<   2014年 09月 ( 3 )   > この月の画像一覧

言霊(ことだま)


言葉には、力があるという。

詩でも、誰かの言葉でもいいけれど、
世の中には、確かに僕らの心を捉える言葉というものがある。

言葉によって自分の心が動かされたとき、
僕らは、その言葉の姿や表現性、或いは、その言葉の持つ力を感じることができる。

そして、
その力を感じつつ、驚き、或いは戸惑いながらも、心が動かされるということ。
そのとき僕らは、言葉の持つ働きを深く信じていることになる。

現に、誰かの言葉に心打たれるように、誰かの詩に感動するように、
それぞれが、それぞれの仕方で、その力を感じることができるのは、
紛れもなく、僕らが言葉というものの働きを信じているから。

そこには、
それぞれが、それぞれの力量に合わせて感じられるだけの、
言葉に対する信頼と呼べるものしかないと思う。

もし、「誰かが○○と言ったから、△△という結果になった」
という、言葉と結果の間に生じた、現象としての理解の仕方を信じ、
それを指して言霊と言うのならば、それは最早、言霊信仰という馬鹿げた捉え方だ。

そんな薄っぺらなところには、言葉の魂など存在しない。


誰かの言葉に心打たれること。
誰かの詩に心から感動すること。

そこには、僕らの心をそのように導いてきた、言葉に対する親しみがあり、
それが、どんな物的な結果を齎そうとも、或いは齎さなくても、
僕らは、この信頼自体を笑い済ますことはできない。

言葉に心を預け、
言葉に備わっている固有な働きを、そのままの形で受け取るということ。
それを言葉の魂、言霊と言うのだと思う。


b0197735_19303243.jpg







[PR]
by hiro-ito55 | 2014-09-24 19:32 | 日本人 | Comments(0)

少しでも多角的に


一口に在宅生活の継続と言っても、
誰のために必要な支援なのかということは、常に意識していなければならないし、
そのために優先させるべきことや、明確にしていかなければならないことも、
ケースによって様々だ。

その中で、在宅生活を継続していくために示されたいくつかの選択が、
けっして、誰かの我慢を継続的に強いるものであってはならないように、
僕らは、その選択に相応しい支援について考え、
その方法の、最適化を探っていかなければならない。


― 時間は掛かっても、いろんな角度から問題を見れる人は頭のいい人だ。―

これは高校生のときに、担任の先生から聞かされた言葉。
それは、数学の問題を解くときに出てきた言葉だったと記憶しているけれど、
今、ふとその言葉を思い出した。

専門職として、支援スタッフの一員として、いろんな角度から多角的に見ようとすれば、
その都度、目的と照らし合わせて立ち止まってみなければならない。

それは、状況に合わせながら考え、悩み、
そこから、最適な答えを導き出していくということだと思う。


訪問リハでは、
週に一、二回の訪問時間に、リハを提供しているだけではダメな場合も随分と多い。

例えば、
定期的にショートステイなどのサービスも利用した方が、
結果として、在宅生活を長く続けられることがある。

逆に、
一日でも多く家族と過ごせる時間を持つことで、
それが双方の生き甲斐や、生きることの意味に繋がっていくことだってある。

僕らは訪問する毎に、
利用者や家族が、今どういった状況に置かれているのかを知り、
足りないところを補うため、これからどんな支援を必要としていくのかを、
時系列に従って、見ていくことのできる立場にある。

座れるようになったこと、歩けるようになったこと、
それらができるようになったことで、そこからどんなことが可能になっていくのか、

また、それによって必要とされる具体的な支援は何かについて考え、
その可能性や選択について、いくつかの具体的な答えを順を追って示し、
ともに歩むことのできる立場にある。

だから、
今は、定期的な介護者のレスパイト確保を優先させるべきなのか、
或いは、外出も含めて、家族とともに過ごす時間と場が必要なのか、
それとも、何かができるようになったことで、
そこから広がっていく活動に向けて、取り組んでいく一歩が望まれているのか、

それらはみんな、在宅生活の継続という目的と照らし合わせながら、
変化する状況に合わせて、その都度導き出していかなければならないものだと思う。


確かに、リハ職だからこそ、
機能訓練やADL練習をするのは当たり前のことなんだけど、
ご家族やご本人にとってみれば、
在宅生活という現実と向き合っていくために採り得る、選択や可能性を、
支援職側から、それがひとつでも多く示されることを望んでいるもの。

それに、
今、リハビリでこんなことに取り組んでいますとか、
何分間、座っていられるようになってきていますとか、
ケアマネさんや他職種がリハ職から欲しい情報だって、
実は、そんなところには無かったりする。

リハ職だからこそできるアセスメントは、
きっと、身体機能や能力についてのことだけではない。

僕らがそれについて考え、情報を共有していくことで、
結果として、在宅生活の可能性を広げるきっかけになっていくことの方が、
うんと多い気がする。

患者さんから信頼される医者が、
その人の病気だけではなく、病気を抱えた一人の人として診ているのと同じように、
僕らリハ職が、人として関わるというのは、そういうことではないだろうか。


b0197735_045447.jpg








[PR]
by hiro-ito55 | 2014-09-18 00:07 | 作業療法 | Comments(0)

始まりの詩(うた)


無関心を装えば、傷つかなくてすむだろうけど、
きっと、笑うことも忘れてしまう。

他人の反応は、たいてい私の期待通りにはいかない。
人と共有できるものなんて、僅かなものかもしれない。
だから、他人の本当の気持ちなんて、分かりたくもない。

けれど、独りは寂しいもの。

肝心なのは、他人のためではなくて自分のため。

素直に認めるよりも、否定してしまったほうがかんたんだ。
自分の意思なんて、100%反映されるわけではない。

どんなときも人間らしくとは思うけど、
つまはじきにされれば、私も心を無くしてしまう。

聞いたふり、見たふり、知ったかぶり。
ふりかえれば、そうして過ごした現実の、なんと多いことか。

でも、そんなことみんな全部、
どこかで聞いたような、ありふれたこと。


どんな言葉も聞こえないほど、悲しくさせるのは、
「自分だけだ」と決めつける、貧相な心。

だからそんなときは、どうか思い出してほしい。
自分のために生きているのは、「自分だけ」だろうか...。
共有できるものが僅かなのは、「自分だけ」だろうか...。
他人の本当の気持ちが分からないのは、「自分だけ」だろうか...。
自分の意思が100%反映されないのは、「自分だけ」だろうか...。
つまはじきにされたとき、心を無くしてしまうのは、「自分だけ」だろうか...。


全てにおいて完璧な人間など、どこにもいない。
人は、不完全だから動くことができる。
不完全だから、進むことができる。

でももしあなたが、全てにおいて満たされていれば、
そこから一歩も動くことはできないだろう。

そうなれば、それはもはや人ではない。
人のカタチを借りた人でなしだ。


立ち止まりたければ、立ち止まればいい。
挫けそうなら、挫けてみればいい。
他人の心が信じられないなら、無理に信じなくてもいい。

そこに、今日を生きる私の救いなどなくても、
これからを生きるための、彼や彼女の物語が、たったひとつあればいいのだ。

不器用な人間は、不器用なりに完璧だ。
だからこそ、そこからきっと新しい何かも、始まっていくはずなんだ。


b0197735_19204541.jpg








[PR]
by hiro-ito55 | 2014-09-09 19:24 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー
プロフィールを見る
画像一覧