考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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大学のこと


僕らは一体何者であるか―。
六年前、僕は自分自身にひとつの問いを立ててみた。

伝統は守るべきものから、壊すべき対象へと変わり、
古い社会的規範よりも、個人の新しい表現の方が尊重される。

興味の対象も価値観も、日に日にどんどん変わっていく。
技術や情報の変化も、僕にはあまりにも速すぎた。

学生から社会人となって数年。
変えることは、そのために他人と異なることを成すことは、
守ることよりも、時間をかけて考えるということよりも善だという考えは、
病的なほどであるとさえ感じていた。

でも、僕らがこの国に生まれ、育ったというコンディションは変わらない。
自分では変えられないからこそ、それをはっきりと自覚する必要があるように感じた。

そしてその中で僕は、人や社会との関わりの基準をどこに打ち立てればいいのか、
その座標軸を知りたいと思った。

今の社会がイヤだとか間違っているとかではなく、
僕の中で流れるベース音のようなものがあれば、それを聴いてみたいという願い。
それは、全く個人的なものであったろうと思う。

だから、抽象的に立てられた問いをいかに演繹していくか、
僕の週一回六年間の大学通いは、その道標を探すためにあったと思う。



ものや人に触れれば、心が動くということ。

経験と言葉の生まれる源泉は、同じだということ。

自分のためではなく、相手の身になってそれを見つめるということ。

共感や親和は、人やものを知るための基本的態度であるということ。

人の宝は、日常を僕らが生きること、それに基づく品性や心のことだいうこと。
そして学問も仕事も、そこを離れてはけっしてあり得ないということ。



何も特別なことを習ったわけじゃない。
人として当たり前のことにこんなにも無自覚であったことが、僕はただ恥ずかしかった。

自分の座標軸を知るためだった動機が、
いつの間にか、人や物事と素直に接する経験の根本へと、意識が向けられていく。
その変化の過程は、等しく自分自身を省みる機会となっていったように思う。


現代社会がどうだとか、科学や情報がどうだとか言う前に、
自分自身は、本当に、人やものについて考え、知る経験を大事にしてきただろうか。
患者さんを前に、自分の僅かな知識や技術を、光らかすように接してこなかっただろうか。
言葉ばかりの共感が、患者さんを傷つけていなかっただろうか....。


自問と学びの末、見つけたのはやはり、答えではなく道標のようなものだった。
それを見つけるのに、六年もかかってしまったのは、偏に僕の怠惰が原因だ。


哲学や思想。
日本人の文化や伝統と、それを支える人たちの風景。

ただ六年間、曲がりなりにもそれに触れることができたお蔭で、
人と接する姿勢や、仕事に対する態度を省みる機会が常に持てたことは、
これからの僕の人生の、掛けがえのない財産になっていくと感じている。

社会人になっても、人と生きて交わるために必要な、大切な機会が与えられたこと。
振り返れば、僕はただ、幸運だっただけなのかもしれない。
今は、そんなふうにさえ感じている。
               
               
              
*謝意:六年間、頭でっかちで怠け者の僕にご教授して頂いた吉田喜久子先生へ、
    私事ながら、この場をお借りして深謝いたします。


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by hiro-ito55 | 2015-03-17 00:01 | 哲学・考え方 | Comments(4)

優しい感性の人


その人はいつも、自分よりも周りのことを優先する。
自己主張をしないから、彼には個性がないように見えてしまう。

でも、周りのことを優先するのは、
自分の個性よりも、まず相手の個性を尊重しているから。

それだって立派な個性だし、
それがあなただってことぐらい、大切に思う人たちには伝わっている。

相手のことを我が事のように感じる、優しい感性の持ち主だからこそ、伝わるものがある。
エゴを個性と勘違いする人もいるけど、それを知っているあなたは、立派な人だと思う。

だから個性がないなんて、自分でそんなふうに思う必要はどこにもない。


ともに作業をしたとき、本当は泣きたいだろうにと思った。
泣いて、いっそのこと我がままを、全部ぶつけてしまいたいだろうにと。

でもそんな気持ちは、本当の辛さは、自分にしか分からない。
だから、そんなものは自分の胸の奥深く仕舞っておくことにする。
仕舞い込んで、いっそ知らない振りをしておくのがいい。

それは、諦めたからなんかじゃない。
むしろ、自分の人生を人と一緒に生きるために標した、彼の美意識に近い。


だから、掛けがえのない、その日一日一日をともに進んでゆこうとする、
その前向きな姿勢を、感じるみんなが見守っている。

やたらと自分を主張し、人を遠ざけていることにさえ気付かない人がいる。
自分を押し通し、人を傷つけていることにさえ気付かない人もいる。

そんな愚か者より、それはよほど立派な、人間らしい生き方なんだと思う。



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by hiro-ito55 | 2015-03-12 00:01 | 作業療法 | Comments(2)

小林の全集


これから、小林秀雄全集を少しずつ集めていこうと思っている。
手始めに今回は、僕の好きな「美を求める心」や「私の人生観」が収録されている第九巻と十一巻を購入した。
文庫本では7~8冊持っているけれど、全著作を読みたいという思いは以前からあったし、小林は言葉をとても大事にした人だから、新仮名遣いに書き換えられた最新版ではなく、原文通り旧仮名遣いの「第五次全集」を選んだ。


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小林の文体は美しい。言葉とは姿だということが伝わってくる。
だからこそ何度も繰り返し読んで、読むたびに言葉が、しっかりと捉えられるまで読み込んでみたい、
という欲求に誘われる。


例えば「様々なる意匠」の中にある一節。

― 雲が雨を作り雨が雲を作る様に、環境は人を作り人は環境を作る、
  斯く言わば弁証法的に統一された事実に、世の所謂宿命の真の意味があるとすれば、
  血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。
  或る人の真の性格といい、芸術家の独創性といい又異ったものを指すのではない ―

「様々なる意匠」は、小林のデビュー作であるから、
全的に知るという彼の姿勢が、この時から晩年の大作「本居宣長」に至るまで、
一貫していたものだということが分かる。


また、「美を求める心」の中にはこんな一節がある。

― 一輪の花の美しさをよくよく感ずるという事は難しい事だ。
  仮にそれは易しい事だとしても、人間の美しさ、立派さを感ずる事は、
  易しい事ではありますまい。又、知識がどんなにあっても、
  優しい感情を持っていない人は、立派な人間だとは言われまい。
  そして、優しい感情を持つ人とは、物事をよく感ずる心を持っている人ではありませんか。
  神経質で、物事にすぐ感じても、いらいらしている人がある。
  そんな人は、優しい心を持っていない場合が多いものです。
  そんな人は、美しい物の姿を正しく感ずる心を持った人ではない。
  ただ、びくびくしているだけなのです。
  ですから、感ずるということも学ばなければならないものなのです。―

 
「美を求める心」は、確か中学生か高校生向けに講演したものを、文章にしたものだと聞いたことがある。
だからたいへん易しい言葉で書かれているのだけれど、内容は「様々なる意匠」と同じように、
小林のものや人を知るための、根本的な姿勢が書かれている。

ここ数週間、寝る間も惜しんで全集をじっくりと読んでいる。
仕事をする上でも、人として生きる上でも、何かとても大事なことが書かれていると、いつも感じるからだ。
だから僕は、恣意的な解釈を好む者ではなく、ただ、小林秀雄の愛読者でいたいと思っている。










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by hiro-ito55 | 2015-03-02 22:50 | 哲学・考え方 | Comments(2)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー