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ハンドメイド自助具と補助具


前回、同じ作業療法士の方をリハで担当させて頂いていると書きました。
そして、同じ作業療法士として意見やアイデアを交換したり、
ときには、自助具の作成をお願いすることもあると書きました。

今回は、お互いのアイデアに基づいて、
実際に、その方と一緒に作成した自助具と補助具の一例を紹介します。


まずは、万能カフ
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対象とさせて頂いた患者さんは、関節リウマチのある方です。

通常ならば、
カフのポケット(矢印部分)に直接スプーンを差し込んでしまえばいいのですが、
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その場合、
スプーンで食べ物を掬う際に、前腕部回内位から回外方向への動作が必要になります。

ですが、この方の場合は、
スプーンで掬うときに必要な前腕の回外動作に、痛みを伴っているため、
これを何とか解消できないかということで、アイデアを持ち込みました。

案としては、スプーンを示指と平行の位置に固定できることで、
その発想から生まれたのが、このカフです。
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まず、カフのポケット部分に板を差し込んで、
その板に、スプーンを固定するためのクリップを取り付けます。
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この形だと、前腕回内位で食べ物を掬った後も、
そのままの肢位で口元まで運んでいくことができます。
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そのために、固定するスプーンには、初めから捻りと曲げを施しています。
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そして、もうひとつは上肢の固定ベルト
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対象とさせて頂いたのはCPの患者さん。

全介助で移乗するときに、弛緩した左上肢を体幹の下に巻き込んでしまう危険があるため、
これを何とかできないかと、患者さんの母親から依頼を受けました。

これについては、実際に作成した彼女が詳しいので、
ぜひこちらを参照して下さい。⇒ 『ハンドメイドアームポケット







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by hiro-ito55 | 2013-09-30 21:15 | 作業療法 | Comments(2)

同じ作業療法士の方を担当して思うこと


以前、あなたの形に触れて....という記事を書いたことがあります。

やはり長生きすることだけが、幸せではないとは思うけれど、
長生きも幸せのひとつには違いない...、
この仕事を通して毎日いろんな人と関わっていると、ふとそんなことを思ったりします。

特に、若くして重度の病を患ってしまった方の場合において、
中には、まだまだ人生でやりたいことも沢山あったはずなのに、
現実的に選択できるであろうその願いの幾つかでさえも、きっとあと数年で、全て叶わないものになってしまう、
そういうケースを担当することもあります。

そういった方のリハを受け持つときは、
正直、戸惑うことや、やりきれない思いの方が多いのが現実です。


そして若いと言えば実は今、同じ作業療法士の方をリハで担当させて頂いています。

出会ったのは、今から半年ほど前。彼女は31歳でした。
7年前に特定疾患の難病を患い、今は一日の大半をベッド上で過ごす生活をしています。

僕が出合う今までに、病が彼女の身体を容赦なく蝕んでいったのは、
きっと彼女自身が若かったからでしょう、
カルテを見ると、病気の進行は僕の想像なんかよりも遥かに速いものだった、
ということが分かりました。

31歳というのは、
患者として残りの人生を生きていくには、あまりにも若すぎる年齢です。


「端坐位になりたい...。」
僕が最初にリハの依頼を受けたとき、彼女ははっきりとそう告げました。

「自分の力で座ること」、
それが、31歳の女性が抱く望みであるというのは、とてつもなく残酷なことです。

そして何よりも、
本来なら同じOTとして、どこか臨床の場で出会っていたかもしれないのに、
こんな形でしか関われないことを思うと、
どうしようもなくやり切れない気持ちになりました。

けれどその気持ちとは別に、端坐位になりたいというその言葉を聞いたとき、僕は、
この人はOTとして何かできること、その形を見つけられることを願っているんじゃないか、
ということも強く感じました。


同じ作業療法士だからでしょうか、
通常、リハの依頼を受けたときから、患者と治療者という関係が始まり、
その関係性に基づいて、お互いの役割みたいなものが明確になっていくものですが、

彼女の場合は、患者として望んでいるというよりも、
それとは別の、自分自身の形を探して、リハを依頼しているように感じたし、
そしてそれが、OTという具体的な形であるように思えたのです。

もちろん、彼女自身が自分の体のことを一番よく知っているのだから、
病院や施設で患者さんを治療するということを望んでいるのではなく、
彼女自身が望むOTという具体的な形は、別のところにあるはずだと思います。

そしてどんな形であるにせよ、
それが彼女の望む形であるならば、その望みの少しでも叶えてあげたい。
リハを依頼されたときから、僕はずっとそう考えています。


現実には、
今も僕には、彼女の満足のいくような具体的な形を示せずにいますが、
いつからか僕は、彼女のリハビリに伺うときには、
同じ作業療法士として、意見やアイデアを交換したりするようになりました。
ときには、自助具の作成をお願いすることもあります。

そうすることで彼女自身が、
大好きだった作業療法士としての自分に、少しでも返ることができるのかもしれないし、
無理なお願いでも、毎回快く引き受けてくれる彼女の姿を見ていると、
それが僕にとっても何とも言えないほどの、彼女からの精一杯の贈り物のように感じます。


彼女自身は進行する病を抱え、その日のコンディションによって、
座位練習で頑張れる時間も大きく左右されてしまう状況にあるのですが、
それでも毎回、直向きにリハビリに取り組むことのできる、
そういう強い人であると、いつも感じています。

リハビリで伺う度に、少し痩せてしまっているのが分かってしまうこと、
それは、傍で見ていてどうしようもなく腹立たしい現実であり、
痛々しい姿でもあるのですが、

それでもやっぱりOTとして生きていられることが、
きっと彼女の精一杯の形であるように思えてくるのは、
「この前作ってくれた○○、受け取った患者さんとっても喜んでいたよ。」
そう伝えたときに見せる彼女の表情が、僕は一番好きだからなのかもしれません。


自由にならない身体。不規則に現れるクローヌス。
そして、毎日のように襲いかかる激しい痛み....。

彼女自身の苦しみや悲しみを思うと、
長生きして下さいと願うのは、あまりにも無責任なことなのかもしれない。

けれど僕には、
彼女自身の具体的な形が見つかるまで、
せめてそれまでは生き続けてほしいと、願わずにはいられません。

僕が、彼女の具体的な形を示せずにいる今、
そう願うのは、ひょっとしたら僕の勝手な我がままかもしれないけれど、
それでも精一杯生きようとする彼女の姿を見ていると、
その我がままでさえも、僕には生きる希望のように思えてならないのです。

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by hiro-ito55 | 2013-09-24 00:01 | 作業療法 | Comments(0)

今できることと、向上心や成長について


仕事では、準備したことの2~3割ほどしかできないと前に書いたことがあります。
向上心を持つということは大切なことですが、
自分のできることを急に増やしたりしようとすると、結局うまくいかないものです。

上手くいかないどころか、
事前にいっぱい準備して、たくさんのことをやろうとするだけで、
毎日がただ、とても目まぐるしいだけのものに変わってしまい、
一日一日のその流れの中に、埋もれてしまいそうになります。

そういった姿勢が、いつの間にか焦りや無力感を生み、
やがて燃えつきることに繋がってしまうのではないかということに、
最近気付きました。

自分の今できることと向上心というのは、ある意味ひとつのパラドックスです。
今の自分にできることばかりしていては、成長というものはありません。
逆に、向上心だけに身を任せていると、目の前のことが疎かになり、
足元を掬われるリスクは増大します。

大事なのは、
準備したことの2~3割ほどしか「やらない」のではなく、
2~3割ほどしか「できない」ということに、まず気付くことだと思います。
そして向上心や成長は、そういった気付きから生まれてくるものだと思います。


確かに、人生には何が何でも頑張らなければいけない時期というものがあります。
けれど基本的に、実力以上のものを出そうとしてはいけないと思います。

全力を尽くすこととは、
常に自分のできる範囲の中で、一番いいものを出そうとする姿勢。
そしてそれを続けていくことが、自分自身の成長に繋がっていく
ということ。

そこに気付かなければ、現実はいつも自分に足りないものだらけになってしまうか、
或いは、自分を取り囲む現実に、うまく適応できなくなってしまうものだと思います。


恐らくどんな仕事でも、
責任感の強い人ほど、多くのものをその身に背負い込んでしまいがちですが、
責任を持って仕事をすることと、全部を背負い込んで仕事をすることは違うと思います。

けれど、
このパラドックスの存在から、ちょっとしたバランスの取り方を間違えてしまえば、
現実に対処していく体力というものは、どんどん奪われていってしまうし、
それが、職業人としてのポテンシャルも下げていってしまうというのは、
生き抜く上で知っておくべきことだと思います。

今の自分にできること、そして向上心を持ち続け成長していくこと。
最近は反省することの多い毎日ですが、バランス感覚だけは大事にしたいですね。


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by hiro-ito55 | 2013-09-15 19:40 | 社会 | Comments(2)

最後のリハビリ


「Yさん、亡くなったよ...。」
3月から訪問リハが始まり、それ以来毎週リハビリを頑張ってきたYさん。
そのYさんがご自宅で亡くなられたことを、看護師から聞かされました。
あまりにもあっけない最期でした。

Yさんとは、リハビリを通して約6か月の付き合いとなり、
亡くなる前日にも、訪問リハで伺ったばかりでした。


リハの依頼を受けたときは、肺癌に骨メタのターミナルということで、
正直、どれだけの期間関わることができるのか不安でしたが、
振り返ってみれば半年という、時間にすれば長いような短いような、
そんなお付き合いとなりました。

最後のリハとなったその日は、珍しく朝から湿咳がひどい状態でした。
チアノーゼや意識障害はみられませんでしたが、収縮期血圧が80mmHg辺りから上昇せず、
左右肺上葉からラ音も聴取され、咳をする度に苦しそうにされていました。

「今朝からこうなの...。」と話される奥さまに対し、
肺換気能の改善と、分泌物除去が優先課題と判断されることを告げ、
いつも行なっている歩行練習は中止にして、呼吸リハに切り替えました。

リハ後は呼吸が落ち着いて湿咳も治まったため、奥さまに状況と注意点を説明し、
何かあったら看護師に連絡するよう申し送ってその場を後にしたのですが、

結局、
別れ際に見せたYさんの弱々しい笑顔が、僕の見た最後の姿となりました。


明け方に連絡を受け、最期の処置を行なった看護師の話によれば、
Yさんは眠るように静かに亡くなっていたそうです。

最初に発見されたのは、いつも献身的に付き添っていらした奥さま。
前日の呼吸リハの後から亡くなるまで、
あんなに落ち着いた主人を見られて本当に良かったと仰っていたそうです。

亡くなるときは、せめて苦しまずに見届けてあげたい....。

その願いの少しだけでも叶えられて、安堵する気持ちが半分、
あまりにもあっけない死に、虚しさを感じる気持ちが半分...。

「また来週伺いますね。」という言葉が、永遠の嘘に変わる。
ターミナルに関わる以上、避けては通ることのできない現実なのかもしれません。


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by hiro-ito55 | 2013-09-09 15:41 | 作業療法 | Comments(0)

制約の中でも伝えるということ


僕らは必ずしも、大切な人と長い時間を一緒に過ごせるわけではありません。

家族であっても、友人であっても、恋人であっても、
原理的に僕らは一人の人間として、
社会の中に一人一人の他人として存在しているわけですから、
生きていく上では、そこにはいろんな制約が発生しています

住んでいる場所が違っていたり、休日が合わなかったりというのも、
その制約の中のひとつかもしれません。

大切なのは、僕らが自分の人生を生きるというのは、
その制約の中で生きなければならないということ
です。

そしてその中で、自分以外の他人のことを、それがたとえ大切な人であっても、
分からなかったり、見えなかったりする部分が出てくるということ
です。

けれど、だからといってお互いを全く理解できないかと言えば、そうでもありません。
その限られた時間のおかげで、伝え合うことの大切さに気付くことができたりします。


人同士の関係において、
ひょっとしたら、目の前にいる人のことを自分はずっと分からないかもしれない、
或いは、逆に自分が理解されないかもしれないと感じることは、
確かに、僕らにとってはひとつの恐怖です。

だから、人と一緒に過ごすために時間を割くというのは大事なことで、
特にその繋がりが大切な人とのものであるならば、
できるだけ時間を割いて、お互いを理解するよう努めていこうとします。

しかし、多くの時間をその人と一緒に過ごしたからといって、
単純にその分だけ多く分かるようになるかといえば、
必ずしもそうとも言い切れないのが、人同士の難しいところだと思います。


例えば先に、『1割未満の時間と、9割以上の時間』という記事を書きましたが、
仕事を通じて出会う場合でも、他人である僕らが関われる時間は、
その人の持つ時間の1割にも満たないものです。

極端な話、どんなに近しい人と24時間ずっと一緒に過ごしていたとしても、
いがみ合ってばかりいたのでは、それは互いの苦しみが増すばかりで、
とても相手のことを理解できるようになるとは思えません。

やはり人が、お互いの理解を深めていくために、より重要なのは時間の多さではなく、
自分の何かが相手に伝わるという事実
なのだと思います。

その事実を問うことは、限られた時間をその人とどのように過ごせるのか、
ということに目を向けるということで、

具体的には、それは相手に伝える、或いは伝わるためには、
どのような時間の過ごし方をすればよいかを、考えるようになることだと思います。


僕らが制約の中で生きなければならない以上、
大切な人と過ごす時間も限られてしまうというのは、紛れもなくひとつの悲しみです。

自分や相手の何かが伝わることというのが、お互いの共感を呼び合うことであるならば、
もし仮に伝えるものが、或いは伝えること自体が苦しみや悲しみであったとしても、
限られた時間の中でも、できるだけそれを伝えるべきだとも思います。

もし仮に、
抱えている苦しみや悲しみが、限られた時間という制約そのものであったとしたら、
その正体は、相手を大切に思う気持ちそのものなのかもしれません。

ただ悲しい、苦しいだけで一人悩むのではなく、それを伝える大切さに気付かなければ、
少なくとも、そこから自分や相手の何かが分かるということはない
と思います。


大切な誰かと伝え合う時間を持てるということ――。

人が自分の一生を生きていく上で、
たとえそれが限られた時期のことであったとしても、

それは、お互いが一緒に居られる時間の量に関わらず、
人が一人一人自分であるという制約の中で幸せを見つけていくために、
とても重要なことだと思ったりします。

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by hiro-ito55 | 2013-09-04 00:02 | 日常あれこれ | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


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