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お見舞い


今日は一件、訪問のキャンセルが出たので早めに仕事を切り上げ、お見舞いに。

相手は今担当している元OTさん(僕自身は「元」なんて思ってないけど...)。

先週から敗血症で入院して、今週末には退院できるようだけど、
心配なのでステーションを代表してお見舞いに行ってきました。

彼女は気切のオペをしたので声は出ないけど、呼気を利用して話ができます。
そしてとにかく喋るのが大好きな人です。

そんな話し好きな彼女を見ていると、
やっぱり言葉を発してコミュニケーションができるって大事なことだなと、
改めて思ったりします。

例えば、
コミュニケーションエイドを通じての会話は、自分の意志を伝えるのには便利だけど、
その時々で変化していく感情までは伝わらない。
言葉を打ち込んで文字にしている間に、ダイレクトな感情は冷めていってしまう。

だから、声を発することに不自由さを感じて初めて、
言葉というものは、けっして意味を伝えるだけの単なる道具ではない
ということに気付くことができた。

そう言って教えてくれたのは彼女自身でした。

また少し痩せてしまった彼女を見るのは辛いことだけど、
結局、面会時間ギリギリまで、今日も他愛のない話でいっぱい笑わせてもらった。

明日はハロウィン。
退院したらたくさん話もしたいし、こんな素敵な作品をまた作って貰いたい。

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by hiro-ito55 | 2013-10-30 22:45 | 日常あれこれ | Comments(0)

みんな違って当然


週末は職場の食事会。
みんなでお肉を食べに行ってきました。
場所は名古屋市名東区にある「千薫庵」というお店。

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外は立派なお庭。
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個人的に行こうと思えば、目玉が飛び出るほどのお値段のお店で、
巷の噂では、あのデヴィ夫人も行ったことがあるとかないとか...。

店内の雰囲気はこんな感じです。
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挨拶に訪れたお二人のシェフが、さっそく目の前で調理してくれます。
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そしてメインは宮崎牛。A5ランクのりっぱな霜降りです。
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それを目の前で焼いてくれます。
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僕はミディアムで注文したけれど、
ウェルダムにしても、とろけるような柔らかさでした。

そして仕上げはガーリックライス。
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味音痴な僕だけど、これにも大満足☆
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そんな幸せなひととき...。
お腹が満たされた後も、みんなでワイワイガヤガヤと雑談していたのですが、
その中で所長が何気なく仰ったことが、僕にはとても印象的だった。

仕事をしていると、業務上の都合で、
どうしても担当の交替をしていかなければならないことがあります。

前任の看護師から次の看護師へと担当を引き継ぐとき、
そこには既に前任の看護師のやり方が定着していることがあるのですが、
所長はそれに気付いたときに、すごく嬉しくなると仰った。

前任者のやり方が定着しているということは、
それだけ利用者やご家族と担当看護師の間で、その方法が受け容れられ、
当事者同士の間で信頼関係が成立していたということだと...。

前任者のやり方。
それを、やりにくさではなく、
嬉しさと感じると目の前で言われたのは初めてのことでした。

提供できる看護(もちろリハも)は、一人一人違っていて当然。
みんな一緒なのではなく、後任者はそのやり方を受け継ぎつつ、
自分の色を出していけばいい。

だから、「前の担当の方は、こういうふうにしていてくれたんですよ」
という言葉を、ご家族やご本人から伺ったとき、
前任者は彼らの生活の一部にちゃんと溶け込んでいたんだなと、所長は感じるのだと言う。


ぼくが今まで働いてきた職場はどこも、
リハや看護は、誰が担当しても同じものを提供できなければいけないし、
それがチーム医療というものだという価値観で、みんな動いていた。

もちろんそれが、
職員の質的なボトムアップを指して言われていることならば問題はないけれど、
残念ながら多くの場合それは、業務効率アップのための建前にすぎなかったように思う。

僕はそれがたまらなく嫌だった。

集団的に考えて、それに沿って振る舞うことと、
個人の無責任さはどこかで繋がっている...。
いつも、そんなふうにさえ感じていた。

だから所長の言葉は、それが間違っていないということを、
笑顔でさらっと言ってのけたように僕には思えた。

利用者が一人一人違うのと同じように、
担当する者にも、みんなそれぞれに違うやり方があっていい。
そうはっきりと言えるのは、周りの職員への信頼があってこそだと思う。

だから僕も、
最善を尽くしながら仕事をしたいと、素直に思えるのかもしれない。




あ、因みに今回ご馳走になったお店「千薫庵」の場所はここね。
  ↓↓
マピオン地図(千薫庵)

お金に余裕のある方は、ぜひ一度足を運んでみるといいと思います。
文句なしの五つ星です☆







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by hiro-ito55 | 2013-10-28 13:01 | 日常あれこれ | Comments(0)

人は生かす存在でもあるということ


人は誰でも自分のフレーム(枠)というものを持っています。
この自分自身の枠というものは、非常にやっかいなもので、
それは、ときとして自分自身の成長を妨げる壁にだって成り得ますが、

反対に、
自分の枠を肯定的に自覚することで、そこから多くの気付きが得られることがある、
そういう事実に目を向けることも、
後々の自分自身の成長にとっては、大事なことであろうと思います。


自分自身のフレーム。
僕の場合で言えば、OTの目的はその人自身や誰かを生かすこと、
そのお手伝いをするということなのかもしれない、と考えるようになったことです。

何かを行うとき、それに相応しい身体技法を身に着けていくことや、
周囲の環境に働きかけていくことは、そのための手段になっていきます。

例えば万能カフ。
カフを使うことの意味には、それを使って食事や書字ができるようになることがあります。

或いは、リハビリで運動することの意味には、
筋力アップして座位になれること、または歩けるようになることetc...があります。

そして、
食事ができるようになったことで、その人にとって何が変わるのか、
歩けるようになったことで、周りとどのような関わりが出来ていくのか、
支える人にとっては何が変わっていくのか、

僕らは、できないことをできることにして終わりにするのではなく、
できるようになったことで広がっていく可能性の方に、目を向けていきます。

それはときとして、
リハビリというものが本人だけではなく、周りで支える人にとっても、
自分のできることの発見へと導いてくれるものだったりします。

その発見を、利用者とそれを支える家族と共に探していけるのは、
関わる者としての、大きな喜びでもあります。

そして、そんなとき僕は気付くのです。
一人で生きている人間など、誰もいないということに。


人はよく「生かされる存在だ」と言われますが、
僕は人は同時に「生かす存在」でもあると思っています。

患者であろうと健常者であろうと、
人である限り、やっぱりそれは変わらないだろうと思います。

誰しも互いに「生かして生きる」という、大きな連環の中に自分が在るということ。

そういう視点が欠落したまま、
自分が生かされていることだけを素直に受け入れて、それに心から感謝できる人、
みんながみんな、そんなに強い人間であるはずがありません。

常に誰かに頼らざるを得ない人にとって、
自分が生かされている存在であることを意識させられること、
ときとしてそれは、人としての尊厳を奪うことにだって成り得る
と思います。


たとえば終末期の患者さんや、難病を患った患者さん。
今もその人たちは、確かに大切な家族や誰かに支えられて生きています。

けれど、
車椅子に座って、一度でいいから家族と一緒に紅葉狩りに出掛けられるようになること。
自分と同じ境遇の人のために、あると便利だと気付いたものを作ってあげること。

そういった患者さんの姿は、大切な家族や誰かを支えることに繋がっていきます。

彼らを見ていると、
人としての自立心は、自分自身も誰かを生かす存在であるのだということ、
それに気付くことで、しっかりと培われていくものだというように思えてなりません。

だから、
どんなに人の手を借りなければ生きていけない人だって、きっと誰かを支えて生きている。
一人で生きている人間など、誰もいない。
その気付きを与えられて、人は自立した存在に戻っていけるのだと思います。

そしてそれを、患者さんと一緒に探していくことは、
誰かを生かすためのお手伝いをしている、ということになるのかもしれません。

その人自身や誰かを生かすためのお手伝いを。
今はそれが、僕にとって多くの気付きを齎してくれる自分自身の枠でもあるし、
きっとこれから、多くの人と関わっていく強い意味になるのだと思っています。

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by hiro-ito55 | 2013-10-22 00:01 | 作業療法 | Comments(0)

本当の言葉が見つかるまで...


僕が、このブログを通して知り合えた方の中に、
数か月前に大切な人の余命宣告を受け、今も苦しんでいる方がいます。

内容がプライベートなことなので、ここで詳細を書くことはできませんが、
今、相手にどのような言葉を掛けていいのか分からない時を過ごし、
その苦しみのせいで、その人と出会った意味さえも分からなくなっている...。

大切な人を前にして言葉を失ってしまうということが、
こんなにも耐え難く、辛いものであるのかという思いの中、
それでもどうすることもできない現実が、その人を苦しめています。


前回少し触れたように、大切な人と共に過ごせる時間に限りがあること、
それがはっきりと分かってしまったとき、
掛ける言葉の全てを失い、絶句するしかない現実に直面してしまう...、

確かにそれは、
誰にとってもとても耐え難く、辛いことであると思います。

でも僕は、言葉に絶することがあってもいいと思うのです。

そう言ってしまうと、
あまりにも無責任な言い方になってしまうのかもしれませんが、
大事な人の傍にいて、そこにあるあまりにも生々しい現実に感じる心が深いほど、
きっと人は、言葉に絶するものに違いないと思うのです。

そして何よりも、人に共感することや、何かを共有できるというのは、
言葉に絶することと同じだと思うのです。


人は、残念ながら、相手がどんなに大切な人であっても、
自分以外の人について、その全てを理解することはできません。

けれど、一緒に時を過ごし、共感しながら限りなく近づくことはできると思うのです。
そして、その距離を縮めていくのは、言葉を失う時間であると思います。

言葉というものは本来、
僕らの不安定な心を、しっかりと見定めるためにあるもの
です。

共感するものが、悲しみや苦しみである場合、
沈黙の中で、与えられたその現実に真正面から向き合っていくのは、
とても辛いことかもしれません。

けれど、
言葉を失えば失うほど、その絶句した経験に向き合う分だけ、
その後には、お互いを知るための本当の言葉を見つけることができると、
僕は信じています。

そして反対に、言葉が見つからないときに、その心に無理して言葉を探せば、
見定められる心まで無理をする、そういうものだと思います。


人生は、死も含めてその人の一生です。
死はその人にとって一回だけ訪れるもの。

そして、今この瞬間というのも、
誰にとっても、二度と繰り返すことのない一回切りのものだと思います。

だから、
たとえ言葉を失う時間であっても、それは大切な人と過ごせる一度きりの時間。

確かにどんな命にも限りがあり、
その終わりに向き合うのは苦しいことだけれど、

やがて本当の言葉が見つかるまで、
今はその一度きりの時間を、何よりも大事にしていってほしいと願っています。


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by hiro-ito55 | 2013-10-13 18:25 | 日常あれこれ | Comments(0)

限られた時間を共に過ごすということ


僕らは短い一生の間に、様々な人たちとの出会いを経験します。
そして、人がなぜ出会うのか、別れが訪れた後も、
その根源的な理由を、きっと最後まで僕らは知ることができません。

でも、
根源的な理由を知ることができない代わりに、共に時間を過ごすことで、
自分自身や相手と向き合う大切さを、ひとつひとつ確認していくことはできます。

そして、共に過ごしていく中で、
その時間にも限りがあること、それがはっきりと分かってしまったときに、
人は、その人との時間を、切実に振り返ることができるものなのかもしれません。


これから自宅での看取りを行おうとする、いわゆるターミナルの方。
彼らの場合、家族と一緒に過ごせる時間が本当に限られています。

彼らを見ていると、
きっと全部を受け入れて、終末期を迎えているわけではないように思います。

少し元気があるときには、外で散歩でもしてみたい...。
残り数か月の命であるけれど、それを本人に打ち明けられずにいる...。
もう少し頑張れば、なんとかなるんじゃないか...。

そこには少しぐらいの希望だってあるし、
その願いが叶わないことを確かめたはずの覚悟だってあります。

だからこそ、
お互いにどのような言葉をかけていいのか分からずに絶句してしまう時間、
そういうものがきっとあると思うのです。

確かに別れほど、人を悲しみの深淵に追いやるものはないのかもしれません。
それに対して、掛ける言葉が見つからないというのも、たいへん辛いことです。

でもだからこそ、
誰かに決して分かったように語ってもらいたくないような精一杯が、
その限られた時間の中には、あるのだと思います。

そして、それを確かに受け取ったという思いをしっかりと確認し、
それを別れの日まで大事にしていくことができるのは、
一番大切に、その人との時間を過ごした人だけであろうと思います。

彼らを見ていると、人は悲しい気持ちを残さずに、
大切な人の前を去る人ことができないのかもしれない、そんなふうに思えてきます。

人は、悲しみを残さなければ去ることができないのならば、
それこそが、生きた刻印のようなものであるのかもしれません。

そして、それを受け取る資格のある人は、
その人との時間を、大切に過ごした人だけであろうと思います。

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by hiro-ito55 | 2013-10-06 22:16 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー
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