考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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ある利用者さんが、デイサービスの利用を拒否し始めた。
理由は、職員から「○○ちゃん」と、「ちゃん」づけで呼ばれていることだ。
「今どき?」と思ったが、利用者さんを「ちゃん」づけで呼んでいるところは、
今でもちゃんとあるようだ。

実際に、そこの事業所を利用する他の利用者さんたちからも、
以前から、「○○ちゃん」と呼ばれたり、「ご飯食べようか」とタメ口で訊かれたりする、
そういう話を聞かされていたが....。

知識も経験もお持ちのこの方にとって、
デイサービスに出掛けるというのは、単に外出の機会があるという意味だけでなく、
それ以上に、社会人としての交流の場でもある。

たとえ認知症を抱えて利用していたとしても、
一人の大人であることに変わりはないからだ。

だから初めは、
他利用者やスタッフと会話を楽しみ、穏やかに過ごすつもりでいた。

同居の娘さんがヘルパーの仕事をしているため、
母の意向に合いそうな事業所を、知り合いを頼りにいくつか目星を付けて探し出し、
最後はケアマネさんと相談しながら、利用する事業所を決めた。

ところが、利用し始めて半月も経たないうちに、下の名前でちゃんづけで呼ばれ始めた。
しかも、自分よりも遥か年下の人たちから....。

一度だけ、思い切って自分の思いを話したところ、職員から却ってきた返事は、
「いいじゃない。ここではみんなそう呼んでいるんだから。」
「敬語を抜きにしたほうが親しみを持ち易くなるし、会話も自然だから。」
という反応。

そこの事業所が、接遇に対して、どのような方針を持っているのかは分からないし、
親しみを込めて接しているというのなら、それもコミュニケーションのひとつだと思う。

でも、相手がそれを不快だと感じているのに、
そのやり方を押し通すというのは、どうなんだろう。


よほど親しい間柄でもない限り、
ちゃんづけやタメ口をされるのは、とても不愉快なものだ。

会話に親しみを込めたり、同等の立場で接したりするのは、
お互いを尊重することの現れなのだと思う。

信頼関係がしっかりと築けた上で、それは可能なことなのだから、
ちゃんづけで接すれば、利用者さんとの距離が縮まるというものではないはずだ。
もしそう思い込んでいるとすれば、それは職員の自己満足に過ぎないのだと思う。


実は僕も、老健に勤めていたころに、
利用者さんに平気でちゃんづけする上司を持った経験がある。

その上司が決まって口にしていたのは、
「その方が○○ちゃんが喜んでくれるから」、というセリフだった。

僕には、どうしてもこういう人の感覚が分からない。

一見して喜んでいるように見えても、
本当に喜んでいるのは、ちゃんづけをしている本人なのかもしれないということに、
専門職ならどうして気付けないのかと、いつも不思議に思う。

それにもし、自分の親や身内が、他人からちゃんづけやタメ口をされていたら、
それを、不愉快なものだとは感じないのだろうかとも思う。

専門職として、たとえどんなに立派な理念を持っていても、
そして、たとえどんなに立派なことをしていても、
相手をちゃんづけしても、タメ口で話をしてもよいという感覚を持った人を、
僕は、どうしても理解することができない。

10年以上、医療・介護の世界に携わっているが、
人として、未だにこういう感覚だけは、受け入れがたいものがある。


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by hiro-ito55 | 2015-05-28 00:01 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(6)

イップス


スポーツの世界に、「イップス(Yips)」という言葉がある。
過去の失敗経験から、それと似たような場面に出くわしたときに、
また同じ過ちを繰り返すのではないか、という恐怖心が先に立ち、
その経験を繰り返すことで、スランプに陥ることを指して言う言葉だ。

当初はゴルフ界で使われていた言葉だが、
今では、スポーツ界全般で使われているらしい。


先日あるお宅に訪問したときに、
患者さんの娘さんに、歩行介助の方法を教えたことがあった。
ご家族介助下での入浴を強く希望されていた方で、
そのためには、ベッドから浴室までの安全な歩行介助方法の獲得が、ぜひとも必要だった。

娘さんは以前、外出のために歩行を手伝っていたときに、
誤って玄関先で転倒させてしまったことがあり、
それ以来、自分が歩行介助を行うことを断念してきた。

自分との身長差が20㎝以上もあるというのも、断念した大きな理由だった。

ポータブルトイレへの移乗であったり、歩行であったり、
身長差の大きい方を介助する場合も、
なるべく患者さんの身体に密着した姿勢で介助するのが、一般的かもしれない。

けれども、患者さんによっては、
介助する人との距離が近すぎることで、却って患者さん自身の動きが封じられてしまい、
結果として窮屈な動作となってしまうことがある。

また、密着して動作介助をすることで、
介助者が、患者さんの不安定な動きに引きずられやすくなることも確かで、
そのために、どうしても力任せの介助となることがあり、
万一バランスを崩したときに、大きな事故へと繋がりかねない危険もある。


この方の場合も、
過去に転倒させてしまったという経験から、過度に密着して力を入れたまま、
ポータブルトイレや、車椅子への移乗を行う傾向が強く現れていた。

こういった悪循環を断ち切るため、
身体を離したままでも安全に行える介助方法を、実演も交えながらお伝えした。

転倒させないためには、
できるだけ身体を密着させて介助しなければならない、という強い思い込みから、
お互いの持っている力を利用しながらできる介助方法があり、
それを身に着けることができることを納得して頂くまでには、
繰り返し助言と指導を必要とした。
               
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過去の失敗体験に捕われる、つまりイップスに捕われるというのは、
何もスポーツの世界に限ったことではないと思う。

僕も、過去に何度も失敗を繰り返してきた。
そして、同じような状況に出会ったときに、また同じ失敗をするのではないかと、
ついつい考えてしまう癖がついてしまったことがある。

今思えば、そのような癖がついてしまった最大の理由は、
失敗したことの原因について、冷静に分析して考えるよりも、
その失敗自体を嘆いた方が、精神的に遥かに楽だったからだ。

失敗した原因についてしっかりと分析し、具体的に次に備えることは難しい。
いつでも全てを完璧にとはいかないからこそ、漠然と失敗することを恐れてしまう。

でも反対に、だからこそ自分のできる精一杯をやっていくしかない、
という考え方に行き着くこともある。

そうしたら、失敗することを恐れるよりも、
万が一失敗したときに、自分がどう振る舞うべきかを考えることの方が大事だ、
ということにも、気付くことができると思う。

失敗したときの自分が、恥ずかしくない自分であるためにはどうしたらいいか、
そのことを考えると、自然と力が抜けて自分のできることを精一杯やってみよう、
という気になる。

不思議なものだけど、そういう自分自身の経験を踏まえて、
患者さんのご家族にも介助や支援の方法を伝えられたら、
リハ職が行える生活支援の在り方も、随分広がるように感じている。

技術と一緒に、伝えられることはあるはずだ。


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by hiro-ito55 | 2015-05-21 20:33 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(3)

よく、患者さんと接するときには「話を傾聴する」とか、
「患者さんの気持ちに寄り添う」ということが大事だと言われる。
実際に僕も、記録用紙には「○○さんの訴えを傾聴しました。」と書くことがある。

でも、後から振り返ってみると、
本当に自分は患者さんの声に耳を傾けていたのだろうか、
患者さんの気持ちに寄り添うことの意味を、ちゃんと理解したうえで、
記録として残していたのだろうかと、疑問に思ってしまうこともある。


担当する患者さんの中に、去年長く連れ添った夫を亡くされた方がいる。
夫の死以来、鬱的になり、半年ほどで認知症状も出始めた。

深い喪失感とともに、
日中一人暮らしとなってしまった状況も良くないと判断した僕らは、
デイサービスの利用なども勧めてみたが、そういう気力もなく、
いつも利用開始日直前にキャンセルされ、家に閉じこもってしまっている。

ヘルパーの受け入れも進んでおらず、
朝から夕方まで、毎日テレビの前で過ごすことが日課となり、
ただ溜め息ばかりが増えていく。

原因は分かっている。

しかし、こちらからそれに直接触れることは避け、
時折語られる、ご主人との思い出話などをリハビリの合間に聞かせて頂いていたが、
鬱的に過ごされている現状を、何とかしたいという気持ちから、
「大丈夫です。」「分かります。」とうっかり口にしてしまったことがある。

ご主人の突然の死が齎した喪失感について、本人が語ったときに、
つい口をついて出てしまった言葉だ。

聞こえるか聞こえないか分からないほど、弱々しい声で呟いた、
「分からないわよ...」という言葉を耳にしたとき、僕は自分の軽率を後悔した。


患者さんには、
ときに「あなたの気持ち分かるよ」と簡単に言ってもらいたくはない場面がある。
気持ちに寄り添うことと、同情することとは違うし、
必要のない同情は、ただの差別にしかならないのだ。

自分にとっての分かるとか大丈夫とかが、
必ずしも患者さんの気持ちと一致しないということ、
その意味するところを理解せずに、自分の気持ちを示そうとするのは、
土足で人の心に踏み込むのに等しい。

そこに迂闊でいると、患者さん自身は、
病気でも何かを失ってもいないあなたに、その一言だけは言ってほしくはなかったと、
深く傷ついてしまうことがある。

だから、どんなに親身になって話を聞いたつもりでも、
「傾聴する」とか「寄り添う」ということを、簡単に考えてはいけないのだと思う。


対人支援の世界では、患者さんそれぞれの思いや価値感を第一に考え、
それを基にケアマネを中心にして、支援の方向付けが行われなければならない。

そして、家に閉じこもり、認知症状も出始めているという今の状況は、
けっして良いものだとは言えないし、
専門職として、何とかしたいという気持ちは常にある。

でも、患者さん自身が、たとえ悲しみの中で一日が過ぎようとも、
家で一人で静かに過ごしたいと感じているのも事実なのだから、
その扱いについては、難しい側面もあることは確かだ。

関わる人たちが、患者さんの思いや価値観に寄り添うことが、
支援のための基本となるとしても、やはり、気持ちの変化が訪れるまで、
辛抱強く待つしかないのだろうか。難しいな...。













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by hiro-ito55 | 2015-05-14 21:31 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(3)

先日のこと。利用者さんとご家族が、大喧嘩をした直後に訪問したことがあった。
喧嘩の原因は、利用者さんが一人でベッドを離れ、部屋から出てくること。

トイレに行こうとしたり、食事のために台所まで来てしまったりと、
目的はその時々で様々だけど、
転倒リスクのある人が頻繁に家の中を歩かれてしまうことが、ご家族としては心配で、
いくら注意してもそれが改まらなかったことで、ついに喧嘩となってしまったようだ。

お互いに怒り心頭な双方の話を聞きながら、
ついにこうなってしまったかという思いだった。

元々、転倒後の大腿骨骨折で入院され、
自宅退院になった後にリハとして関わるようになった利用者さんだが、
一月も経たないうちに、支え歩行がなんとか可能になりかけていた。

ただ、自分の能力をやや過信するところがあって、
歩行器など福祉用具の導入もご家族らと検討したが、
本人の「必要ない」という意思を変えることはできなかった。

本人としては、自分で歩くことぐらいできると信じているかもしれないし、
金銭的な負担や、家族の気遣いを心苦しく感じているのかもしれないが、
ベッドから離れるときは一声掛けるように、ということで話が進んでいたときに、
喧嘩となってしまった。


医療職や介護する側からすると、
どうしても本人の「できないこと」が目に付いてしまうことが多い。
だからこそ「見守り」が必要で、そのために必要な対策を一緒になって考える。

だが、僕らがそう思って進めてみても、本人からしてみれば、
それを、自分の行動を制限するための「監視」と受け取ってしまうことがある。
だからこの利用者さんも、「転んだら自分の責任だ」としきりに言っていた。

家族からしてみれば、その後の入院やら何やらを考えると、
自分一人で責任なんて取れるわけがないと当然考えていたし、
一緒に暮らしたいという基本的な思いは一緒でも、
そのためにどうすればいいかというところで、双方の捉え方には大きな違いがあった。


支援者側からすると、リスク管理をしっかりとした上で、
その人らしく生活するための支援を模索していくのが基本となるのだが、
どんなに一緒に生活していても、本人が一人になる時間は必ず出てくる。
見守りが行き届かない時間は、双方の信頼の上に生活を立てていくしかない。

しかし、その信頼関係が本当に成り立っているのかということは、
当事者同士にもなかなか見え難いところで、しかも一旦それが破られてしまうと、
支援者側から見れば「いくら言っても聞かない人」と映り、
逆に本人からすれば「いつも監視されているようで嫌だ」ということにもなってしまう。

専門職側からの意見や価値観は、ご家族にとっては非常に影響力のあるもので、
その捉え方をそのまま受け入れるご家族も多い。

だが、家族を巻き込んだ見守りやリスク管理の体制が、
ときとして利用者本人に窮屈な思いを与えてしまったり、
本人を、心身ともに孤独に追いやったりしてしまうこともある。


一口に「在宅はその人らしい生活のためにある」と言ってみても、
支援と被支援という関係を持ち込んで、一緒に生活するというのは難しい。

在宅において、完全な見守りというのは不可能なのだから、
それを承知の上で、双方が過負担なく生活できることが理想なのだが、
いざそれを実現するというのは、とても複雑で困難を伴うものだからだ。

最低限のリスク管理と、その人らしい生活の実現。
支援者側からすれば、転倒リスクだけはなんとか回避したいし、
利用者本人からすれば、できるだけ自由に振る舞いたい。
そのバランスの上で成り立つ生活を探していくのは、とても微妙な問題だ。









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by hiro-ito55 | 2015-05-05 19:48 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(5)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー