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今年一年を振り返って...


今年も早いもので、残すところあと僅か。
あっという間の一年だったけど、
振り返れば今年は、周りのみんなに支えられながらなんとかやってこれた、
そんな一年だったなあと思います。

今年最初の一か月半は、ストレスを溜めてしまっていたケド、
二月からは、念願の訪問リハビリの仕事を始められて、
忙しい中にも様々な出会いと別れを経験し、充実した一年を過ごすことができました。

そんな今年、特に年初に改めて感じたのは、
仕事をするために、人の縁というものは大切にしなければいけないものだけれど、
求められてもいないのに、その縁を利用するのはよくないということ。

どんなに自分をアピールしても、
結果、それは周りとの様々な軋轢を生む元になるし、
自分が頑張れば頑張るほど、
いつの間にかそれは、誰にとっても気持ちの良い仕事ではなくなってしまう...。

やっぱり仕事は、求められるところでってところが基本になるんだと思う。

その求められる中で自分をアピールして、
患者さんのために、自分の能力を活かしていくこと、
周りとの自然な信頼関係は、そんな風にして生まれてくるのだと思うし、
仕事をする上では、これはきっととても大事なことだということに気付かされました。

だから今年は、
自分一人で闘っているのではない、改めてそう感じられた一年でもありました。


今年も一年、いろいろあったけど、
出会うことのできた人たちへの感謝の気持ち、
そんなものを、これからも大事にしていけるような仕事をしていきたいと思っています。

それでは皆さんも、よいお年を。

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by hiro-ito55 | 2013-12-31 17:05 | 日常あれこれ | Comments(0)

言霊について少しだけ...


日本には「言霊(ことだま)」という言葉があります。
言霊とは、呪術的なものや暗示のようなものではなくて、言葉の表現性である
少なくとも僕は、そのように理解しています。

僕らは、
言葉によって、色々と経験したものをはっきりと意識化することができます。

人は、物事を「理」というもので説明されると、
何か、とても高尚なことを言われたように感じるものですが、

世の中の姿や、人の心の知りようは人それぞれで、
いつでも、自分の力量に応じてその都度経験し、これを味わい、
自分のものにしているはずです。

だから、
言葉は、その人の経験と切っても切り離せないものだと思います。

理が先にあるのではなくて、物に対するそれぞれの経験が、誰にでもまず先にある。
それをうまく表現しようとして、言葉の持つ力に捕われる。
そういう働きが、経験と言葉の間にはあるのだと思います。

だから例えば、音楽について知識をいっぱい持っている人よりも、
たった一曲でもいい、それに感動できる人の方が、遥かに音楽の何たるかを知っているし、
そういうところから、言霊というものが生まれてくるのではないかと思うのです。

或いは、どうしてもこの物事には、こうという言葉しか思い浮かばない、
そんな経験は、それぞれが、すぐには言葉で言い難いような体験を通して、
そこから言葉の持つ力の、その不思議さを経験することだと思うのです。


物事には、それが持つ、それぞれのリズムというものがありますが、
そのリズムに応じるのが、僕らの経験であり、それを見定める言葉というものです。
そして、そこを離れて言葉を扱えば、きっとその言葉は、ただの記号になってしまいます。

経験があって、そこから理が生まれてくるのはいいと思います。
けれど、理で人の経験の全てが言い尽くされていると思ってはならないし、
経験と理が離れてあるのなら、その理はウソになる。

言葉で言い難いというのも、
逆に言えば、それを何とか言葉で見極めたいという、僕らの願いの現れであって、
それは経験の自覚化・意識化への渇望に他ならないのだからだと思います。

言霊
それは、けっして識別標として言葉を扱うということではなく、
それぞれの人が、経験する物事に直に触れる不思議さに捕われながらも、
これを何とか見定めようとする、人の表現性のことではないでしょうか。


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by hiro-ito55 | 2013-12-23 20:56 | 日本人 | Comments(0)

from me....


怒ったり、喜んだり、口ごもったり....、
一見すると、辻褄の合わないように見えるその人の表出と、
一人の人間は、ある纏まった総体としてあるのだという事実。

だから、その人を理解するのは難しい。

「ここにいる人は、ワタシのこと何も分かってないでしょ?」

ココロ、カラダ、ドウサ、カツドウ...
僕らにはその人の行動や心理、そういったあらゆるものを分析して、
再び繋ぎ合わせるための便利な物差しだってある。

けれど、その人を理解するのは難しい。

便利な何かに自分を託す前に、
ワタシを理解しようとするため、必要な感性を示してほしい。


ただ変わらないのは、
ワタシは、いつでもどんなときでもワタシであり、
これからも恐らく、ワタシはワタシであり続けるということ。

だから、
他人の尺度を当て嵌めて、ワタシを見るのは止めてほしい。

分かり易いというのは、あなたにとってのもの。
ワタシのものじゃない。

苦しむことも、嬉しいと感じることも、諦めてしまいたい気持ちも、
お互い伝え合ううちに、ワタシタチは近づくことができる。

たとえワタシが矛盾だらけであったとしても、
ワタシタチは何かに共感し、何かを共有することができる。
ただそれを、一緒に探してほしい...。


だから、
その人のコト。その人のカタチ。
それを分かるなんて、僕には簡単に言うことはできそうにない。
けれど、共にある時間を大切にしていくことはできる。

そうやって、理解不十分であるにも関わらず、
僕らは近づいていくことができるのだと信じたい。

何故だか、上手く言葉にできないその気持ちではあるけれど、
二人が二人であるために、一緒に探していけるものがある。

そう信じればこそ、
最後はいつもありがとうの言葉と、また会えるかなという不安、
そんな複雑な気持ちも、生まれてくるのかもしれない。


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by hiro-ito55 | 2013-12-20 00:11 | 作業療法 | Comments(2)

道と呼べるもの


人生の全ては偶然だと思う。と同時に、必然であるとも思う。
そして必然に変わったものが、その人の道になっていくのだと思う。

人にはそれぞれ道があるけれど、
いつだって、その都度拾い上げてきた選択の上に、その人の道ができていくもの。

だから、
偶然を必然に変えられるどうかは、その人次第。

その人次第ではあるけれど、
その道は、縁と呼ぶべきものによって、形を与えられていくように思う。


ひょっとすると、初めそれは、自分一人で拾い上げたと思えるような、
幾つかの偶然の重なりであったかもしれない。

けれど、世に捨てられたような世捨て人でもない限り、
一人ぼっちで生きられる人など、唯の一人もいない。


自分自身の力だけで切り開いてきたと思えるような道でさえも、
きっと、他人の影響や支えなしでは成し得ない、
大きな連環の中を通っていく一筋の道である以上、

それは、偶然の連続のようでそうではなく、
寧ろそれは、縁と呼ぶべきものによって形を与えられているように思う。

偶然が縁によって必然となり、必然がその人の道になる。
ならば、闘う必然もまた、その人の道の上でのこととなる、
そう言えるのではないだろうか。


闘うこと、生きること、
それらはけっして、抽象的な世界で起こる出来事なんかではないし、
まだ道のできていないところで闘うことなど、誰にもできる筈がない。
辛いことも、悲しいことも、嬉しいことも、みんなその人の道の上での出来事だ。


たとえばこの時代に生まれ、
この瞬間に自分が在るということは、ひとつの運命に違いない。
出発点としての、その座標軸を変えることはできないかもしれない。

しかし、
そこでどう生きるかは、いつだってその人の自由ではないだろうか。


自分の感じることや、大切だと思うこと、
そのどれを拾い上げ、意味付けしていくかは、その人の観じ方であって、
それに忠実であるということはまた、紛れもなく自分の生を生きることでもあると思う。

大きな連環の中でこそ、形を与えられ一筋に通る自分の道。
そこから、自分だけの地図を作っていくこと。

そのためにそこで闘うものがあるということは、
それならそれで、とても幸せなことではないかと思う。


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by hiro-ito55 | 2013-12-12 00:40 | 哲学・考え方 | Comments(0)

今日、学んだこと


今日、改めて学んだこと...。
それは、人は己自身のことを知るために、コトバにするのだということ。
それを、書き留めたメモを頼りに思い出してみる...。


人の、物事へのはっきりとした認識が言語にあるのなら、
経験の発端と言語の誕生は、その源泉を同じくしている。

そして、その認識を得るためのプロセス、
つまり物事の知り方というのは、一人一人違っていていいものに違いない。

例えば、
言語を獲得する前の子供は、
物事に対して言語化して認識する前に、全身でそれに応じている。

身体全体を使ったその表現はまさに、
自分がどう感じるのかということの表現であり、
分析的に言及することが不可能なぐらい、豊かで多くの感受性でもって応じている。

そしてそれは、
やがて言語を手に入れれば、自分自身の自己認識の獲得へと繋がっていく。
手に入れたその人のコトバの使い方が、そのままその人の生き方へと繋がっていく。


その意味で、
たとえば自分自身の感じる悲しみを、自分自身のコトバにするということは、
その感情を、他人に差し出すということではない。
悲しみを、はっきりと明瞭にするためにコトバにするということだ。


それが、己を知っていくということであり、
経験の発端と言語の誕生が、その源泉を同じくしているのも、
例えば全身で事物に応じる子供のように、
物事の直接な接触から、言語が生まれていくことを考えれば分かり易い。

それはまた同時に、事物や己を知ることの根本が、
分化せずに全的に知るというところにあることを、意味している。

その、事物に対する全身の応接によって、
人は自分自身のコトバを獲得し、自己認識を深めていく。


そうであるならば、たとえば大人になるということと、
自分の世界を、自分自身のコトバで語れるようになることは、
やはり同じことであるのかもしれない。


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by hiro-ito55 | 2013-12-03 00:02 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー
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