考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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その人のコトバ


ワタシはそんなに強くはないけれど、
それでも立ち止まることができないのは、
歩みを止めれば、全てを失ってしまいそうな気がするから...。

理屈を捏ねれば、いくらでも探すことはできると思う。
けれど、ワタシを支えてきたのは、いつだってそれとは違うもの。

目を閉じて、吹き抜ける風に耳を澄ましてみる。

ワタシの人生...。
終わりの見えないその旅路の果て、そこにどんな景色が広がっているのか。
想像してみたけれど、ワタシにはうまく描いてみせることなどできない。

それでも、
一縷の理屈を辿れば、いくらでも描くことはできるのかもしれない。
誰かの言葉を借りて、誰かの理由を頼りにして...。

けれど、
そう願っているだけじゃ現実は何も変わらない。

そう。ただワタシにできるのは、自分の足で歩み続けること。
それを支えるのが、たとえ不安や恐怖であったとしても。

立ち止まることができないのは、
ただ待つだけよりも、その方がよほどマシだと思うから。


ワタシはそんなに強くはないけれど...。

それでもいつだって、
誰かに決して分かったように語ってもらいたくない精一杯は、
どんなときでもワタシを支えてきた。

ワタシの不安や恐怖が、いつだってワタシ自身を支えてきた。


だから、ワタシはワタシの人生を歩んでいく。

この手で、この足で、見ることのできる風景を、
自分自身でしっかりと見届けていくために。

それが、ワタシがワタシ自身であることのワガママ。


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by hiro-ito55 | 2013-11-28 00:01 | 哲学・考え方 | Comments(0)

音を拾うこと


オーケストラの指揮者は、たいへん耳がいいと聞いたことがありますが、
例えばMozartは、オーケストラの演奏を一度聴いただけで、
その全ての音を、五線紙の上に正確に落とすことができたという。

ヴァイオリンの音も、ビオラの音も、チェロの音も...。
全ての音を聞き分けて、譜面上に正確に並べていくことができたらしい。

けれど僕らには、
同じ演奏を聴いても、一度で正確に全ての音を聴き分けて、
それを譜面上に並べていくことなど到底できない。

とすれば、
確かに同じ音楽を聴いて、同じ音を感じているはずなのかもしれないけれど、
僕らには最早、それは聴こえていないということと同じことなんだと思う。

でもひとつだけ言えるのは、
できる限りの音を拾おうと、一所懸命に聴くことぐらいはできるということ。


聴きながら音を拾うこと...。
人同士の繋がりも、それと似たようなところがあるのかもしれない。


例えば、こんなことを考えてみる。
この仕事を通じて、出会うことのできた利用者さん。
その出会いは、数ある偶然の中のひとつだと思う。

その中で、思うことや感じること、或いは伝えたいこと、
そんなことを、ふとしたことでも確かに感じ取ることができる人がいる。

そして拾い上げたそれらを、利用者と共に考え悩みながらも、
その人の描く生活や人生のリズムの上に、上手く乗せていくことのできる人がいる。

始まりは偶然であったとしても、
それら拾い上げた幾つかが形となり、いつしか必然のものとなっていく...。

その形を作り上げていく過程はどこか、
奏で上げられるひとつひとつの音を丁寧に拾い上げ、
秩序正しくひとつの纏まった形として、譜面の上に落としていくことと似ている。



だからせめて、
どんなに短い関わりでも、
彼らの発する音のひとつひとつを、拾い上げられる人、
そんな人でありたいと僕は思う。

どんなに小さな努力でも、
そこに意味があることを、しっかりと伝えられる人、
そんな人でありたいと僕は思う。


たとえ小さな一歩でも、その人にとってはその一歩が必然となり、
そこに価値が生まれてくる事実を伝えられること、

それは、
溢れ出てきた音を拾い上げ、それをしっかりと聴き分けていく作業に似ている、
僕はいつも、そんな気がしている。

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by hiro-ito55 | 2013-11-21 00:01 | 作業療法 | Comments(0)

感受性の中に


作業療法で出会う対象者は、
僕らが当たり前に経験できていることに、少なからず困難さを覚えている。

自分のできる活動、できなくなった活動、したいと望む活動、それらを意識し、
日常の中で、ひとつひとつのそれらと向き合っている。

腕を動かすことや座位になること、
当たり前であるうちは、普段意識することもない簡単な動作や活動でも、
その人にとっては、非常に強い意味を持っている。

だから彼らにとって、自分が直接に経験するあらゆるものが、
あまりにも生々しく感じられる。

彼らについて僕らが最初にしたいのは、
何かを上手く処理するために、それについてのアナロジーな説明を施すのではなく、
その「生々しいもの」を感受し、一緒に向き合っていくことだと思う。

対象者の行為や生活そのものを、論理の糸で加工してしまう前に、
僕らは、彼らの生きた言葉を感じ取れるよう、努力しなければならない。

それは恐らく、
作業療法の本質が、純粋な科学にあるのではなく、
感受性の中にあるのだということなのかもしれない。

どれだけ知識や技術を身に着けたとしても、
僕はいつでも、それを見失わずにいたい。
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「さかしだちて物を説く」人は、「物のことわりあるべきすべ」を説くので、
実は、決して物を説かない。物を避け、ひたすら物と物との関係を目指す。

個々の物は、目に見えぬ論理の糸によって、互に結ばれ、
全体的秩序のうちに、組み込まれるから、先づ物は、物たる事を止めて、
推論の為の支点と化する必要がある。

なるほど物の名はあるが、実名ではない。
或る物と自余の物との混同を避ける為に付された記号、
そういう段階まで下落した仮りの名に過ぎない。

言うまでもなく、「物を説く」人には、そういう事は一向気にならない事なのだが、
諸概念の識別標として、言葉を利用し、その成功に慣れて了うという、避け難い傾向は、
どうしても、心の柔らかさを失わせ、生きた言葉を感受する力を衰弱させる。

そうしているうちに、言葉とは、理解力の言うなりに、これに随伴して来る、
本来そういう出来のものである、という考えを育てて了うのである。

しかし、物を説く為の、物についての勝手な処理という知性の巧みが行われる、
ずっと以前から、物に直に行く道を、誰も歩いているのは疑いようのないところだ。


                          ― 小林秀雄「本居宣長」―

*注:さかしだちて(賢ぶって)
   自余の(他の)

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by hiro-ito55 | 2013-11-11 00:01 | 作業療法 | Comments(2)

今と闘う人


僕は何かと闘う人が好きだ。
仕事であれ勉強であれ、その人が何かと闘おうとしているなら、
まず目の前にある物事に、全力で立ち向かっているもの。

本当の闘う姿をその身に纏うためには、
自分自身の姿と向き合っていかなければならない。

闘う前から闘う意味を問い、
そうして自分のそれを、観念や抽象の世界に追い出してしまうことが、
立ち向かうことではないと思う。

例えば何の不自由も感じていないのに、
自分は病気と闘えるかと問うことほど、無意味なことはないのだから。


今を必死に闘い、自分の形を見つけようとしている人がいる。
闘いながら自分が今、何をすべきか、それが見えるのを必死に待っている人がいる。

僕はいつでもその人を応援している。
耐え難い現実も、その人のものでしかないという事実に、
僕はただただ、言葉を無くすばかりだけれど、
けれどそれは、けっして同情から来る気持ちではない。

その人に課せられた試練、
それを乗り越えていけるのは、他の誰でもないその人自身であると思うから。

そのために一歩一歩踏み出す勇気の中で、その人は強くなっていく。
ここまやってこれたその自分の足で、これからもきっと強くなっていく。


本当はいくつもある道の中から、その人は闘う道をひとつ選んだ。

今まで同じように見えた景色でも、
その勇気が、きっといつでも自分自身を形作っているのを確かめるために...。

自分自身にしか見ることのできない景色、
それを見届けるのもまた、自分自身であることを確かめるために...。

これからも、他の誰とも比べられない、
誰のためでもない自分の姿を、その目で見届けるためにその人は立ち向かう。

だから僕はいつでも、その人の勇気を応援していたい。

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by hiro-ito55 | 2013-11-06 00:24 | 日常あれこれ | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー