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ドキュメンタリー映画『四つの空 いのちにありがとう』

この秋、興味深いドキュメンタリー映画が公開されます。
NPO法人いのちをバトンタッチする会主催の映画「四つの空 いのちにありがとう」。

この映画は、大切な家族を病気で亡くしたり、
障害を抱えた子供を懸命に支えたりする四組の家族の物語です。

NPO法人主催の映画のため、シネコンなどの映画館での上映ではなく、
上映会を希望する団体から、会場を借りて公開するという形式を取っているようです。

近場の会場にいくつか問い合わせてみましたが、チケットは既に完売とのこと。
先週、メディアでこの映画が紹介されたため、現在、チケットの入手はかなり困難になっているようですが、機会があれば観に行きたいと思っています。





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by hiro-ito55 | 2013-08-29 22:50 | 社会 | Comments(0)

祖父母の墓前にて


まだまだ暑い日が続いていますが、
祖父母との約束通り、お盆には二人のお墓参りへ。

墓所の近くに車を停めると、二人のお墓の場所までは歩いて5、6分。

ギラギラと容赦なく照り付ける太陽。
この日の最高気温は37.1℃....。

炎天下で暑さを凌ぐのが大変かなと思っていたら、
ちょうど真横にある生垣で、お墓の前まで影ができている。

しゃがみ込むと、その場だけ見事に日陰になっていたので、ちょっと一安心。
お墓回りの掃除も供花を添えるのも、楽に行えました。

こりゃあ、おじいちゃん、おばあちゃんの優しさかな....、
などと思いながら合掌。

生前、祖父は高校教師をしていて、
学生からも「鬼」とあだ名されるほど厳格な人だったけど、
「仏」に変わったことで優しくなったな、などと罰当たりなことを考えながら、
ここ半年ほどの近況を報告。


幼い頃から母親には、(顔が)おじいちゃんにそっくりと言われてきたけれど、
亡くなってからは、祖父母の臭いを、ふと思い出すことがある。

祖父母の笑った顔やしゃべり声は、今でもよく覚えているけれど、
ふいに思い出すのは顔や声ではなく、
いつも決まって祖父母の臭いや、住んでいた家の臭い。

いや、それは思い出すというよりも、
ふいに感じると言った方が、正確かもしれない。


正直に言うと、
人の死生観については、僕はあるひとつの確信めいた考え方を持っている。

人は生きている間、自分の身体を持っているのだから、
身体を通して、痛いだとか寒いだとか痒いだとかを感じることができるけど、
死んでしまうということは、その感じる身体を失うということ。

だからきっと、死んでしまった後は、心だけが残る

受容体としての、器としての身体を失うのだから、
寒いのも暑いのも、痛いのも痒いのも、ただ漠然と感じるだけの、
そんな存在になるんじゃないかと思うし、

身体が無いのだから、感じる心はその辺をふわふわと浮かんで、
きっと、近しい人の傍に漂っているのだと思う。

それが魂というものだと僕は思うのだけど、

ふいに感じる臭いは、
その魂が触れたときに感じる、優しさのようなものなのかもしれない....。

おじいちゃん、おばあちゃんがこの世に生きていてくれたからこそ、
今の僕が居ると考えれば、僕にとってはそう感じることが自然なことだし、
だからこそ、「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えることができる


考えてみれば、僕の生まれるずっとずっと前から、僕の知らないところでも、
確かに受け継がれてきたから、今の僕が居るのだし、

それは、魂の系譜の証のようなものだと思う。

そしてそう感じるから、
自分の人生は、自分だけのものだなんて考えることも、僕にはできない

亡き人へ感謝の念を抱くこと―――、恐らくそれが、
近しい人へ祈ることの原初的な意味であり、確からしさなのだと思う



『魂はあるかないか―――、あるにきまっているじゃないですか。』
とは、小林秀雄の言葉ですが、

僕は、
苦しいとき、悩んだとき、いつも祖父母のことを思い出すのです。


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by hiro-ito55 | 2013-08-22 00:14 | 哲学・考え方 | Comments(0)

情(こころ)に変わる


きっと、信じるとは、そのままの形を過不足なく受け取るということ
そして、考えるとは、それと向き合い続けるということ

当たり前を失った現実から、
限りある時間と体力の中で、懸命に努力している人がいる。

そんな人を見ていると、
もし、何かを始めるときは、
それが、その人にとってのゼロ地点になるのだと思う。


いつでもどこでも、信じることは難しいし、
信じるよりも疑ってみる方が、よっぽど楽なことには違いない。

或いは、今あるものに目を向けるより、
自分に無いものや足りないものを数え上げる方が、簡単なのかもしれない。

疑うこと、求めていくこと、それらは皆、自我や欲と繋がっている

誰にだって、少なからず目標や目的はあるだろうし、
一人前の向上心だって持っている。

そのために、ときには疑うことも、求めることもあるし、
自我や欲なんてそう簡単に消せるものじゃない。

だから、なるべく欲張り過ぎないように、
僕らは日常の中でバランスを取りながら生きている。

僕らが、生きていくことにいつも忙しいのは、
バランスを取ろうと、理性でコントロールすればこそ。

自我や欲を意識的にコントロールすることは大切。

けれど僕はこうも考えたい。
疑うことも求めることから出る欲も、同時に感謝する気持ちがあれば、
それらは情(こころ)に変わることができる

そんなふうに思うということ。


例えば、食事ひとつ、働くことひとつ取ってみても、
それがただ食べるだけのもの、お金を稼ぐためだけのものだったら、
それは、食欲や金銭欲、或いは出世欲を満たすためのものにすぎないけど、

そこに、少しでも感謝する気持ちを持つことができるなら、
食事も仕事も、それぞれの人がそれぞれの方法で、
自分なりの、豊かな在り方に変えていくことだってできる。

そして、
物事をそういう姿に変えていく力が、人にはあるんだと気付いたとき、
自我や欲でさえ、その人なりの違う形に変わっていくのだと思う。

でも、その力に気付くのはとても難しい。

殊に、何かを失った人にとって、
感謝の気持ちを持ったりすることなんて、
所詮は、遠い絵空事のように感じるのかもしれない。


けれど、限りある時間と体力の中で、
今、自分にあるものに必死に目を向けようとしている人
を、僕は知っている。

当たり前を失った現実から、
自分にできること、他人に提供できることは何かと考え、懸命に努力している人

そんな人がいることを、僕は知っている。


いつも笑顔でいるけれど、それは未だ、ギリギリのバランスだから、
僕が少し喋り過ぎてしまったり、言葉を聞き逃してしまったり....

どんなに元気に、強く見せていたとしても、
そんなちょっとしたことで、何だか不安で、悲しく傷付いてしまうことがある。

けれど、過去を消すのではなく、過去を自分の定点とするのでもなく、
振り返り、確かめながらも、それを今に必死に繋げようとしている。


だから、どんなに不安定なバランスの中にいたとしても、
やがてそれは、寄り掛かりながらでも、今に負けまいと顔を上げ、
前を向こうとする意志に変わっていくと、僕は信じている。

ただ求めるのではなく、ただ疑うのでもなく、
そうやって前を向いた視線の見つめる先に、体験する未来が待ち受けているのなら、
降りかかる出来事は、どんな姿に変わりながら、この人に向かってくるのだろう...。

自我や欲をその手で押しのけて、
全てを、感謝の想いに乗せて迎えることなど、できないかもしれない。


だから僕はせめて、精一杯の言葉を届けてあげたいと思う。

たとえ、そのままの形を過不足なく受け取ることが苦痛であったとしても、
たとえ、それと向き合い続けることが困難であったとしても、

喜びや悲しみさえも、そんなに難しく考えないで、
僕らは、感謝の想いに乗せて、何かに近づくこともできるんだということを。

そしてそれが、
自分を信じることにも、確かに繋がっていくのだということを...。


この思いが、どれだけ届いているのかは分からない。

けれど、
信じることや考えることもまた、
感謝の気持ちと同じように、情(こころ)に変わる出来事
なんだと思うし、

それを見つめていける自分の姿に気付くことで、
例えば人は、誰かとの繋がりや、何かとの出会いも含めて、
日々の生活ひとつひとつの出来事の中で、深化していくものなのかもしれない。


信じるとは、そのままの形を過不足なく受け取るということ。
考えるとは、それと向き合い続けるということ。

もし、何かを始めるときは、
それが、その人にとってのゼロ地点になるのだと思う。

だからこれからも、
ときに傷つき、倒れそうになったとしても、
その視線がしっかりと捉えているものだけは、けっして乱れないようにと、
そのことだけを、僕は願っているのかもしれない。

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by hiro-ito55 | 2013-08-19 21:33 | 哲学・考え方 | Comments(0)

言葉にすること


ブログを始めてから、今月でちょうどマル三年。
今まで触れたこと、感じたことを自分の言葉に置き換えて書いてきました。

触れたことや感じたこと、それらはそのまま放っておいても、
過去の出来事として、記憶に残ることもありますが、

自分の言葉によって言い表さない限り、
どんなことでも、形あるものにすることはできないし、
しっかりと見定めることもできない、今もそういう思いで書いています。

そして、そうやって振り返ってみると、
共感できないものに対しては、自然と批判的になってしまうし、
批判的な言葉というものは、書いていてあまり気持ちのよいものではなく、

そういった言葉というものは、後から振り返ると、
僕にとっては、どうでもいいものだとさえ思えてきます。

そしてもうひとつ気付いたことは、
僕の場合は、触れたこと、感じたことというのは、
自分の意思のはたらきによって得られたもの、というよりもむしろ、
相手から与えられる共感や共有であることのほうが多いし、

それらを言い尽くそうとすることは、
言葉で表すには実に微妙で、複雑なものが日常の中にはたくさん存在していることに、
改めて気付かされる瞬間でもある、ということです。


例えば、離床訓練に汗を流す終末期の人がいる。
そしてそれを支える家族がいる。

余命数ヶ月の命を生き抜くために、彼が選択したリハビリは、
もう一度家族で、梨狩りにいくためのもの。

嚥下機能をほぼ失ったこの人は、たとえ梨狩りに行けたとしても、
家族と一緒に、採ってきたその梨を、実際に食べることはできない。

それは本人も家族も十分に理解している。

それでも、昔のように一緒に梨狩りに出かけたいと願い、伝えたのは、
恐らく、家族への言葉にならない感謝の気持ちと、
最期まで人間らしく生き切る姿、それをしっかりと見ていてほしいという決意、
その思いを伝えたいから...。


そういう姿に触れたとき、
それを言葉にするのは簡単なことではありません。

だから、
言葉で上手く表現できないものに触れたときは、
その姿に共感できるかどうかが、まずは問われるのではないか
と思っています。

何かに共感することが正しいかどうか、そういったことはまた別の問題で、
実際にそうしなければ近づくことができない問題というものが、
人やものの中には、確かにあるように思う
のです。

だから、
目の前にいる人のこと、或いは自分自身のことでもいいですが、
どんなことでも、知ることは脳の中の知的なはたらきのみを指すのではなくて、
その根本は、物事を受容し、共感することにおいて理解されるもので、

たとえそれが、
そう簡単に見定めることはできないものであったとしても、
それらを互いに分かち合うところに、
言葉というものは、現れざるを得ないのではないかと思う
のです。


言葉というものを手掛かりにして人を知るためには、
本当か嘘かで見るのではなく、共感の心で見るものだと思う。

もちろん、
人の気持ちや思いの全てを、言葉で言い尽くすことはできないし、
言葉によって人を救うことなんて、奇跡に近いことだとも思う。

でも、
言葉によって、人やものをしっかりと見つめることは、
きっと誰にでもできること。

そして、人が分かるというのは、
それに共感し、互いに共有できる言葉を、自分自身が持つことができるかどうか

だと思うのです。

だからこそ僕は、
それを言い表すための言葉を探している。

本当か嘘か、或いは、正しいか間違っているか、
そんな物差しのような言葉がほしいのではなく、
しっかりと見定めるための、たったひとつの動かぬ言葉を探している。

もし、そうして得られる言葉があったとしたら、それは、
人やものを見つめ、共有することができた人の感じる世界を、真っ直ぐに表すものだから、
そのような言葉には、きっと力があるのでしょう。

言葉は僕らの万能な道具ではなく、
ものの意味を表すただの記号や符牒であったり、

ましてや、
人の意のままになる道具や、手段であったりするわけでもないからこそ、
ときに人を傷付けたり、励ましたりする力を持ってしまう。

たったひとつの言葉でさえも、
人は喜んだり、悲しんだり、苦しんだり、悩んだりする。

殊に医療職の発する言葉は重いのです。
僕らが感じている以上に、大きな意味を与えてしまうことだってある。

だからこそ、
言葉というものを、もっと大事にしなければいけない
と思うのです。

言葉によって見つめ、知ろうとするのなら、
口の巧い人間であることよりも、言葉に絶することを知る人間...。

できれば、
医療職としても、一人の人間としても、そうありたいと思っています。

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by hiro-ito55 | 2013-08-12 00:16 | 哲学・考え方 | Comments(0)

はみでているらしい


出勤途中で見かけた、とあるお店の広告。

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思わず吹いてしまった。
どんなモーニングなんだろう...。

いや、でも朝っぱらからはみ出したらイカンと思う。
むしろ、はみ出んように出してほしいのでは...

などと、どうでもいいことを考えながら職場に向かう...(一_一)







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by hiro-ito55 | 2013-08-11 22:24 | 日常あれこれ | Comments(0)

空を眺める人


窓際のベッドに横たわり、空を眺める人がいる。
窓を開けて縁側に行くことも、椅子に腰かけて眺めることもできない。

見上げた空には入道雲。そして、遠くで聞こえる蝉の声...。

僕は想像する。
いつも笑顔でいるけれど、
当たり前の自由を失ったこの人は、
一人でいるとき、一体どんな顔で空を見上げているのだろうか、と。

自分の意思を伝えることさえ、簡単なことだったはずなのに、
変わり果てた自分の姿は、
きっと容易に人を信じる力をも、この人から容赦なく奪い去ってしまった。

孤独の中で、信じることを止めてしまったこの人は、空を眺めながら思う。

私のことをろくに知りもしないくせに、
知ったように語る人を、私は信じない。

自分の言葉に責任も持てないくせに、すぐに批判したがる人、
そんな人を、私は信じない。

体のいい無責任な言葉で裏切られた悲しみは、
ときに私を深く傷つける。

だから、いつもどこかで疑っていたい。
それは弱い自分を、自分自身の力で守るため。

私はホントは信じていたい...のかもしれない。
なのに、それでもいつもどこかで疑っていたいのは、傷つく自分には勝てないから。


痛くて、辛くて、息苦しい。
今はただ、そんな思いで見上げる青空を、僕もつられて眺めてしまう。

大好きな空。
同じ空でも、この人の見上げる青空と僕の眺める青空は、
きっと全く違うのだろう。

誰もあなたに置き換わることはできない。
そんなことは、今更ながら当たり前すぎるほど分かり切っていることなのに、
傍らにいる僕には言葉が見当たらず、いつも冷静さを見失ってしまう。

でも、笑顔の中できっとこの人は気付いている。

今はただ立ち止まるばかりで、無力さを晒すだけだけど、
たったひとつでもいい、信じて歩こうとしない限り、
けっして抜け道さえも見つけることができないことを。

だから僕は、精一杯の言葉を届けてあげたいと思う。

たとえ何ひとつ信じることができなくても、
たとえ言葉で悲しみの隙間を埋めることなど、無駄なことだったとしても、

僅かな言葉を頼りにしながら、
それでも思いをぶつけて欲しいと願う人がいることを。

だから僕は、同じ空を見上げながら思う。

何もかも消えてしまえばいいと願うことで、
悲しみも憤りも、全部背負ってしまうような苦しみ。

そんなものがあるのなら、
せめて今だけでも、同じ景色を眺めていたい。


僕は今でも思っている...。
見上げた空に、遠くで聞こえる蝉しぐれ、
そして、どこまでも続くような紺碧の青の中、

たとえそれが違う空であったとしても、
思いを重ねることはできるのだろうか...。

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by hiro-ito55 | 2013-08-01 22:42 | 作業療法 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー
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