考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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コトバ


人は言葉によって考えている。
自分の言葉で語る人は、よく考ることのできる人だと思う。
そういう人の言葉は、借り物の言葉ではないから、自分が確信したことしか語らない。

心が納得すると、人は自然と自分の言葉で語り出すものだ。 
自分自身を、本当に納得させられるのは主観ではない。
心だと思う。

主観はいくらでも置き換えることができるけど、納得する心というものはひとつだ。
この経験にはこの言葉しかない、そう思えることは、心が納得したということ。
そこから言葉が生まれる。

言葉によって明瞭化される世界とは、自律する自分自身の経験のこと。
それが、納得した心を基に言葉を乗せて伝わることで、誰かが耳を傾ける。
それを僕らは、共感と呼ぶのだろう。

言葉を大事にする人は、経験を大事にできる人だ。
そこで自分の言葉を、新たに発明しようとしているのではない。

自分のことも、相手のことも、
できうる限りの、直接の経験の明瞭化を伝えようとする行為を、
ただ大事にしている。

言葉とは本来、そういう行為の内で生きられるはずなのに、
隙間を埋めるように、まるで、空白ができることを怖がるかのようにただ使われ、
すぐに消えてしまうような、そんな言葉が多いのは、なぜだろう。


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by hiro-ito55 | 2015-10-28 22:23 | 哲学・考え方 | Comments(0)

伝わること


重度の認知症を抱え、ベッド上で寝たきりの患者さんがいる。
一日中ベッドの上で過ごし毎日が過ぎてゆくが、
妻や娘や孫に囲まれ、家の中はいつもとても賑やか。

ベッド脇には、結婚式の写真が飾られている。
妻はいつも、夫と一緒に行った旅行の思い出話や、新婚時代の幸せだった日々の話をされ、
夫も時々、思い出したように微笑する。

今は一人で起き上がることもできないが、
妻や家族にとっては、今でも大切な夫であることに変わりはないことが、
訪問させて頂くたびに、僕にもしっかりと伝わってくる。

妻や娘にとっての大きな疑問は、自分たちの話が夫には分かっているのかということ。

孫の顔を見て微笑んだり、妻の声掛けに頷いたり....、
その姿は、健康であった頃の夫の表情と何ひとつ変わらないけれど、
ただいつも穏やかなだけの顔に、自分から言葉を発しない夫に、
私たちのことが本当に分かっているのか、とても不安になることがある。

先日、初めての訪問入浴があった。
そのとき夫は、妻の手を握り激しく抵抗したという。

数人の見知らぬ人がベッドに集まり、入浴するためにベッド上で衣服を脱がされたとき、
妻の手を強く握りながら、大きな叫び声をあげた....。


人にとっていちばんの恐怖は、自分の意思が誰にも伝えられなくなることだと思う。

耳が聞こえない。目が見えない。
それも確かに恐怖には違いないが、相手に自分の意思が伝えられれば、
その恐怖は、孤独には繋がらない。

でも、耳が聞こえていても、目が見えていても、
誰にも自分の意思が伝わらないのだとしたら、それは絶対的な恐怖になるのだと思う。

重度の認知症を抱えた患者さんは、自分の意思を上手く伝えられないことが多い。
でも、伝えられないからといって、何も感じていないということにはならない。


微笑んだり、大声をあげたり....、
それはみんな、ちゃんと伝わっている証拠。

だから妻には、分かっているのか分かっていないのかで悩むよりも、
しっかりと伝わっていることが大事だと、お話しさせて頂いた。

夫からの言葉を聞けなくなったことは、確かに辛いことかもしれないけれど、
意思を上手く伝えられない不安や恐怖を分かってあげられるのは、ご家族しかいない。

孫の顔を見て微笑んだり、妻の声掛けに頷いたり。
それは本人が、何よりも安心できているからこそ見せてくれる、精一杯の心。

認知症を抱えているから、理解できていないのではないかと不安になるよりも、
伝わっていることを、しっかりと受け止めてあげること。

それが、たとえ自分たちにしか分からないサインだったとしても、
大事な人だからこそ、しっかりと受け止めてあげてほしいと思う。


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by hiro-ito55 | 2015-10-20 22:01 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(2)

軸のこと


一口に立つ、座る、歩くと言っても、その種類は実に様々で、
この本に書かれていることは、所作や姿勢、立ち居振る舞いについての技法、
つまり、身体化された佇まいについての驚くべき洞察だ。

たたずまいの美学 - 日本人の身体技法 (中公文庫)

矢田部 英正 / 中央公論新社



日々行っている生活動作それぞれの場面で、
それに相応しい身体の使い方を持っているということは、
それは身体の文化と呼んでもいいものだと思う。

この本を読んで分かったことは、動作や姿勢の種類の多さではない。
動作し、姿勢を保つときには、僕らの身体には支点となるいくつもの軸が存在し、
そのバランスの上で、それらが成り立っているという事実だ。

大小さまざまな軸のうち、大きな軸はつまり、重心と呼ばれるものだが、
その重心を一定に保つ(つまり姿勢を保つ)ために、
四肢・体幹・頸部に、支点となる小さな軸がいくつも存在している。

その、それぞれの軸の中心点はどこかと問えば、
それは、体中に配置された骨や関節のことを指すのではないか。

事実、筋肉は骨に付着して身体を支え動かしているのだから、
軸は筋肉ではなく、骨や関節の中心点にあると考える方が自然だと思う。

軸(つまり骨や関節のこと)を力の中心にして、僕らは動作や姿勢を保つ。

そのために筋肉が働くのだと考えれば、
バランスのよい動作や姿勢を獲得するには、筋肉を意識し鍛えるというよりも、
骨の動きを意識し身体化すると考える方が、より根源的な捉え方だと思う。


体軸がブレないというのは、身体のバランスがしっかりしているということだが、
それはけっして筋肉隆々な身体を意味しないというのは、下の動画でも明らかだと思う。 



抜刀する前後の座位姿勢は、恐らく片踵坐と呼ばれるものの一種だと思うが、
この一連の動作では、四肢、体幹、剣先が、全くブレていないのがよく分かる。

日常、ここまで身体を修練する必要はないけれど、
姿勢や動作を安定させるために意識することは、筋肉を鍛えることではなく、
骨や関節、つまり体軸をどの位置に置くかということが重要で、

その意識を持つか持たないかで、
楽な姿勢、或いは楽な動作の獲得に、大きな影響を与えるのではないかと感じている。


「たたずまいの美学」。
自然な動作や姿勢には、体軸の意識から始まる身体化があり、
骨や関節の使い方に、そのキーとなるメソッドがある。

これは僕の読後の感想だが、
良著なので、僕は機会があればぜひ読んでほしい一冊だと思う。










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by hiro-ito55 | 2015-10-14 19:31 | 哲学・考え方 | Comments(0)

想像してみてほしい。
もし僕や私の生活が、ベッドの上で送らなければいけない毎日だとしたなら。

看護師や医師、ケアマネやヘルパーさん、そして大切な家族や友人。
色んな人たちが毎日、自分の傍までやってきて、
親しげな言葉で話しかけたり、汚れた身体を綺麗に拭いてくれたり、
優しく手足をマッサージしてくれたりする。

そうやっていろんな人たちが、いつも自分の許に来てくれる。
それらはみんな、僕や私にとってとても心地よいものかもしれない。

だから、「もう少し話をしていたい」「一緒にお出かけして買い物をしてみたい」、
そう望んでみても、実際に返ってくる答えは「また来るからね」、
「必要なものは買ってきてあげるよ」、という優しい言葉だったりする。

何かがいつも、少しだけ手の届かない所にあるのに、
それでも毎日が、上手く廻っているかのように見えてしまうのは、
或いは、そんな優しい言葉のせいだったりする。


だから僕はいつも思っている。
もし、自分が誰かの支援を必要とし、不自由な自分とも折り合いをつけていかなければ、
生きていけないのだとしたら....。

確かに、支援があれば全てが受身でも、成り立ってしまうかのように見える、
そんな便利な毎日が与えられたとしても、

全てが自分からではなく、いつも向こう側からやってくるのなら、
それは果たして自分の生活だと、胸を張って言えるのだろうかと、
想像せずにはいられない。

もしそうでないのなら、見せかけの調和ではなく、
精一杯ワガママになることに、僕は何のためらいもないだろう。


本当の支援は、
誰かではなく、自分から世界に働きかけてみたいという、
人の意思を支えるためにあるのだと思う。

人の生活が、誰かに決められた便利で都合のいいモノのように扱われることを、
本質的に拒絶するところに、具体的な支援の形は現れる。

主体性を守るというのは、そういうことではないだろうか。

だから、限られた時間、限られた体力、限られた人生。
それらを自分なりに尽くしたとき、もしその選択が間違っていたとしても、
自分で、生活の今や未来のことを選択していければ、
人はきっと、後悔はしないだろうと思っている。

その人らしく生活することが、一人の人間として生きることと同義ならば、
支援は、ワガママな、人の意思を支えるためにあるのであって、
それを汲み取ろうとする支援者の、想像力と実行を必要としているのではないか。

ワタシのことは、ワタシ自身で決めてみたい。
それが時に、どれだけ切実な思いに基づいているのかということは、
相手の身になって考えようとしなければ、けっして分からないものだと思う。


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by hiro-ito55 | 2015-10-01 21:07 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー