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支援の基礎は、観照するということ


先日、「ウェルネス看護」について、職場で拝聴する機会があった。
ウェルネス看護とは、患者さんの良い面にスポットを当て、
それを積極的に支援するというもの。

それまで、ついつい患者さんの抱える問題点に焦点を当て、
それを予測し、管理するという発想に行きがちだった看護を、
健康上の強みのアセスメントや、病みの軌跡理論などを通して、
患者さん自身の負の能力を、できる可能性や有効な資源として、
そこに位置づけられるようにアセスメントし直し、支援の形を捉え直すという考え方だ。

患者さんから提示された生活の諸問題に接し、
これを受け取る側が、アセスメントという形で捉え直す際にも、
患者さんとの協働によって道を開いていくことを、基礎に据えているという点において、
推論的問題解決の方法というよりは、
むしろ、患者さんとの直かな接触によって導かれる事実、
そこから、支援の構造を明らかにしていくことに、重点を置いていると言えそうだ。


このような支援の方向性そのものは、
患者さんの潜在価値や可能性を引き出し、それを支援するという、
僕ら作業療法士の基本姿勢に近いものがあると思う。

ただ、
理学療法士の方にとっては、僕らよりも少し抵抗のある捉え方かもしれない。

彼らは、主にその人の動作や活動の基礎を作ることを、支援の中心に据えており、
座るため、立つため、歩くために問題となる要素を、ひとつひとつ取り除いて、
人の動作や活動の形を、作り上げていく。

ところがウェルネス看護の考え方では、
問題点を問題として捉えることからの、発想の転換を求めている。

問題を取り除き、動作を作り上げていくというのはプラスの姿勢だが、
この姿勢からウェルネス看護の考え方を取り入れることは、
容易なことではないように思えてくる。

ただこれについては、
一度PTさん自身からも、話を伺ってみなければ分からないことでもあるので、
これ以上推論で物を言うことは控えたいと思う。



OTとして感じたことだけを述べれば、
ウェルネス看護理論の基礎には、人としての感受性が求められているということだ。

感受性の部分を理論で説明するのは確かに困難だが、
患者さんと直に向き合う経験の仕方、それを反省してみるという形で、
その都度、その考え方は実践可能なものだと確信している。

僕らはともに行う作業や活動を通じて、
ときに、患者さん自身も一番やっかいに感じている個性というものと、
一緒に対峙しなければならないことがある。

ともに向き合うために必要なのは、相手の身になって考えるという姿勢。
人としての感受性は、その中で育まれていくものだと思う。


もし、
感受性と言うと難しく聞こえるのなら、自分の個性よりも相手の個性を尊重する、
まずその姿勢が、患者さんと直に向き合う経験の、初めにあると言えば、
分かり易いかもしれない。

例えば、相手の話を本当に聞きたいと思ったときに、
僕の中で相手が現れる。同時に、相手の中にも僕が現れる。

ただそうやって知り得たものを、互いに素直に信じ、受け止める。
そういうやり方でもって、僕らは相手のことを知ることができる。

人は他人と同じ、つまり、一義的に誰かのことを知ることはできないから、
その知り様は、人それぞれであっていいものだ。

そこから僕らは、相手の潜在能力や価値を、それぞれがそれぞれの仕方で引き出し、
個別的な支援の方向性というものを作っていく。

ウェルネス看護の理論を参考にするならば、
僕らにとっては、そういう順序でもって支援の形を捉え直し、
実践することは可能だということだ。


理論というものは、言語化された思想だ。
ただ僕らには、思想を形作る前に、それぞれが向き合う経験というものがある。
言葉は、自分の経験を見定めたときに生まれてくる。

だから、経験も立派な言語だと思うが、
経験とは自分のためではなく、誰かと何かを分かつためにあるのだとすれば、
それは受け取る側の心とも、切り離せないものに違いない。

僕ら自身が、
それを磨くように経験していくことは、確かにたいへん困難な事ではあるけれど、
そうしなければ、そこから作られる理論も、ただの机上の空論になってしまう。

作業療法士であれ、理学療法士であれ、
そのような経験についてはよくよく考え、これを基礎にしていけるよう努力すること、

そうしなければ、
ウェルネス看護の考えを理解し、それを取り入れて実践の場で展開することも難しい、
僕はそう思うのだが、どうだろう。


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by hiro-ito55 | 2014-12-23 20:58 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

詩人であり職人である者


その人の喜びや悲しみ。
抑えることのできない怒りや、泣き出してしまいそうな不安。

他人のその感情を、自分の心に再現する、
そういうやり方で、他人の心を理解することはできない。

ただ、他人である僕らに出来ることは、
相手の身になって考える、ということだけだと思う。

相手の身になって考えるというのは、
悲しいことをただ悲しいと感じる。嬉しいことをただ嬉しいと感じる。
そういう素直な心に、自分も従うということだ。

その人の事実や、他人との関係性をいくら調べても、
分かるのはその人の輪郭であって、本当の姿は別のところにあると思う。

だから、その人について調べることと、その人を知ること、
これは明らかに区別して、考えなければいけないことだと思う。


僕ら作業療法士は、作業や活動を通じて、患者さんと場と時間を共有する。
共有するためには、そこから感じとる心を磨いていかなくちゃいけない。

患者さんと共に扱う作業や活動の全ては、帰するところ、共感する心に行き着く。
潜在する価値や可能性は、その場所から引き出されている。

僕らが出来ることは、それを形にするための方法を、ともに探していくことであり、
患者さんと共に見出した価値あるものを支援するため、専門性がそこで発揮される。

座ること、立つこと、歩くこと。
その動作や活動ができるようになったことで、
そこから広がる可能性を形にし、支援していくため、僕らの専門性は発揮される。

類似性や合理性に目を向けるだけなら、科学的、一義的に知ることで充分かもしれない。
けれど、僕らの仕事はそれだけでは終わらない。

獲得する動作や姿勢も、患者さんごとに充分に個性的だが、
そこから広がる可能性は、それよりもっと個性的な形をしている。

だから、患者さんの有する価値や能力は、一義的に解釈しても意味がない。
理解し支援する側には、それらを素直に受け取る心、感受性がまず必要とされる。



他人の感情や思いを、自分の心に正確に再現する、
そういうやり方で他人を理解することは、僕らにはできない。

でも、
悲しいことをただ悲しいと感じるのは、僕らの感受性。
嬉しいことをただ嬉しいと感じるのも、僕らの感受性。

僕ら作業療法士は、その大事な基体を育みながら、専門性を展開していく、
そういう、詩人であり職人である者たちだと思う。


詩人であるということは、空想的であるということではない。
見るもの、感じるものの姿を損なわず、そのままの形で見定めようとすることだ。

職人であるということは、ルーチンに物を作り上げるということではない。
材料の特性を引き出すことに心血を注ぎ、それを活かすことに注意を払うことだ。

現に、詩人や職人は対象とそうやって向き合っている。
そうである限り、言葉や材質の制限は、彼らの自由を奪うものではない。

それらがむしろ、
彼らと対象との間にある、仕事の自由を保証しているように見えるのも、
個性というものの扱いに、彼らが熟知しているからだ。


患者さんの能力や価値を引き出すために必要なのは、相手を知るということ。
そして、それを支援するために必要なのは、意味を形に変えていく構想力。

僕ら作業療法士も、同じではないか。


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by hiro-ito55 | 2014-12-17 23:12 | 作業療法 | Comments(2)

望まない孤独


「ワタシの体に、誰も触らないでほしい。」
看護師に涙を浮かべてポツリと呟いた、その人の痛みには理由がある。

自分を支援してくれるはずの人たち。
その人たちを信じられなくなることが、どれだけその人の孤独を深めてしまうか、
僕には、それを想像することでしか、痛みを分かってあげられないでいる。


通院や入院の必要性。
在宅でも受けられる医療とそうでないもの。
支援が必要なことと自分でできること。
そして、体調の変化とリスク管理の重要性。

在宅で生活するために、それらについて現実的な理解を成し、
そこから、自分らしく生活していくためにどうしていったらいいのか....。

生活する者として在り続けたい、
そう願う気持ちとのバランスを図りながら、その人は自分なりに考え、
具体的に自己責任で決められることと、支援者に委ねた方がいいことを区別して、
今までも、そしてこれからも、主体的に自分の生活と関わろうとしてきた。

日常動作全般に介助を必要としながらも、
自分の意思で判断する能力は、しっかりと持っている。

だから、不自由になってしまった身体でも、
自分のひとつひとつと、懸命に向き合っていくことはできる。

そう思って生活してきた。

だから、医師、看護師、セラピスト、ケアマネ、ヘルパー....、
自分を支援してくれる人たち。
みんな、自分の生活や意思決定が成り立つために、居てくれるのだと信じていた。

でも.....、
いくつかの重要な判断を下すために、優先されたのは自分の意思ではなかった。

その人に突き付けられた現実は、
支援者側の都合によって、生活が覆されていくという事実。

その現実を目の当たりにする度に、
自分の意思が踏みにじられていくことを知った。

そしてそれが、支援者側の連携によって成されていると知ったとき、
その人は深く傷ついた。


「ワタシの体に、誰も触らないでほしい。」.....

看護師を前に呟いたその言葉は、
自分の孤独を認める、深い悲しみへと変わった。


だからリハビリの間、
笑顔で話すその人を見ながら、僕はずっと考えていた。

僕らはときに、対象者を望まない孤独へと追いやる、
その現実を作り出す力を、持っているのだということを。


生活全般に介助が必要な方の場合、
ADL全てに、リスク管理という考え方が及ぶことだってある。

どんなに綺麗ごとを並べても、
医療者や介助者は、患者さんに対していつでも優位な立場に置かれているものだ。
僕らが望むと望まないとに関わらず、その力関係は存在しているし、
それは、否定することのできない現実だと思う。

だから、支援を進める上で、その力学的優位性を解消できないならば、
支援者の側から、相手に近づいていかなくてはいけないと思う。

支援が、本当に相手の自律を後押しするものとして働いているのかどうか、
そういった自省は、相手の身になって考えられる人でなければできないだろう。

現実に、支援者に優位な力関係が存在しているとしても、
そういう人が支援者側にいれば、患者さんはきっと孤独にはならないと思う。



僕らは大きな過ちを犯した。
リスク管理が、誰にとってのリスクなのかを履き違えてきた。
必要性が、誰にとっての必要性なのかを見誤ってきた。
大丈夫という言葉が、誰の思う大丈夫なのかを深く考えてこなかった。

それらは全て、
支援者側のリスクや必要性であり、大丈夫であったのではなかったのかと。

今、その人が深く傷ついているのは、僕らがそれに無自覚であったがために、
支援が、生活操作の実践の場へと変わってしまったからだ。


これからも、
訪問すれば、そこに屈託のない笑顔が待っているだろう。

でも、「あなたの気持ち分かるよ」なんて、
そんなふうに声を掛けることは、僕には出来なかった。

今そんな言葉は必要のないものだし、相手の心を深く傷つける。
ただそれだけでしかない。

作り出した孤独。
それをどう癒していくことができるか。僕は、そんなことをずっと考えていた....。


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by hiro-ito55 | 2014-12-09 17:21 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

書く責任をどこまで引き受けるか


僕は、このブログを書いていることを、
直接会う人に対して、自分から極力教えないようにしている。
特に仕事を通じて、直接関係を持っている人には教えていない。

その理由は単純なこと。

僕の書いた内容によって、
それが、ある個人や団体のことについて書かれたものだと特定されたくない、
という思いがあるからだ。

もし、書いた人物が誰なのか予め分かっていれば、たとえ実名で書いていなくても、
その内容や書き方次第で、個人や団体が特定されてしまうことだってあると思う。

それによって、相手に嫌な思いをさせてしまったり、
個人や職場間の人間関係や、信頼を壊してしまったりしたとしたら、
僕はその責任を取ることができない。

ブログというのは、本人にその意図がなくても、
書いたことで特定の誰かや団体が、悪い印象を持たれてしまう可能性があることも、
事実だと思う。


先日、ある人のブログで、
日常出入りしている人たちの、具体的なトラブルについて書かれていた。
読む人が読めば、それがあの人たちのことだと分かってしまう、そんな内容だった。

もちろん、どんなことを書こうがその人の自由には違いない。
その自由について、どうこう言うつもりも全くない。
だから、このことに触れようかどうか、ずいぶんと迷ったけど....。


その後、トラブルを起こしてしまった人たちの事業者間で話し合いが持たれ、
お互い反省するという形で問題は決着している。

けれど、その記事を読んだだけの人は、当事者の近しい人でない限り、
そういう事実があったことまでは、知りようがないのだ。

だから、その人たちを知る第三者が、その記事を読んだとき、
あの事業所は、あんなことでトラブルを起こしてしまったという事実と、
悪い印象を残しただけで終わってしまっている。

そして、書いた本人が誰であるかは、当事者にも分かっているから、
下手をすると本人までも嫌な印象を持たれ、その後の関係を壊してしまいかねない。


もちろん、他所様の家で勝手にトラブルを起こし、
家人に不快な思いをさせてしまった人たちが、問題であることには違いない。

だから、それについて思うことがあれば、具体的に書いてもいいだろうし、
どのように書くかは、書き手の判断に基づいているものだと思う。

でも僕は、そのあたりの判断というものは、極めて微妙で、難しいものだと思っている。
僕が、自分のブログを直接会う人に教えていないのも、そう思うからだ。


自分の思いや考えを言葉にするのは、とても大事なことだし、
そして言葉は、誰かに伝えるためにあるものだとも思う。

書いたことで、個人や団体が簡単に特定されてしまい、
その書いた内容だけで判断されてしまうことも、伝えた結果だと思う。

言葉というのは、自分の責任の及ぶ範囲で発するべきものであって、
その責任をどこまで引き受けるかは、書き手自身の判断だ。

もし読み手に対して、自分で決めたその責任が果たせないとしたら、
それについて書くことは控えるか、自分の素性を明かすべきでないと僕は思っている。


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by hiro-ito55 | 2014-12-02 18:23 | 社会 | Comments(2)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー
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