宅復帰に向かって頑張ることが、
実際に日々の充実感に繋がっている人も、現に存在しますので、
今できることに重点を置くことが、
全ての利用者にとって充実した毎日であるとは、
一概に断定することはできません。
ですので、
『大きな目標に向かって頑張る』 人もいれば、
『できることをさせてもらえることで満たされている』 人もいるし、
そのどちらともつかない人もいる、
という現実の中で、
それを無視して一元論的に
『在宅復帰に向けて毎日頑張りましょう。』 と、
乱暴に一括りにしてしまってはいけません。
『その1』 から述べてきたことを簡単に言えば、
ありきたりの事ですが、
『私的な考えをあまり拡大適用しない』 という 『節度を伴った言動』 が、
僕ら現場のスタッフには必要である、
といったところでしょうか。
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by hiro-ito55
| 2011-02-09 20:07
| 医療・福祉・対人支援
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