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猪突猛進


僕も一所懸命に生きていますが、ネコ好きという僕の一面を差し引いても、
このネコの必死さには敵わない....かもしれない。

BGMとマッチングして、思わずホッコリとしてしまう動画です。




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by hiro-ito55 | 2013-06-23 23:22 | 動画 | Comments(0)

感謝の姿と祈りの形


曹洞宗の開祖、道元禅師の言葉に、
嫡々相承』という言葉があります。

禅宗では師から弟子へ、
その教えを継ぐことを『衣鉢を継ぐ』と言いますが、

その中で、
師の教えを一滴も溢さずに、且つ、一滴も加えずに継ぐことを、
嫡々相承と言うそうです。

一滴も溢さず一滴も加えないというのは、
師の教えを余すところなく、且つ、自分自身の個性だとか、私だとか、
自我といったものを一切付け加えてはならないということで、
師の教えのそのままの形を、受け継ぐことを言います。

ですから、嫡々相承には、
単に技術や教えを弟子が引き継ぐという、形だけの継承ではなく、
仏に対したときの自分自身の在り方を問う、という意味が含まれています

恐らくそれが、慎みや敬虔というものであって、
それを分かり易い言葉で言えば、感謝と言うのだと思います。

感謝の気持ちというのが、
相手やものとの一体感の中にこそ育まれるものであれば、
それは、一滴も溢さず一滴も加えないという、
無私な態度となって、現れるのかもしれません。


禅宗のような仏教の世界に限らず、
相手や周りのものに慎みや敬虔の心を感じ、それを言葉にすること、

つまり、
感謝の気持ちを、素直に相手に伝えることというのは、
実際にやってみようとすると、なかなか容易にできることではありません。

相手にこうあってほしい、相手をこうしたいと要求する方が楽で、
親しみや信頼を相手に伝える方が、遥かに難しいのです。


僕らは、
誰かや何かと共に生きている、そういう数え切れない多くの縁の中で、
今、自分がここに在るということ、

自分は、
誰かと繋がっていると同時に、誰かを繋いでいる存在でもあるということ、

或いは、
人一人の一生は、たかだか百年足らずの短いものですが、
その百年足らずの一生のうちに、
社会の中で折り合いをつけたり、駆け引きをしたりする前に、
様々な循環の中に身を置いているということ、

その中では、
誰もが生かされる存在であり、生かす存在でもあるということ、

そういう生(せい)の循環を感じられることで初めて、
感謝の気持ちを、素直に伝えることができるのかもしれません




先日、僕の勤めているステーションに、
看取りをした利用者のご遺族が、ご挨拶のために来所されました。

その方が所長に語っていたのは、亡くなったご家族の思い出話や、
最期の看取りまで行なった看護師に対する、感謝の気持ちでした。

死んだ人を前にして遺された人ができることは、ただ首を垂れること、
そして、思い出を語ることなのだと思う。

それは、
誰かと共に生きていた確かな証、それを伝えるという敬虔なのであり、
亡くなった人に首を垂れ、そこに関わった人へ気持ちを伝えることでしか、
思いを形にすることはできないのではないか。

いつの時代も、
良くも悪くも、人の生きた刻印というものは、
そのようにして、誰かの心に刻まれるものなのだと思う。

亡くなった後も、その人の形を共に喜び、共に悲しむ。

そういう感謝の形があるのなら、
感謝というものはどこか、祈りに似ているような気がします。


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by hiro-ito55 | 2013-06-18 22:47 | 哲学・考え方 | Comments(0)

実用性と表現性 ~その人なりの動作や作業と詩の共通点~


こんなに背中が曲がっているのに、杖を着いて上手に歩いている人。

以前勤めていたデイサービスや老健など、
今までに、そんな高齢者の方に何人もお目に掛かりました。

彼らを見ていると、
言葉と同じで、人の動作にも実用性と表現性という二つの側面があるのではないか
そのように思ったことがあります。

日常的に当たり前に行っている動作は実用的なものだ、
と一応は言えるかもしれませんが、
その人なりのご飯の食べ方や歩き方というのは、
ただ実用的であるだけだとは言い切れないのではないか、と思うのです。

動物ではないのだから、
ただ効率的に歩いたり、食べたりして一日を送る、
僕らはそういう実用性だけで生活して、生きているわけではない。
色んな動作や行動の中に、『その人なりの△△』が必ずあります

結論から言えばリハビリは、
その人なりの動作を守っていけるようにお手伝いをするのであって、
それを実現するために、専門的な知識や技術が求められる、
そういう仕事ではないかと思うのです。

その人が納得しなければ、
いくら効率的で合理的な方法を提案しても、
現実的にはなかなかその人の動作にはなっていかないことを、
僕は今まで何度も経験しました。

だから僕らは、それがその人にとっての『もの』に定着するまで、
作業なり動作なりの実用性と、表現性の一致するところを見つけ出し、
それにアプローチしなければならない

そういう仕事をしているんだと、今は思っています。


実は、人の動作や作業を分析して、
それがどういう性質や関係性を持っているのかを知り、
その構造を理解するということは、その問題の半分を捉えているに過ぎず、

残りの半分は、
いかにして、『その人なりの△△』として生かしていくのか、
というところを考えていかなければなりません。

リハビリという仕事は、そういう僕らの挑戦の中にだけ生きているのであって、
専門的な知見や技術を利用者の前で披露する、
それだけでは、たぶん何も生かしていくことはできない。


確か、臨床に出て一年目のことだったと思うのですが、
病院で頸髄損傷の方を担当させて頂いたことがありました。

ベッド上でほぼ一日を過ごされているその方の希望は、
『せめて自分の手で食事ができること』
でした。

食事台の高さや形状、
箸への自助具の取り付けや手首への固定方法、食べるときの姿勢など、
僕なりの、その人が食事をする姿を頭で思い描きながら、
出来る限り実用的な方法を、繰り返し提案していきました。

その過程で思い知らされたことは、
ご本人が『こんなふうにして食事をしたいんじゃない』と感じてしまえば、
こちらがどんなに実用的な方法を提案しても、それを採用してくれない
ということ。

その人にとって『これが私の食事動作なんだ』と納得したものでなければ、
それは動作としての意味がない
ということ。

なぜ、食事動作を練習するのか、
なぜ、僕らはそのための環境を整えるのか、
その根本を考えてみると、
それは、本人が『自分で食べたいから』と願っているところにあるかと思います。

利用者は、
機能的、或いは能力的に問題がある、そのことだけから願うのではなく、
その人にとっての動作、その姿を獲得するために願うのです。

実用的な面で、どんなに優れた方法なり環境なりを提示できたとしても、
それだけでは、本人は自分の動作として受け容れてくれないというのは、
そういうことだということに、そのとき何となく気付きました。

そしてそういう捉え方は、
言葉の世界でいえば、詩と接することと似ているのかもしれません。

詩は、
他の言葉では置き換えることのできない、その言葉自身が持つ表現力と、
表現された言葉の意味が相手に伝わるという伝達機能、
その二つを兼ね備えています。

例えば、業務連絡をするときに使うような言葉は、
相手に意味が正確に伝わればいい言葉です。
正確に意味が伝わるのなら、他の言葉で置き換えてもいい、そういう言葉です。

そのような、伝達機能だけを備えた言葉のように、
他の言葉に置き換えることが出来る言葉というのは、詩には成りえません

詩は、
そこで使われるその言葉自身の持つ表現力と、
その言葉の意味が十分に僕らに伝わることで、感動や共感を与えてくれます


詩に感動したり共感したりするのは、
他の言葉では置き換えることができないという、
僕らの、言葉への信頼によって支えられています。

表現しただけで、意味が分からない詩、
或いは、意味は分かるが十分に表現しきれていない詩に、
僕らが感動したり共感したりすることは、まずあり得ない。

実用性と表現性の一致するところを見つけ出せない動作や作業に、
利用者が納得したり、受け入れたりしてくれることがないのは、
それとよく似ているのではないかと、僕は思っています。

そう考えれば、僕らの提案する方法はどうあるべきか、
その方向性は、自ずと明らかになってくるように思うのです。


僕らは、効率性や合理性だけで生きているわけではない。
反対に、意味の分からない矛盾や無駄の中だけに生きているわけでもない


だから、
リハビリにおいて、動作や作業を再構築する際には、
それらの実用性と表現性の、一致するところを見つけ出さなければならない、
というのは、僕には充分理に適った捉え方でもあるのです。

― 利用者が納得したり、受け入れたりできる動作や作業 ―。

それは、
詩が言葉への信頼によって支えられているのと同じように、
動作や作業への信頼によって支えられている
と、僕は思っています。

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by hiro-ito55 | 2013-06-10 21:18 | 作業療法 | Comments(2)

長い廊下の向こう側


僕は訪問リハビリという仕事をしていますが、
この前、お世話になっているケアマネさんから、新規のリハ依頼を受けました。

ステーション宛てに詳しい情報を送ってもらうと、
その依頼のあったお宅は、車で40分近くかかる場所。

所長と相談し、
ちょっと遠いかもと感じながらも、お引き受けすることにしました。

地図で場所を確認して、
実際にいざ行ってみると、所要時間はやはり予想通りの40分。

今回に限らず、訪問リハには次の利用者さん宅に伺うまで、
その間に、数km単位の移動距離や、
数十分単位の移動時間が発生する場合があります。

僕の場合、
それを煩わしいと感じたり、
移動によって掛かる距離や時間によって、
自分自身のモチベーションが左右されたりすることはない。

だって、
在宅で訪問看護や訪問リハの依頼を掛けるということは、
病院や施設でいえば、患者さんがナースコールを押すこと、
それと同じこと
だと思うから。

利用者さんやご家族は、
ケアマネを通じて、きっと必死の思いでそのボタンを押している

プロであれば、僕らにはそれに応える責任があるのは当然のこと。

だから、
病院や施設のナースステーションやリハ室から、患者さんの病室に向かうことと、
訪問看護ステーションから、利用者さんのご自宅に伺うこと、

この二つは同じことで、
ただその間に、渋滞や脇道や抜け道がいっぱいあるというだけで、
言うなれば訪問看護ステーションからの道中は、
病院や施設の中にある廊下のようなもの


街全体が長い廊下で結ばれていると考えれば、
コールや依頼があったときに、そこを通って駆け付けるのは当然のこと。

だから、
移動時間や距離など、僕には全く苦にならない。


ですが、利用者さんの中には、
こちらの移動に掛かる時間や手間にまで気を遣って、
毎回、遠慮がちにサービスを受けられる方がいらっしゃいます。

医療を提供する側とされる側の関係性が、そうさせているのかもしれませんが、
僕個人としては、そんなことにあまり気を使ってほしくはない。

それよりも、
利用者さんやご家族のワガママを、もっと引き出していきたいし、
それを引き出せる自分でありたいと、いつも思うのです。

ワガママを引き出せないようなサービスでは、
利用者さんが、医療従事者の都合に合わせているだけで、
多分、本当に良いサービスであるとは言えない

以前書いたように、対人支援の基本は、
僕ら専門職が良いと思うものをまず提供していくのではなく、
利用者のよいと思うもの、或いは、利用者の潜在能力を上手く引き出すこと、

それを支援することにおいて、
僕らの専門性というものは発揮されるべきものだと思うから、

利用者さんのワガママに振り回されることは、
出されたワガママを、けっしてそのまま聞き入れるということではなく、
利用者さんと共に考え、悩むということだと思っています。

こういう仕事を通して、
そういった繋がりを継続していけることを、対人支援と言うのだと思うし、

長い廊下の向こう側に、そういう出会いがあることが、
自分の最良のものを提供するためのモチベーションにも繋がっていく...。

それは、
生かす側と生かされる側というものが、
支援する側とされる側の間に、固定されて在るではなく、
お互いに、生かし生かされる現実という機会を持つことで、

その機会は大げさに言えば、
相手と共に生きていくための態度、
その切っ掛けを見つけ、それが損なわれないように幾重にも編み込んでいく作業

そういうことなのかもしれない。

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by hiro-ito55 | 2013-06-05 00:37 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

所長から手作りの....


....僕のイニシャルが入った、ステキなカードケースを頂きました。

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誕生日でもないのに、なんかたまらなく嬉しいぞ

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そしてイニシャルなら、
見づらいけれど、購入した聴診器にも入っているのだ!!!


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でも、
ま、それだけのことなんですがね....(-。-)y-゜゜゜








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by hiro-ito55 | 2013-06-01 20:20 | 日常あれこれ | Comments(2)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー
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