考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

hiroyan55.exblog.jp
ブログトップ

<   2013年 07月 ( 5 )   > この月の画像一覧


長生きすることはいいことだなんて誰が決めたのだろう。
あなたを見ていると、僕はいつもそんなことを考えてしまう。

確かに、
長く生きられるということは、素晴らしいことなのかもしれない。

けれど、人生はけっして、
時間の長さだけでその価値が決まるわけではないのではないか。

例えば90年生きられた人が、40年生きられた人よりもいい人生だったなんて、
誰がはっきりと言えるだろうか。

そんなことを言うと、
いかにも傍観者の見解だね、と思われてしまうかもしれないが、
あなたを見ていると、僕はいつもそんなことを考えてしまう。

あなたはとても頭のいい人で、感受性がとても豊かな人だと思う。
傍らにいて、僕はいつも驚かされてしまう。

あなた自身は気付いていないかもしれないが、
その豊かな感受性にただ流されるのではなく、
自分の眼でしっかりと見定めて言葉にする、そんな力をあなたは持っている。

だから、その言葉をできるだけ多くの人に伝えてもらいたい。

そして言葉だけでなく、伝えるための何かを見つけることができれば、
それが、あなたの形となっていくのではないか、
僕は、そんなふうに願わずにいられない。

あなたに向かって、
病に倒れたことで得られたものもあるよなんて、
そんな残酷なことを、僕はけっして言うことはできない。

それがどんなにあなたを傷つける言葉であるか、
誰でもない、あなた自身が一番よく知っていることだと思うから。

病に侵されてから歩んできた人生を、
他人が想像し、語ることは、時にあなたを深く傷つけるだろう。

今まで心許ない人たちの偏見や言動に傷ついたことも、
現状に絶望し、自暴自棄になって倒れそうになったことも、

それらは全部、あなたの痛みとなって心に深く刻まれたかもしれない。

あなたが抱えてしまった病、知ってしまった合併症、
何の前触れもなく、それらによって齎される激しい痛みと、
ただそれに耐えるしかない自分。

そして、段々と体が硬直し動かなくなっていく苦痛や恐怖に、
ただただ向き合っていくことを課せられた人生。

それらは全部、あなたの悲しみとなっていったのかもしれない。

それでも、ここまで生きてきたこと。
それを想うと、僕にはどんな言葉も見つけることができない。

だから、
これからもずっと長生きして下さいなどと、僕にはけっして言うことはできない。

けれどせめて、自分の形が見つかって、
それを多くの人たちの許に、しっかりと届けられるようになるまで、
それまでは元気で生きていて欲しいと思う。

あなたの人生は、
他の誰でもない、あなた自身しか歩むことが出来ない人生だ。

あなたと、
こういう形でしか出会えなかったことは、僕自身の悲しみでもあるけれど、
こういう形でも出会えたことに、僕はとても感謝している。

そう言ってしまうと、あなたは怒るかもしれない。

けれど、
あなたの形を見つけることは、僕自身の形を見つけることでもあると、
そんなふうに考えてしまう自分がいることに気付いたときの、僕自身の驚きは、
同時に僕自身の生きる意味と、深く関わっていくであろうという予感にも似ている。

誰にとってもけっして平坦ではない人生。
そこから逃げることなく、これと正面から向き合うことは容易なことではない。

それを教えてくれたあなたに感謝すると同時に、
それを伝えることが、誰かにとっての生きる力となるならば、
あなた自身の形は、きっと誰かにとっての形にも成り得るということ。


全てはあなたのせいではないけれど、
あなたの抱えた悲しみは、あなたの人生を疾走する。
他人の言葉や感情は、それに追い付くことさえできない。

だからせめて、あなた自身の形を多くの人に伝えてもらいたいと思う。

闇夜を抱え、闇に翻るその場所まで、あなたの形が届きますように...。
たとえ遠くからでも、僕はあなたのそれを見届けていきたい。

b0197735_081393.jpg



[PR]
by hiro-ito55 | 2013-07-24 00:12 | 作業療法 | Comments(2)

本当の音


恰好のいい絵空事ばかりが謳われ、
時に戸惑ったり、時間を掛けて人と向き合ったりすることが、
なんだか気恥ずかしくさえ思えるようなこの世界で、

本当の音を聞き逃さないように...。





[PR]
by hiro-ito55 | 2013-07-21 01:51 | 音楽 | Comments(0)

気付きに関する考え方


僕らのような専門職にとって、自分の専門性を保っていくことは重要ですが、
経験の中での気付きというものを考えたとき、
その専門性という枠を一度取っ払ってしまう勇気も、
時には僕らに必要なことであるのかもしれません。

最近、時にイノベーションやブレイクスルーを生み出す気付きに関して、
とても示唆に富んだヒントを頂く機会がありました。
そこで、備忘のためにもここに纏めておくことにします。


一般的に、僕らのようにあるものの専門家であるほど、
その専門的な目的に沿ったようにしか物事の在り様が見えてこない、
ということはあると思います。

専門家ほど自分の仕事に没頭し、
没頭できることで自分の仕事は充実していくものですが、
その反面、自分の道に捕われやすいということも、また事実です。

そして、一生を通して見れば、
それを承知の上で生きなければならない時期があるということも、また事実です。

自分は何かに捕われていると思わないで、何かに打ち込んでいられるというのが、
僕らにとっては、もっとも充実した在り方であるのかもしれませんが、

これが、そういう在り方をしている自分こそが自分であるという、
そういう自意識と繋がってしまったら、
それもやはり自己というものに捕われていることになってしまいます。

そういった意味において、常に僕らは自分の目的に沿った経験や知の中にいて、
自我とその目的に沿った世界という、
円環的な在り方から、なかなか抜け出せないもの
かもしれません。

このように、ある意味、自分の意思で築き上げてきた自己の枠組みというものが、
その人のアイデンティティーを形成していくということも、
疑いのない事実ではあるのですが、

イノベーションやブレイクスルーに必要なのは、
自分で築き上げてきたその枠を突破するという経験で、
そこから多くの気付きが生まれてきます。

そしてそれは多くの場合、
自分の意図したものではないところで齎されるものです。

では、その気付きを得るために、
僕らはどういうことに注目していったらいいのか、ということですが、
その重要なヒントが小林秀雄の言葉の中にあります。

少し難しいかもしれませんが、ここに引用しておきます。

誰にとっても、生きるとは、物事を正確に知る事ではないだろう。
そんな格別な事を行うより先きに、物事が生きられるという極く普通な事が行なわれているだろう。
そして極く普通の意味で、見たり、感じたりしている、私達の直接経験の世界に現れて来る物は、皆私達の喜怒哀楽の情に染められていて、其処には、無色の物が這入って来る余地などないであろう。
それは、悲しいとか楽しいとか、まるで人間の表情をしているような物にしか出会えぬ世界だ、と言っても過言ではあるまい。それが、生きた経験、凡そ経験というものの、一番の基本的で、尋常な姿だと言ってよかろう。
合法則的な客観的事実の世界が、この曖昧な、主観的な生活経験の世界に、鋭く対立するようになった事を、私達は、教養の上でよく承知しているが、この基本的経験の「ありよう」が、変えられるようになったわけではない



科学というのは確かに便利な道具です。
科学で解明された法則性を手掛かりにしていくことで、
実際に、治療としても役立てていくことができます。

そして、認識の仕方のモデルをそこに置けば、
OTとしての専門性を高めていくこともできます。

そしてそういったものが、自分たちで築き上げてきた枠というものであるなら、
その枠を突破する気付きというものは、どこにあるでしょうか。

僕らのような仕事に従事していれば、
様々な生活や人生を送り、それを生き抜いてきた人たちと出会います。

そしてその人たちが送っている日常経験や日常世界、
そこから獲得した価値観というものは、
やはり人それぞれの形や、在り様をしているものです。

その中で、僕らも彼らも何よりもまず、
合理的に一日を送ったり、人生を生きたりしているのではないし、

そういう在り様もまた、法則性を手掛かりにしたところで、
その根本が変えられてしまうわけではないということは、忘れてはならないことです。

つまり、
人のあらゆる経験の根本が、その人なりの形から発するものであるのなら、
生活動作なり価値観なりを評価し、それを支援していく側には、
その形を見定めて、それを生かすような支援の形というものが、
その根本には求められているということです。

そして多くの気付きというものは、
そういう姿勢の中から生まれてくるものだと思います。

僕らは合理的に捉えようとすることで、
ものに触れれば感ずるというごく当たり前の姿勢を、むしろ抑制して生きています。
意志の強い人ほど、その傾向は強いかもしれません。

そういう生き方がけっして悪いというのではなく、
ただ、合理的でないものと出会ったときに、これとどう向き合えるかということに、
気付きに繋がる重要なヒントが隠されていることがあります。

ものや人には、それにそぐったそれぞれのやり方があり、
これを感じ取ろうとする視点を持つことは、
感慨を離れずに感慨を意識化しようとすることにも繋がります。

合理的でなくても、人はものを意識化し知ることができているのだから、
そこに目を向ければ、僕らの得られる気付きは色々な形をしているということも、
きっと、実感を持って理解できてくるのではないかと思っています。


もうひとつ、気付きに関して重要なのは、こうすれば気付くことができるという、
気付きのモデルみたいなものは存在しないということです。
(もしあったとしたら、それはどこかの誰かにとっての気付きであって、
 本当の意味での自分の気付きではないはずです。)

そして、小さな気付きであれば、
専門性という枠の中でも充分に感じ取ることができ、
わざわざそれを取っ払ってしまう必要もないのかもしれません。

けれど、
人生には自分の価値観を変えてしまうほどの、大きな体験というものが幾つも存在し、
それと出会う機会があることも確かで、
そういった経験は、やがて大きな気付きに繋がる可能性を持っています。

例えば歴史上の人物でいえば、
不意に鳴った竹の音を聞いて、突然悟りが開けたとする香厳や、
ある日それまでの自分の著作が、紙屑のように思えるほどの不思議な体験をし、
以後、一冊も著書を著そうとしなかったトマス・アクィナスなども、
その人生において、大きな気付きを体験した人たちであるようです。

彼らが体験したほどの大きな気付きでなくとも、
凡人の僕らでも、日常生活や日常世界の中で、
気付きに繋がる何かを得るには、できるだけ物事の直接的な経験に触れることで、
そして、それを妨げようとしなければ、その機会は飛躍的に増えそうです。

そしてもうひとつ言えることは、
その機会は、自意識や目的意識から離れたところにありそうだということです。

b0197735_200143.jpg


[PR]
by hiro-ito55 | 2013-07-15 20:47 | 哲学・考え方 | Comments(0)

ゼロからの始まり


この仕事を続けてきて、分かったことがひとつ。
それは、今、自分にできる精一杯に向き合うことの大切さ

抱えている不満や無力感、そして絶望。
それだけに自分の今を委ねていれば、闇からはけっして抜け出すことはできない。

誰かと何かを分かち合うことで、思いを共有することはできる。
共に考え、悩み、歩むこともできるだろう。

けれど、これだけは忘れないでいてほしい。

どんなに力を尽くしても、
人が誰かの為にできることなど、たかが知れているということ。

たとえどんなに弱く小さな一歩でも、自分の足で歩き出そうとしない限り、
抱えている絶望は、どこにも消えていくことはないということ。

人は弱く、失ったものが多いほど、ちょっとしたことでも躓いてしまう。
けれど、弱いからこそ自分の精一杯を見つけていくことができる
当たり前のことなんて、何ひとつないことに気付いていける

だからいつでも、
自分に出来る何かを、ひとつずつ積み上げていく。

人は、そうすることでしか自分に形を与えてやることができないのなら、
生きることは、自分の弱さと向き合うということ。
そして、それでも探し続けるということ。


また踏み出そうと自分を見つめ返すとき、
そんなときに聴くこの歌は、どこか祈りに似ている。




[PR]
by hiro-ito55 | 2013-07-06 00:05 | 音楽 | Comments(0)

リスクとデンジャー


危険のことを英語でriskdangerと言います。

riskは、人がしっかりと認識してコントロールしたり回避したりできる危険で、
dangerは、一旦そこに足を踏み入れれば、何が起こるか分からない、
予測することやコントロールすることが不能な恐怖や脅威のことです。

認識しコントロールすることができる危険だからこそ、
それを回避するためのrisk hedge(危険回避)という言葉もあるのですが、
予測することもコントロールすることもできない危険を回避するために、
danger hedgeするとは言わないのです。(というか、言えないのです)

もし僕らにdangerを回避するための方法があるとすれば、
それは、『それに一切近づかない』ということだけです。

だから、
人がアプローチできる危険はdangerのほうではなく、riskのほうだ
ということも分かります。

同じ危険でも、riskは目に見える形でしかも回避(hedge)可能なものなので、
そこに関わる人はこれを管理し、コントロールしようとしますが、
専門家というのは、そのリスクをはっきりとした形で予測したり、
そこから対策を立てたりすることができる人たちです。

例えば身近なところでは、生活リスクという言葉がありますが、
障害者や医療・介護サービスを受けている人たちが在宅で生活していくためには、
健常者であれば普段は意識することのない危険(つまりリスク)も伴ってきます。

呼吸器の管理、褥瘡の管理、栄養の管理....
これらはみんな、リスクを回避するために行なうのであって、
そのために人手が入ったり、必要な機器・道具をレンタル・購入したりします。

障害者であっても、生活に伴うリスクさえしっかりと管理できていれば、
少なくとも、暮らしを続けていくことはできますが、

お腹が減れば、自分で弁当を買ってきて食べることができる、
という簡単なことも含めて、
健常者であれば、普段は意識することがなかったり、
意識しても自分一人で回避できるリスクであったりしても、

何らかのサービスを受けている人にとっては、
生活リスクを回避するために、様々な人やモノに頼らざるを得なくなります。

支援する側から見れば、
支援が目に見える形で行われているということは、
リスクの形もまた見えてしまうということで、

形が見えてしまう以上、
支援している人たちは、それを放っておくことはできないし、
形として、リスクを回避しなければいけない
と思ってしまいます。

けれど、支援される側から見れば、
自分が生活していくために、多くの人が直接関わったり連携したりすることは、
自分の生活の場に、他人が入り込んでくるということでもあって、

リスク管理のために、他者からの見守りや関係性を保持していくことが、
それがあることによって安心に繋がるものなのか逆に窮屈に感じるものなのか
よく考えてみると、それはとっても微妙なことでもあるのです。

あくまで支援する側から見れば、
関わる相手のriskを、dangerに変えてしまうわけにはいかない。
予測されるriskを、放っておくわけにはいかない


そこに、支援する側とされる側のジレンマも発生してしまう...
そういうこともあると思います。

僕自身は支援する側の人間ですから、
少なくとも、専門職から見た場合に、支援を受けている人たちが抱える危険というものは、
健常者が普通に生活するときに感じる危険よりも、
リスクの形が、遥かに具体的なものとして現れてしまっています。

そしてそのリスクは、
放っておけば、dangerに変わってしまうものもあります。

支援を受けている人にとって、自分で回避できると感じるリスクも、
支援する側から見れば、その人の自己管理に任せることがdangerだ、
と映ってしまうこともあるのです。

そこに、リスク管理の難しさというものがあります。

またそもそも、リスクの感じ方は人によってそれぞれで、
自分が関わる相手と、自分自身のrisk hedgeというものを考えたとき、

どこまで介入していくべきなのか、或いは、どこまで介入を許すべきなのかというのは、
人の尊厳や自立性にも関わってくることなので、
支援する側される側、双方にとって、本当に難しい課題であるなと思います。


余談ですが、
自分の生活に、もしリスクを感じたことがないという人がいれば、
それは、『自分の人生を生きていない人』なのかもしれません。

リスクヘッジとは、
自分の人生を、自分らしく生き抜く創意工夫のためには必要な視点であって、
もしそういう視点が無ければ、たった一度の自分の人生は、
逆にリスクに怯えるだけの、味気ないものになってしまうのではないでしょうか。

それから、
リスク管理の話で言えば、数年前から色々と言われている、
所謂『訪問リハステーション』推進の動きには僕は反対なのですが、
その話は次の機会にしたいと思います。

b0197735_039937.jpg



[PR]
by hiro-ito55 | 2013-07-01 00:58 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー