考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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先日、看護師の方から
PTとOTはどう違うの?』『OTは上肢のリハビリの専門家?
質問を受けました。

医療・介護の世界において、看護師など他職種の方にとっては、
PTとOTの違いや専門性というものは、
僕が思っている以上に、分かりづらいものなのかもしれません

確かに、上肢のリハビリOTの専門性の中には含まれており、
それを否定することはできませんが、

OTの専門性とは寧ろ、適合や適応、調和を図ることの中にあり、
上肢のリハビリは、その目的を達成するための手段
だと言えます。


例えば、0~1歳時のCP(脳性麻痺児)の場合を例にとってみます。

脳性麻痺児の場合、
自分の力でしっかりと座位をとることが非常に困難です。

上肢や体の動きに注目すると、
座った状態から、自分で腕を伸ばして何かをしっかりと掴んだり
自ら移動しようとしたりする、

そういった、健常児が発育上当たり前に行っていく体験を、
自力で行っていくのが困難な状態にあります。

このような場合、僕らOTは、
まずは、座位をしっかりととれるための、
技術知識を備えていなければなりませんが、

目的としては、座位をとることそれ自体ではなく、
座位をとれるようになったときに、何ができるのか
を考えなくてはなりません


それは、例えば座れることで、
この児が、
自分と外界との距離感や区別を感じられる切っ掛けが生まれたこと
それによって、
自分から外界の何かに働きかけられる環境を得られたこと

そういう変化や可能性について、
僕らOTは注目しなければなりません


例えば、一日中臥位で過ごしていると、
自分の周りから何かを働きかけられることはありますが、
自分から外界の何かに働きかけるという体験は奪われてしまいます

全ての経験が、外から与えられる受身的なものとなり、
これでは、人としての有能感や自尊心は育ちようもありません

人としての有能感や自尊心を守ったり、獲得したりするためには、
自分から何かに働きかけていく体験と、
それによって心地よさを得られる体験
が、不可欠です。

脳性麻痺児の場合、
目で見て物を確認し、自ら手を伸ばしてそれを掴むといった、
視覚と手の運動と、それを触ったときに得られる感触
これら一連の動作の流れを、
統一したひとつの経験として捉えることが、困難な状態にあります。

自分から何かに働きかけていくことも、
それによって心地よさを得ることも、困難な状態にあり、
日常的に、どうしても受身的な経験が多くなってしまいがちです。

ですから、
おもちゃ道具を使って上肢の運動を促す場合も、

視覚感覚運動と、
ひとつの運動の中で、バラバラの状態にあるものを結びつけて、
統一した経験として捉えられるように促し、

それによって得られる経験を、
心地よいものとして捉えられるようにしていかなければなりません。

要は、OTが上肢の運動を促していく場合も、
自分から何かに働きかけていく体験と、
それによって得られる統一的な体験を通して、
有能感や自尊心の芽生えを、促していくのです。

そしてそこから、
自分自身や、周りの人や環境との適合適応
或いは調和を促していくこと
が、やがては必要となってくるのであり、

座位をとれるということは、そのための環境を作り、
そのように仕向けていくということ
です。


そしてこれは、
脳性麻痺児だけでなく、成人に対しても同じことが言えます

例えば、
ベッドから起き上がり、座れるようになることを目的とした場合、

心理的な落ち込み、各関節の可動域制限、筋力不足、アライメントのずれ
そういった座れない原因を、ひとつずつ取り除いていき、
その可能性を探っていきます。

そうして無事に座位をとれるようになったときは、
OTももちろん股関節の可動域重心の偏り姿勢動作耐性といった、
座位に必要な要素も見ていきますが、

それよりも、
ベッドから離れて周りを見ることができる』、
人と対面して接することができる
といった、
座位を取れるようになったことで得られる、その後の可能性に目を向けます

例えば、
座ってテレビを見ることができるようになれば、
寝ながら見ているときよりも、主体的な行動になっていると言えるし、
座って食事が摂れるようになれたときも、同様のことが言えます

そうして座位になって得られる活動が、
洗濯物たたみや、食事動作、書字動作といった、
上肢を使ったものであれば、

機能訓練的なものも含めて、
いかに上肢を楽に使えるようにしていくか、
そのための手段を講じて支援をしていく
のがOT
で、

リハビリ場面として、他職種の方がそれを見ていれば、
OTは上肢のリハビリの専門家』というふうに映るのかもしれません。

しかし、それは『手段としてのOT場面』なのであり、
OTの目的は、自分から何かに働きかけていく体験と、
それによって心地よさを得られる体験を促し、

そうした活動を通して、
対象者が、人としての有能感や自尊心を守ったり、
獲得したりすることができるように、仕向けていくこと
です。

手段ではなく、
手段によって得られる可能性に目を向ける
のが、僕らの仕事

他職種から、OTがどのように映るのかは別にしても、
それを探っていくための経験大事にしていかなければないと、
個人的には思います。

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by hiro-ito55 | 2013-02-25 17:03 | 作業療法 | Comments(0)

自分が作業療法士となって、約十年
その間、病院老健訪問デイサービス
と、色々な職場で仕事をしてきました。

どの職場も、求められる技術や才能に違いがあったし、
今、振り返ってみると、
その時々で、それに自分が正しく応えられてきたかというと、
甚だ疑問だと、感じています。

この仕事を始めてから、
これが自分の天職であると思ったことは一度もないし、
自分はOTには向いていないんじゃないかと憤ることも、
しばしばありました

OTに限った話ではないですが、
これを学んでおけば絶対に大丈夫、安心
というものは、どの世界にも存在しないし、
寧ろ、日常的に『これで大丈夫だろうか』という不安の方が多いものです。

その不安が自信のなさに繋がるという悪循環から、
技術者としての、或いは人間そのものの成長や発展を奪い去っていく

恐らく、世間ではその期間をスランプと言うのでしょう。

僕もこのスランプを、何度も何度も経験したから言えるのですが、
それは、時にとても耐え難いと感じられるような、孤独な時間です。

そして、そこから逃げ出すために、
周りの人や環境、人との相性のせいにしたりしがちなのもよく分かります。

しかし、
こことは相性が合わない』『あいつの下では自分の力を発揮できない
というのは、単なる逃げ口上であることも事実で、

のこの十年の収穫といえば、
そのことにやっと気付いたということでしょうか。

そもそも、人との相性や、人や環境への安心感というものは、
自分の家族や友人と過ごすような、
プライベートな世界において求めるもの
で、

そういう軸を職場に持ち込んでしまうと、
自分自身を冷静に見る目が曇ってしまう

冷静にというのは、
自分が今しなければいけないこと第一に考え、それに取り組めているか。
正しいか、正しくないかではなく、
自分がそれに最善と思えるような技術を身に着け、臨もうとしているか

ということで、

もし、それが出来ていなければ、どんなに尤もらしく取り繕っても、
全ては、結果から逆算した言い訳にしか過ぎない


求められるものは、プロフェッショナルとしての自分
実にシンプルで、ただそれだけのものなのです。

人というものは、
どうしても結果から逆算して、物事の良し悪しを判断しがちですが、

それを判断する前に、自分がどういう立ち位置で物事に臨んでいるか、
その姿こそを、自分自身がまずは問うべき
で、

そうすれば、
自分に足りないものやできることが、ひとつひとつ解ってくる


それを問う前物事の正否を判断することが、
自分自身を見る冷静な評価の目を曇らせ、成長そのものを妨げてしまう

世の中どこを見渡しても、
例えその分野のプロフェッショナルと呼ばれる人でも、
全てにおいて不安などなく、完璧な自信を持っている人間など、
恐らくいない
でしょう。

不安だからこそ、
自分を磨いて、自分に確実にできることを身に着けていく


きっと、不安なく完璧に熟す人をプロと呼ぶのではなく、
そういうひとつひとつのプロセスの果てに、
本当のプロフェッショナルというものはある筈
で、

極言すればプロとは、
自分自身と向き合う姿勢そのものではないか
と思います。

そう考えれば、その時々で
目の前の要望に、自分が正しく応えられてきたかどうかではなく、
確実にプロへと向かっていくように歴史を作ってきたのか、
ということを、自分自身に問わなければならない


そうしてこの十年間を振り返ってみると、
取り組む姿勢も技術も、まだまだプロの姿からは遥かに遠い自分がいます

だから、
少なくともこれからの十年は、自分にプロの姿堂々と問い続けていける
そんな十年にしていこうと思っています。

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by hiro-ito55 | 2013-02-21 20:46 | 哲学・考え方 | Comments(0)

僕の尊敬する思想家に小林秀雄がいますが、
今年は、小林秀雄の没後三十年の年にあたります。

そのせいか、今年の大学入試センター試験にも、
小林の随筆鐔(つば)』が出題されたようです。


僕にとって小林秀雄は、
偶然にも誕生日が同じである、というつまらない事実を除けば、

物事を本当に知るとは、どういうことか。』
という根源的な問いを、常に投げ掛けてくれるような存在で、

どんなに知識がある人でも、ひとつの経験に向き合い、
 これを大事にする人には敵わない
。』

ということを、最初にはっきりと教えてくれた人でした

例えば、ひとつの音楽について様々な知識を持ち、
分析的に、或いは専門的詳しく説明することのできる人がいたとしても、

たった一曲でもいい
他人に話して聞かせられるような、ろくな知識などなくても、
その音楽に心底感動できる、そういう人には敵わない


主観客観か、というところから始めるのではなく、
感動共感共鳴することから知るというのも、
物事を知るための、僕らに与えられた大事な能力
で、

それを育むことのできる人は、自分の経験を大事にすることができるし、
他人が何と評価しようと、そういう人は、
例えば音楽なら音楽について、それが何であるかをよく知っている

音楽だけではない
人が人生を送る上で、無駄なものなどないと思えるのは、
どんなにつまらないことでも、真摯に取り組むことができる、
そういう自分自身の姿に気付いたとき
で、

この、自分に与えられた確かな能力自覚し、向き合える人は、
現代人とは』、『人生とは』と、
人間についてどんなに抽象的客観的に語れたとしても、

それは本当に人生を知っているとは言えない、
ということをよく知っている


今一般的に、
物事の価値というものは、量と質のバランスで決まると言われていますが、

僕が小林の文章に強く魅かれるのは、
そういう相対主義的価値観の、無限ループの輪から連れ出し

その先に、
確かに根を張ることのできる知の大地があることを、
教えてくれたことにあります



知るとは生きることだとは小林の言葉ですが、
この言葉の持つ意味は、本当はとても深い

知ることと生きることとが同じであるそう感じることのできる人は、
何かに自分の人生を賭けることのできた人で、
失敗すれば、自分で責任を取ることのできる人の言葉です。

僕らは、
そのような覚悟で、本当にものを知ろうとしているだろうか


間違いに気づいたとき、
それは科学的限界だ、歴史的限界だと、
何かのせいにできる形の知を、求めていないだろうか


もしそうだとしたら、
それは知的好奇心という、僕らの欲を満たすだけのことで、
本来、知ること生きることとは、なんの関係もないことの筈です。

に対する共感共鳴感動を頼りに、
何かを知ろうとすることは、非常に不安定で、
心許ないことには違いないですが、

そうして知ったことを、誰かと共有したいと感じられれば
その知は、自分の内側では収まり切れない力を、持つことになります

そういう知の力は、
やがて不安定な個別性の中では、どうしても片づけられなくなり
安定する方向を目指していきます。

言葉であったり、であったり、であったり...と、
その姿を整えるように、知は具体的な形となって現れ、

それが、
人々の間に共有されることで、普遍的な何かに変わる瞬間がある


そういう、内側から知るという知があり、
物事の価値は、けして量と質のバランスだけで決まるものではなく

また、
人には、それをしっかりと見定める能力が与えられていることも、
僕は、小林の文章から教えられました


総じて小林の文章は、昔からよく『難解だ』と言われます。

確かに、易しい文章ではないですが、
小林自身も言っているように、
何かを知るとは、何を置いても、批判精神時代意識だとか、
そういうつまらない自己意識に惑わされずに

ただ、我がものになるまで見定めようという、
一体感を目指してものに向かっていく素直な僕らの能力
それを信じることであると思います


そうすれば、
人が人として、本当に自分らしく生き抜くために、
それぞれに何が必要であるかということが、
各々の間に、自ずと明らかになってくるであろうし、

小林の言葉は、
いつもそういうところから、発せられているように感じます


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by hiro-ito55 | 2013-02-13 20:48 | 哲学・考え方 | Comments(0)

ニーズの架け橋


在宅で介護する場合に、
介護時間というものの区切りの無さに、
家族は悩まされることがあります。

また、末期癌などで、
余命数ヶ月とはっきりと診断された人を介護する場合ではなく、
認知症脳梗塞後遺症のある方たちを自宅で介護する、

そういった場合、
介護者は『これからいつまでこの介護が続くのだろう』という、
エンドレスに続くとも思えるような介護期間の不透明さに、
悩まされたりします。


先週、先々週と、
県内山間部の、訪問リハビリ同行させて頂く機会がありました。

真面目なご家族であればあるほど、
自分が親や夫を看なければ、という思いが強いのは当たり前で、

同行中、上記のような問題に悩まされているご家族にも、
何人かお会いさせて頂きました。

その方たちのお話は実に切実で、
中には、遠く遠方から週に何日か、泊まり込みでやってきて、
親の介護をしているご家族
もいらっしゃいました。

僕は、
もし、自分がこういうご家族やご本人を前にしたときに、
一人のリハ職として、何をすることができるのか

同行中、ずっとそれを考えていましたが、

問題は、
ご本人とそれに関わる人たちが、無理のない一日を過ごし、
それを継続させていくための、切っ掛け作りを提示していくこと
なのであり、

そのためには、訪問リハビリという枠組みを、
対人生活支援という少し大きな軸で捉えてみる


まずは、
そういった視点が必要とされるのではないかと感じます。

前に、支援ニーズには二種類あると書きました。

支援ニーズのうち『要求』に対しては、
日々、僕ら自身の持つ専門性を頼りにしていけば、
ある程度、これを満たしていくことは可能です。

一方、『必要性』に関しては、
ご本人やご家族が気付いていないニーズになるので、
負担そのものが表面化(意識化)されにくく、
ニーズの潜在性そのものが問題となる
わけですから、
これを引き出して、マネジメントしていく力が必要となります。

例えば、身内の介護に一所懸命なご家族であればあるほど、
近い将来、介護疲れなどマンパワーの限界予想されるにも拘らず、

在宅サービス入所サービスの利用という、
自分以外の他の力を借りることに対し消極的・否定的な場合があり、
ニーズの潜在性をどう気付かせ、
これをコントロールしていくかが、問題となってきます


このような場合、
ご家族やご本人の『なぜ?』という疑問抵抗感から、
最初に目的が明瞭化されたサービス導入するのは、
非常に難しいこと
予想されます。

ならば、
訪問時に、実際にご家族が介護疲れしていないか
或いは、完璧に介護しようと思ってはりきり過ぎていないか
などをチェックし、

ニーズの必要性をまずは明確にして、これを把握していく必要があります

ご本人とご家族の負担軽減の切っ掛け作りとして、
専門的な方法提示したり、助言したりしながら、

同時に、他の介護保険サービス導入への可能性を探っていくことで、
支援ニーズの必要性を満たしていく

これを、
ケアマネと連携しながら進めていくのも僕はアリだと思うし、

そういう意味において、
サービス利用の初期段階で、訪問リハビリ導入することには、
意味があるかもしれません


そして、それによって支援ニーズが満たされ、
その結果として、訪問リハビリサービスが必要なくなるのであれば、
リハ職としては、寧ろ嬉しいことだと思います。


優秀な職人Artisanは、
扱う素材の特性を、上手く引き出すような仕事をすると言われ、

優秀な芸術家Artistは、
扱う素材の個性に共感・共鳴するという、
そういう普遍的なところから仕事を始める
と言われますが、

僕がいつも思っているのは、
リハ職というのは、Artisanであると同時に、
Artistに近いものであってほしい
、ということです。

リハ職にとって、
職人の材料に当たるのが、支援ニーズであり、
これをどのように上手く引き出していくか、
というのがArtisan(職人)としての仕事
であるならば、

このニーズを、生活の中でどのように生かしていくのか
というのが、対『人』支援としての仕事です。

そのとき、その根幹に、人への共感や共鳴と、
ただこれに流されずに、しっかりと見定める専門性なくしては、
人として、人を支援していくことはできないであろう
というふうに考えています。

Artisanであると同時に、Artistに近いもの
リハ職にとってそれがどんな道であるのか

それを知るには、残念ながら今の時点では、
人間的にもOTとしても、自分はまだまだ勉強不足であることは、
はっきりとしています


いつも自分の非力さを痛感する、そんな毎日ですが、
できればこれからも、ずっと探し続けていきたい
そう思っています


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by hiro-ito55 | 2013-02-11 19:19 | 作業療法 | Comments(0)

月光 Castle・imitation


最近、言動が不安定な鬼束ちひろですが、
この歌を最初に聴いたときの衝撃は、忘れない。







一瞬で消えてしまう不安定な『何か』を、
永遠の何かに置き換えようとすること
に、
アーティストの全てがあると、僕は思う。

不安定なものを安定させることができるのは、
本当に限られた人だけ。

その不安定なものを前にして、
自分のノイローゼを表現することは、
自分を主張することで、物を表現することとは違う

物を表現せずに、自分の考えや勝手な夢を思い描こうとすると、
神経の苛立ちが、自ずと出てしまう
けれど、

自我が強くなければ、良い作品は創れないもので、
それが出るほど、個性的だと言われてしまう


本当は、表現したい対象は敵ではなく
心の欲しいままを取り去って、これと向き合うこと


それによって表現されたものが、どんなに悲しいものであったとしても、
そのアーティストの全的な活動のうちに、感動はあるのだと僕は思うし、

優秀なアーティストほど、
人を安らかな、安定した気持ちにさせてくれるもの
だと思う。

良い作品は、
人をくたびれさせる筈がない


彼女の歌を最初に聴いたときの感想は、
そんな、音楽の持つ謙虚さ素晴らしさ
向き合える時間を持てたことでした。






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by hiro-ito55 | 2013-02-02 20:28 | 音楽 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー