考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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時々、患者さんや利用者さんから、サービスを断られることがある。
それが例えば、「今日は体調が悪いから」、「お客さんが来るから」といった都合で、
一時的に断られるのであれば、問題はないと思う。

けれど今回、
患者さんが、サービスの提供者である訪問看護者への不信感を抱いていて、
そのサービスを「打ち切るため」に断わる、というケースがあった。

その方には、僕も週一回、リハで訪問させて頂いているが、
数か月前からは、訪問看護ステーションを二か所利用するようになっていた。
必要な医療処置やケアが多く、一か所ではとても対応しきれなくなったからだ。

でも、新しく入ったステーションの対応が悪く、
緊急訪問でアタフタと慌てたり、通常の訪問時に自分の子供を一緒に連れて来たり、
意思疎通が上手く取れなかったために、必要な処置もせずに帰ってしまったり....。
と、聞けば耳を疑うような話ばかりが出てきた。

本人が、どうしても信頼することができないので、
そこのステーションには直接訴えずに、訪問に入っている所長が直接相談を受け始め、
結果、主治医とも相談の上、代わりのステーションを探すことになった。

悩みに悩んだ末の、相談だったようだ。


サービス提供者への信頼を築けないにも拘らず、ずっとそのサービスが続けられていて、
患者さん自身がそれを断るために行動を起こすのは、とても勇気がいる。

サービス提供者側の人間とすれば、定期的に担当者会議など、
サービスの質や体制について検討される機会もあるのだから、
もし不信感や疑問があるのなら、その都度思っていることを素直に話せばいい、
と考えるかもしれない。

でも、患者さんから信頼できない相手に自分の思いを伝えたり、
サービスを断るために行動を起こすのは、気持の上でとても大きな負担になるし、
「何か嫌だな」「この人たちとは合わないな」と感じていたとしても、
提供者に向けて直接それを口にするのは、そんなに簡単なことじゃないと思う。


断り切れなかったら、その後の関係性はもっと悪くなるんじゃないか....、
そんなことを言うと、我がままだと思われるんじゃないだろうか....、
断わった後、自分の生活はどうなるんだろう....、
もう少し辛抱してみようかな....、
こんなこと思うのは自分だけなのかな....、

自分の生活を預けている患者さんは、
たとえ相手に不信感を持っていたとしても、そんなふうに悩んだり迷ったりしている。

患者さんがそんなふうに思うこと、それが何も特別なことじゃないと分かるためには、
思いを吐露したときには、もうクタクタに疲れてしまっているその人を見れば、
それで充分だと思う。

それに、痰の吸引や呼吸器の管理、或いは緊急時の対応など、
現実に生きるために欠かすことのできない処置や対応をお願いしている場合、
それを別の提供者に代わってもらうことは、それなりのリスクも伴っていたわけで、

それを考えれば、
認知面や判断力に問題のない人が、「止めたい」「断りたい」と言い出すだけでも、
それはとても勇気がいることだったに違いない。


今回、僕は何もすることはできなかった。
けれどせめて、そんなふうに置かれている患者さんの立場や気持ちを、
少しでも理解していくことは、僕にでもできると思う。



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by hiro-ito55 | 2015-08-28 00:01 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判 ―――。

これらは、カントの三大批判と呼ばれるもので、
理性というものは、どこまでの守備範囲を持っているかについて書かれている。

カント以前、哲学の問題と形而上学上の問題を扱うことは同じことであったが、
カント以降、例えば神の存在や魂の不死、世界の始まりや終わりについて考えること、
それらは全て、理性の範囲外で扱われる問題とされた。

現代では、理性には「知情意」の三つの側面があり、
道徳や倫理については「意」の働きかけで知るもの、という捉え方が一般的になっている。
また、罪の意識がなければ、道徳や倫理は働かないとする考え方もある。


僕らは、物事について考えるとき、その時代の通念というものに囚われやすい。
そして倫理や道徳について考えるときも、それは同様だと思う。

しかし、
道徳や倫理とは、根本的に「情」が働いて発露するものであろうと思っているし、
清らかさや純粋性、感謝という姿勢を元に明らかになってくるものだと、僕は思う。


例えば、「仕事をして働く」ということ。
欧米人の多くは、仕事を終えたらバカンスを最大限に楽しむそうだが、
それというのも、労働とは神に対する贖罪だという宗教的意識が根底にあるからで、
バカンスはその義務からの解放という、神から与えられた当然の権利の行使に当たる、
という話を聞いたことがある。

一方、贖罪や義務ではなく、労働そのものに価値があると捉える人もいる。
そのような考えの下では、「働くこと」は「生きること」とほぼ同義となり、
労働は、生活のための単なる手段ではなくなる。

例えば、職人さん。
日本で職人さんたちが尊敬されるのは(少なくとも僕はそう思っている)、
与えられた賃金に対して、仕事をしているのではなく、
自分の納得のいくところまで、仕事をしているからなのだと思う。

優れた職人さんが、自分の仕事に手抜きをしないのは、
もし手抜きをすれば、それは自分自身に対する偽りになると捉えるからだ。

手抜きを恥と感じるのは、仕事への「美意識」を持っているからで、
職人さんに限らず、他の分野でもそういう姿勢で仕事をされる人は多いと思う。


過去、ルース・ベネディクトが「菊と刀」という政治論文を発表して以来、
「罪の文化」を標榜する欧米社会に対して、日本は「恥の文化」だというふうに、
どちらかというと、日本の「恥」という価値観は否定的に捉えられてきた。

けれど、
日本人は他人が見ていなければ恥を感じないとする彼女の考え方に、僕は与しない。

なぜなら、職人さんの例のように、
仕事に対して手抜きをすることは、まず何よりも自分自身を偽ることであって、
そういう姿が、自分自身の中に浮かぶからこそ、それを恥と捉える。
そういう倫理的意識が、僕らの感じる恥の正体だと思うからだ。


また、「清浄正直」という言葉があるように、
偽りのない清らかな心を手本とするその対極に、恥という意識もある。

恥と感ずることと清浄正直という在り方は、清き明き直き姿勢であり、
自分を正すことに結びついていくその姿勢は、
知や意の働きよりも強く人に作用して発露する、情(心)の姿を拠り所としている。


罪の意識など持たなくとも、
自分のすることには偽りなく、誠実でありたいと願うこと、

そういう気持ちを持って、物や人に接していける人は、
下手な理を立てる人よりも、僕は、立派な倫理や道徳の持ち主だと思っている。


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by hiro-ito55 | 2015-08-13 21:29 | 哲学・考え方 | Comments(0)

心や精神の独立性


たとえばこの世界を、力学的なひとつの大きなメカニズムと捉える傾向があるとしよう。
そこに方法の有効性が加われば、僕らがその傾向から離れるのは難しくなる。

人に対しても同じだ。
心や精神は独立して存在せず、脳という物質の中に全てがあるという一元論は、
世界を、力学的なひとつの大きなメカニズムと捉えるためには、非常に都合がいい。

科学が、世界の機械論的構造への信仰から生まれて以来、
心や精神というものは幻想であり、脳という物質の反映が、そのまま精神の世界である。

この傾向に抗うのは、とても困難だ。
脳という物質に対する、心や精神のアリバイを見つけるのは簡単ではない。

だから僕は、心や精神そのものについて分析することを止めて、
その代わり、画家や詩人の、芸術家たちの経験について考えてみた。


画家が、或いは詩人が、深い感動を絵や言葉にする。
彼らは絵や詩によって世界を自覚し、それをある形にして見定めようとする。

それは、目の前の対象に包まれ、世界の姿が顕わになるという、
私と相手が、ひとつの出会いを通して統一される経験だ。

もし、経験する自己という完璧なメカニズムが、最初にまずあるのだと考えれば、
個人の経験は全て強固な、主観的、自己中心的、内在的なものだと見ることもできる。

しかしそれなら、僕らが不意を突かれて何かに感動するような、
或いは、芸術家たちを突き動かす、自己の殻が破られるような経験を、
どう説明できるというのだろうか。

感動という心の働きは、主観的でも自己中心的でも内在的なものでもない。
むしろそれらを全部否定するような経験なのだから。

心や精神があるからこそ、僕らは人間なのだ。
我が心、我が精神ではない。
ときに、自分では如何ともしがたいからこそ、心や精神と呼べるのだ。

たとえば、誰かの笑顔に触れることができた。誰かの涙に言葉を失った。
ただそれを「嬉しい」「悲しい」という印象で終わらせるのではなく、
それを通して、そこから形のある何かが始まるならば、

僕らは、画家や詩人が、絵や詩というもので見定めようとしてきた行為と、
根源的な部分で、とても近い経験をしていくように思う。


僕らは、どんなことにもとかく心が動かないことを、精神の理想としがちだが、
しかし、ものに触れれば必ず動くのが、心や精神の姿であればこそ、
それが、僕らの尋常でいちばんマトモな、経験の形であると思う。

それを心に留め置き、
経験以前にある、ひとつの目的意識に制せられるところから解放されるなら、
ものに触れれば心が動かされる在り方に、僕らは呼び戻されるだろう。

人が生きるということが、物事を経験しながら生きるということであれば、
その人の気質に応じて、ものの姿はあるのだから。


だから、心や精神を説明するため、動かぬ原理を先に立てるより、
その都度の経験に柔軟に応じるあり方、それと向き合う姿勢を持つことが、
心を識るための尋常な智恵であると思う。

心や精神は、力学的なひとつのメカニズムの内に閉じ込められてはいない。
たったひとつの出来事にすら、意に反してふいに感動するように、僕らの心はできている。
そういった経験のうちで、僕らの心は生きている。

確かに、脳と心との間には密接な関係があるのだろう。
しかし、我が意に反して動く心とは、精神が独立した自立性を持っている証でもある。

心は、自分自身を見つめるようにも働くし、
外界と応接する橋渡しとしても働くことがある。

そういった僕らの心や精神とは、いったい何ものであるのか、
知りたければ、個々の経験の豊かさや多様なことを認め、
それにその都度応対している自分の存在に気付くこと、僕はそれで充分だと思う。


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by hiro-ito55 | 2015-08-04 20:31 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー