<   2014年 07月 ( 4 )   > この月の画像一覧

支援の形を模索中....。


リハビリの仕事をしていて、これ以上ないほどの悩みを感じるとき。
僕の場合それは、進行性の疾患を患った方へ支援を続けているときです。

リハビリをしているのにも関わらず、回復よりも病気の進行の方が勝ってしまう現実は、
支援している側の無力感を、際限なく増幅していきます。
もちろん、一番辛いのは本人自身であったとしても....です。

そんなとき僕は、患者さんと一緒に今、何に向けてリハビリをするのか、
それを今一度明確にすることを、何よりも大事にしていこうと思っています。


たとえ、病気の進行は止められないにしても、
今、何をやりたいかに焦点を絞って、それを支援していくこと。

それができれば、僕の中でも患者さんの中でも、
病気の進行ばかりに目が行きがちな毎日の価値が、きっと変わると思うし、
それを可能にするのが、作業療法の力だと思っています。

それしかできないのではなく、
それをやることによって、物事を経験しながら生きるという、
人の毎日の根源的な在り様を、プラスの価値ある方向に導いていく、
それを可能にするのも、作業療法の力だと思っています。


どうしても、出来なくなることが否応なしに増えていく毎日の中で、
今、何をやりたいかに焦点を絞り、それらをひとつずつ形にしていく。

その努力は、人生全体から見れば、たった一瞬の出来事なのかもしれません。
けれど、そこにどういう意味を持たせるかによって、
きっと、そのたった一瞬の出来事自体の、価値が変わる。

目の前の患者さんに、ただ共感するだけでもなく、
或いは一方的に、こちらの専門性を示すだけでもなく、

何に向けてリハビリをするのか、
その形を一緒に作り上げていくことで、きっと毎日の意味を変えられる....。

僕はそう考えています。


今現実には、僕の目の前には、進行性の疾患を抱えた患者さんがいて、
実際に、その人自身の形を少しずつでも共に見つけていくことの難しさを、痛感しています。

けれど、その難しさを思い知らされながらも、
今その人が何をやりたいかに焦点を絞って、それを支援していくこと、
そこに具体的な支援の形の答があると信じて、それを具現化していくことに労力を費やしていく。

そこに僕の役割というものがあって、
そのために必要な努力が求められているんじゃないかと感じています。

進行性の病を抱えたその人のために、僕に一体何ができるのか。
今僕は、その形を模索中です....。


b0197735_2354092.jpg





[PR]
by hiro-ito55 | 2014-07-30 00:01 | 作業療法 | Comments(0)

対人支援


少し前に、お能に詳しい人から、能と現代劇について、
その一番の違いは何かといことを、お話して頂いたことがあります。

ミュージカルや演劇といった現代劇の世界で優先されるのは、
役者が、どれだけ自分の受け持つ役に成りきることができるのかであり、
そのためにその役の持つ個性を、セリフや表情、身振り手振りを使って表現します。

役者それぞれが、それぞれの役の個性を余すところなく表現する、
そういう形で、ひとつの劇というものが演じられます。

それに対して能は、
個性や自我というものを徹底的に排除しなければ、上手く演じられないそうです。

現代劇とは真逆で、
自己意識というものを徹底的に排して、ひたすら決まった「型」を演じることに徹する、
それが、お能の特徴だということを伺いました。

「型」に徹し、同じ所作を何度も何度も繰り返す。
繰り返すうちに、その型が自分の体に染みついて身体知となり、
いつの日かその型を破り、離れ、新しい型が生み出されていく...。

職人の世界でよく言われる「守破離」というのも、
お能を演じる上では、極めて重要な在り方であるそうです。


と、ここからは対人支援の話になりますが、
対人支援の基本はまず、対象者の持つ能力や価値を引き出すことにあります。

専門職である僕らは、
引き出した能力や価値を支援するために、その専門性を発揮すればいいわけですが、
では、その能力や価値は、どのようにして引き出していけばいいのでしょうか。

作業療法に打ち込むために、
対象者が自身の能力を自覚し、その価値を認めるのはもちろん彼ら自身です。
その決定は常に彼らが下すのであって、
資源的に、或いは根源的に、その権利が僕らに備わっているわけではありません。

対象者とともに作業療法を進める上で、最初に僕らが成さなければならないことは、
相手を知ろうという姿勢を、まず相手に伝えることです。
作業療法士が、自身の持つスキルや理論を、対象者に示すことではありません。

それらは、
引き出した能力や価値を、支援する段階において必要とされる姿勢であって、
意思決定の機会や権利を、対象者から奪わないためには、
その前段階において、僕らがそのような姿勢で対象者に臨むことは、
極力避けなければならないことだろうと思います。

対象者の自主性に則って、その後の対人支援を展開していくのであれば、
僕らは何よりもまず、相手を知ろうとしなければなりません。

たとえば、
自分の大切な人、或いは近しい人のことを、僕らが本当に知りたいと思ったとき、
僕らはまず、どのようにその人と接するでしょうか。
いきなりその人を分析的に見たりするでしょうか。
自分の考えや価値観を主張すれば、相手を知ることができるでしょうか。

その前にまず、
あなたの話を聞きたい、或いは場を共有していたいと思えることが先で、
そういう姿勢が伝わることで、相手の中に僕というものが現れる、
そして、そういったときに、きっと僕らの中にも相手の姿が現れる、
そういうものではないでしょうか。

日常的にそういうやり方で、僕らはそれぞれお互いを認識し、
やがて、その姿勢がお互いを知っていくということに繋がるとするならば、
相手が支援対象者であっても、そのやり方は変わらないはずだと思います。

まず何よりも、
その人の話を聞こうとすること、時間や場を共有しようとすること、
その繰り返しの中から、支援できる、或いはしなければならないポイントは明らかになり、
そこに、専門性という個性を発揮していくことが、対人支援で必要とされる形。

こちらの専門性を闇雲に示せば、それが対人支援に繋がるかといえばそうでもなく、
逆にあらゆることに共感する、それだけでは支援の形に繋がっていくとは言えない。

どの段階、どの場面で共感することを優先して、相手のニーズを感じ取るのか、
どの段階、どの場面で専門性を示していくべきなのか、

対人支援には、そういう二つの顔というものがあることを自覚して、
それらを使い分ける能力が、僕らには要求されるのだと思います。

その姿は、お能や現代劇での個性や自我に対する捉え方と、
どこか共通する部分があるのではないかと思います。

でもそう思えるのは、僕だけなのかもしれないけど.....。


b0197735_184165.jpg







[PR]
by hiro-ito55 | 2014-07-22 18:43 | 作業療法 | Comments(0)

おかえりなさい


昨日は、担当利用者さんの退院後初めてのリハ。

痛みの再発が気掛かりだったけど、
昨日は思いのほか元気な姿を見ることができて、ホッとした。

実は、彼女がリハ目的で入院しているときに、
近況を知らせる情報が、病院側からファックスで送られてきたことがある。

「リハビリ後の夜間痙攣と下肢疼痛の悪化が、
 顕著にみられるようになってきております....、」

そこまで読んで、嫌な予感が的中したと思った。

疾患の特徴から、
少しの運動でも体に負荷が掛かったり、疲労がたまったりしているときには、
疼痛やクローヌスが出現しやすいことは分かっていたし、
その情報も、毎月主治医には報告書としてちゃんと上げていたのに....。

そして、痛みは我慢の限界を超えてしまったようで、
本人は鎮痛剤の投与を希望するも、
病院側は、緩和医療の体制が整っていないことを理由に拒否。
代わりに、精神科の医師による治療を勧められた。

そして、彼女が精神科医の治療を拒否すると、
今度はあからさまに仮病扱いされたという、
信じられないような話を、看護師と本人から聞かされた。

そのときファックスで送られてきた情報に、
その後の治療方針については詳しく書かれていなかったけど、
看護師の話では、精神安定剤の投与を勧められた上に、
病室の監視カメラの設置も検討されたのだという。

精神疾患があるわけでもなく、ましてや嘘をついているわけでもなく、
彼女はただ、痛みを和らげてほしいだけなのに...。

彼女にとっては、
そんな対応をされたことが、たいへんなストレスだったのだろう、
そのときの記憶が、断片的にしか残っていない。

病気自体が治ったわけではないけれど、退院後の今は、
他院のペインクリニックを受けて、幸いにも痛みが自制内で経過できていること、
それを確認できただけで、僕は少し安心した。

けれど、一番ホッとしたのは彼女自身だと思う。


b0197735_2351034.jpg








[PR]
by hiro-ito55 | 2014-07-13 00:01 | 作業療法 | Comments(2)

他に置き換えることができないもの


思いを胸に、懸命にリハビリに取り組む人がいる。

いつか書いたことがあるけれど、
それぞれの願いや、その願いに向かって取り組む直向きさは、
それらはどれも、他のものには置き換えることのできない、その人自身の姿になっている。

その一所懸命さを前にして、共に少しずつでも歩もうと思えたとき、
僕はふと、その姿はきっと詩に似ているんだということに気付く。


功しは多い。しかし、人間はこの地上に詩人として住んでいる。
             ― フリードリヒ・ヘルダーリン ―



その人にとっての問題、それを方法論や理屈からではなく、
切実に経験しているところから、一緒に考えていくと、

その在り様は、言葉では言い難い経験を、
誰もが、何とかそれぞれの形として表そうとしているのだ、
ということに気付くと思う。

ものの在り様に肉薄した詩は、他の言葉で置き換えることができない。
それと同じように、直向きに取り組む人の在り様もまた、
僕や、他の誰かに置き換えることができないものだと思う。

もし「○○はこうだ」という理が先にあって、それに合わせて各個があるとするならば、
それぞれの人生観もまた、観念的なものになっていくだろう。

けれど、人が人としてあるため、
自分自身の在り様を見つめる方向に、日々の経験を見直していくのなら、
その姿は、詩人としてあるように思う。

大事なのは、
ものや人の姿は、僕らの経験の中にこそ生きてあるということ。

だからもし、その経験を言葉に出来たとき、
その言葉は、けっしてその人の姿と切り離すことはできない。

そうして生まれた言葉は、
それが、他の言葉で置き換えることができないことを考えれば、
そんなとき、詩はもはや詩人の特権ではなくなっているのかもしれない。


今はまだ、
ひょっとしたらその姿は、言葉では言い難いものかもしれない。

けれど、それを何とか形にしていきたい、
そういう直向きな姿から、共に探していけるものがあるのなら、

たとえそれが、人の目に未熟な姿と映ろうとも、
僕はその在り様というものを、一緒に見定めていきたいと思う。


b0197735_22575183.jpg








[PR]
by hiro-ito55 | 2014-07-02 23:01 | 作業療法 | Comments(2)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー
プロフィールを見る
画像一覧