考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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本当は違和感だらけ


自殺者を出した大阪市立桜宮高校体罰問題が、
今メディアを賑わせています。↓↓

『橋下氏「入試やめさせます」』(YOMIURI ONLINE)

体罰の是非については、賛否両論あるかと思いますが、
その後の橋下市長の対応の仕方が、少し気になります

桜宮高校市立の高校であるため、
高校の教師市の職員ということになりますが、

橋下市長が選択した入試中止という決断は、
行政のあるセクション問題が発生したため、
しばらくの間、その部署の行政サービス停止させて頂きます
という、
極めて行政的な枠組みで、事を捉えているように思えてならないからです。

このような手法からは、恐らくよい結果は齎されないだろうし、
僕は、ここにデジャブのような違和感を覚えます。

橋下市長には、
弁護士出身という経歴も関係しているのか、
彼には、A対Bという対立軸の上で物事を論ずる傾向が、
どうも強いように思います。

今回の入試中止という対応を見てみると、
教師側行政側という対立軸を作り出し、
その自分が作り出した一元的な軸の上に、
世論を巻き込んで『命とは』『人生とは』を論じさせ、
白か黒かを決めさせる

そういう、
彼のこれまでの常套的な手法が垣間見えてきますが、

それはちょうど、
小泉首相が『既得権益 対 搾取された者たち』という構図を作り上げ、
その構図に国民を巻き込んで、総裁選や選挙を戦った
あのやり方と同じではないか、と感じるのです。

小泉政策の特徴は、
負け犬をさらに叩く』ような嗜虐性にあり、
弱い者や持たざる者は、
半永久的に、何かを望むことは許されない

そういう根拠のない階層意識
国民に植え付けたことにある、と僕は思うのです。

そして、何故だかはっきりと解らないままに、
大多数の国民は、その嗜虐性を支持した

その結果、どうなったかと言えば、
いわゆる資本主義の焼野原のような現状です。

今、橋下市長がやろうとしていることも、
いわば、教育における焼野原を作り出そうとしているように感じるのです。

あるスケープゴートを見立てて、これを吊し上げ、
問題を起こせば、お前らもこうなるぞ』と恫喝する、

そういう、チラつかせて扇動する方法は、
恐怖政治そのものの姿であり、
こういった手法が、古今うまくいった試しはありません。

それは何故かというと、
恐怖の回避という、問題の本質とは掛け離れたところで、
どんどんと事が運ばれていくようになるからです



確かに、何かと何かを対立させ、
その対立構図を国民の前にオープンにして、
白か黒かを論じさせるようなやり方は、解り易いといえば解り易いですが、

こういう問題解決の方法は、
本質的には、日本人には合わないようにも思えます。

対立軸よりも、融合軸を多く取って合意形成していくのが、
日本人の問題解決のお家芸であり、
それは、古いやり方と一蹴するべきものではなくて、
先人たちの智恵と呼べるものではないかと思います。

現に、欧米のビジネス界でも、
最近は『会議前の根回し』という、日本的な手法が見直され
この手法を積極的に取り入れている企業も多いそうです。

今回の事件で、
橋下市長が行政長として、今の時点で成すべきことは、
徒に対立を煽って、不信感を掻き立てるのではなく、

教員側と協力して、
指導に適切な新しい教師を、三月末までに早急に探すこと

彼の市長としての責任や、振るうべき手腕というものは、
そこにあるのではないでしょうか

そしてその上で、
教育の在り方を問うのが、物事のスジである筈です


そういう物事の順序立てを行なう前に、
まずは対立軸を作り出して、これを問うというやり方に、
在校生や、これから入学を考えていた学生翻弄されることに、
僕は、奇妙な逆転現象を感じます

そして、
このような捻れをアナウンスする人が少ないことにも、
僕は、違和感を覚えるのです

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by hiro-ito55 | 2013-01-27 21:38 | 社会 | Comments(0)

僕らの仕事には、
利用者からの支援ニーズを引き出し、
それを個人レベル、或いは生活レベル、社会レベルにおいて、
上手くコントロールしていく役割
があります。

それを対人支援と呼ぶのですが、
相手の支援ニーズを知ることが、人の価値を知ることで、
それを活用することが、人の価値を広げることだ
というふうに、安易に結び付けて考えられやすいことも、
また事実かもしれません。

自分の意志に基づく活動という視点で人を見ていると、
ついついそのように考えがちなのですが、

人の価値そのものは、
動いていても止まっていても、変わるものではなく


これらは、本来は別次元の話であり、
同列に考えて論じてはいけない
と思うのです

例えば、極端な例でいえば、終末期の患者さんがいて、
その家族が胃瘻の造設を望む場合も、あるかと思います。

ベッド上で自分の意志で指一本動かすことができなくても、
息子や娘にとっての父親妻にとっての夫という姿変わらず
少しでも長く生きていてほしいという思いから、
胃瘻造設を希望する。

そんな家族もいらっしゃると思います

結局のところ、
その人に寄り添うその人の存在や価値というものは、
その家族や、本人にしか分からないものですから、

他人から見て、
その望み非人間的な望みであろうと揶揄されようが、
その妻や子にとっての、その人の存在や価値というものは、
活動や静止の観点を超えたものがある
と、僕は思うのです。

人の価値というものを、
もし、活動や静止の観点から推し量り切れると考えるならば、
それは、物質の運動モデルを人に当て嵌めて、
人の価値を、それと同程度のもとして扱うということ
で、

これを基に作業療法や医療倫理、終末期医療を考えることは、
たいへん危険なことのように思われます。

確かに僕ら現代人が、人として生きることに不安を感じるとき、
そこには『活動できなくなるのではないか』という恐怖があります。

でも、
なぜ、活動できなくなることに恐怖を覚えるのか
ということについては、自分自身の奥底を見詰めても
なかなか答を出し切れるものではありません

僕はここに、
自分の意志に基づく活動の価値と、人の価値を同列に考えるという、
そういう捉え方の限界があると思うのです


人の全てが、
法則という名の、何がしかの運動変換が可能
というのは、

結局、
人の心身の活動は全て理論化し、外部化して推し量ることができる
という思い込みに基づいています。

そういう、科学への思い込みや不適切な使用がまずあって、
活動に対する驚き共感は、
その後に随伴して明らかにされる現象である

という考えにも、依然根強いものがあります

僕は今、
現代人不安にして、そこから人としての尊厳を脅かしているのは、
自分の意志に基づいてより活動できる生活の方が、
 より充実した人生を送ることができる

という、近代思想に基づいて作られた価値観であると考えています。

本質的には、
自分以外のものと何かを共有できる状態であることにおいて、
人が存在する価値というものは確保されるものですが、

何かを共有する在り方そのものについては
多種多様な姿というものがあると思います。

少なくとも対人支援として
人の価値について考えたいのであれば

医療や介護に携わる者は、
物質の運動モデルや活動理論に基づく価値観から、
脱却した考え方を身に着けていく必要がある
と思っていますし、

それを考えていくことが、
これからの僕らのテーマであろうと思っています。

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by hiro-ito55 | 2013-01-20 20:15 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

僕ら作業療法士は、人の価値を知ることとは別に、
形としては、人の活動を(再)支援する仕事だと言えます。

ですから、僕らは、
支援していく活動を評価するのと同時に、
人を活動していくように導くことに、その存在価値を見出す
と、一応の形としては言えるかもしれません。

対人支援の基本は、
僕ら専門職が良いと思うものをまず提供するのではなく

利用者のよいと思うもの、
或いは、利用者の潜在能力を上手く引き出すこと


それを支援することにおいて、僕らの専門性は発揮されるものです

そういう基本に立って考えてみれば、
利用者と直に向き合う時間を大切にして、

そこから、
僕らがどれだけ多くのものを感じ取れるかが、
対人支援においては重要となってきます。

ごく単純に言ってしまえば、
それは支援ニーズの発掘と、それを調整する作業
ということになろうかと思います。

支援ニーズには、大きく分けて ①要求 ②必要性 の二種類があり、

要求とは、
こうしてほしい』『ああしてほしい
または、『こうしたい』『ああしたい』という、
本人発の支援ニーズのことです。

必要性とは、
本人は支援してもらいたいと感じてはいる
それが伝えられなくて困っているかもしれないもの
或いは、感じていても
本人だけでは如何しようもできない状況にあるものです。

要求必要性どちらにも、
本人のはっきりとした意思が隠されています
が、

本人が『困る』と感じることができなければ、
そもそも支援ニーズというものは成り立たない
ので、
重要なのは、本人の支援ニーズへの『気付き』にあります


また、僕らが日常的に参考にしているICFは、
活動理論モデルにしてはいますが、

支援ニーズの中には、
安静安らぎの、時間を提供してもらいたい
というものもあります


実際に、デイに通う利用者さんの中には、
午前中は、縁側で畑や景色を眺めながら過ごして
美味しい昼食を食べた後は、昼寝でもして静かに過ごしたい
という方もいらっしゃいます。

デイに通うときぐらいは、
『あれをやりなさい』『これをして下さい』などと、
他人の干渉を受けたくない
というのです。

ですので、
支援ニーズ要求必要性の中にも、活動安静があり、
そこにも、本人のはっきりとした意思が隠されているのです

ちょうど、様々に絡まった糸の中から、一本だけ引っ張ると、
結び目が、余計に硬くなっていってしまうこと
があります。

それと同じように、
僕らは、単純に活動を推進するのではなく
まずは、これら支援ニーズを、しっかりと受け止める必要があるのです。

つまり、
支援ニーズを受け止める段階から、僕ら対人支援職にとって重要なのは
利用者本人に、清く正しい生活をしてもらいたいと要求するのではなく

その人なりの社会生活を営む上で
その人なりの支援ニーズを、上手くコントロールしていくことにある
と言えるでしょう。

そしてそれは、
人の価値を知ることと、次元の異なる話であるということにも
実は、注意が必要なことと思っています。

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by hiro-ito55 | 2013-01-13 20:45 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

対幻想について


前回の記事、『本当の自由』の最後に、

人との繋がりを、対幻想と言い切ってしまう人にとっては、
 人参一本で足りるという事実は、更に永遠に絵空事なのかもしれない
。』

と書きましたが、
対幻想』についてよく分からないという方がいらっしゃいましたので、
少しだけ補足しておきます。


人との繋がり幻想と捉えてしまう思考的傾向は、
脱構築主義(ポストモダニズム)と呼ばれる思想と、
深く関わっています

脱構築主義とは、大雑把に言ってしまえば、
文化伝統人との繋がり、そういったあらゆるものは、
他と対比し相対化することで、その価値が現れるという思想です


つまり、
そのもの自体が持つ価値というものが、初めからあるのではなく、
ものの価値というものは全て、相対化して対比されることで、
人為的に初めて生まれる
とします。

この考え方の延長上に、
グローバリズムというものも生まれました


そしてこのような、
あらゆるものの価値が、相対化を絶対化することで、
人為的に作り上げられるものだ
という考えは、

ひとつには、ソシュールの言語学文化人類学に対する、
彼らなりの解釈によっても支えられています

ポストモダニストソシュール言語学の解釈に依れば、
人間は言語を持つことによって、
自然から切り離された存在規定することができます


そしてそこから、
人間を人間足らしめている理由は、
人間が作り出した言語というものを使って、
自分たちを恣意的自然から切り分けたからであり


そうであるならば、
言語に依存した人間の世界認識そのもの
恣意的に作り上げられたものだという、

言語人の世界認識
人が勝手に作り出した幻想であるという結論に達します

確かに、文化というものは言語に基づいてはいますが、
彼らによれば、言語自体が人間の恣意的な作り物で、
それによって作られた世界というものも、恣意的なものなのだから、

例えば『日本的文化日本人的ということに対しても
それらは人が作り出した共同幻想とも呼ぶべきものであり
それ自体にそもそも実体はないのだという考えに結びついていきます

この、社会人が共同的に作り上げた幻想と捉える考え方は、
例えば、自分自身に対しては『自己幻想』、
他人に対しては『対幻想』、
という文脈で語られ、

これらは纏めて、共同幻想論という名の下に、
現代の知識人を中心に、世の中に浸透していきました

PT、OT、介護職など、僕らコメディカルの中には、
地域共同体コミュニティーの在り方を、
この共同幻想論に基づいて考える人たちがいて、

それが、
ひとつの流れになっていること
は、僕も知っています

しかし、残念ながら
僕自身はこのような考え方には、全く与しません

文化伝統まで含めた、人との繋がりは、
共同幻想と呼べるような、僕らの観念上の出来事ではないでしょう

人との繋がり恣意的な幻想と捉える考え方は、
例えば僕らの仕事でいえば、日々利用者と共有する時間
或いは同職種、他職種、ボランティア等との繋がりまでも、
自分たちが作り上げた観念上の出来事として語るということです

それによって、
自分自身の知的好奇心は満たされ、これに酔うことはできたとしても


そのもの自体が持つ価値というものに正面から向き合い考えながら
これをそれぞれに支え活かしていく


そういう、僕らに与えられた当たり前の道を、
己自身社会の一員として現実に処しながら
それぞれに切り開いていくことは、恐らくできない


人との繋がりを、
恣意的な幻想という、観念上の出来事に逃がしてしまった時点で、
現実と向き合う効力は失うであろうし

そして何よりも
そこに僕は知識人たちの斜に構えたNihilismNarcissism
というものを、見ずにはいられない



前回の記事の中で僕が述べた
同じ腹痛なら、初めから人参一本で足りる
ということの意味は、専門性を放棄しろということではなく
現実を活かすために、専門性を用いよということで、

自分たちの専門性を活かすために、
例えば現実を、幻想相対的価値といった、
自分たちの知的好奇心の都合のよいように解釈し、
これを捻じ曲げて利用してはならないということ
です。

こういった話が、非常に解りにくいこと事実であろうし、
また、知識人になればなるほど
現実観念的に捉える傾向は、確かにあるのかもしれません

ですので、これは、
僕自身の自戒も込めての話、ということになります

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by hiro-ito55 | 2013-01-03 19:36 | 哲学・考え方 | Comments(0)

2013 迎春


明けましておめでとうございます

拙いブログですが、いつも見て頂いている皆様、
今年も宜しくお願い致します。


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by hiro-ito55 | 2013-01-01 16:30 | 日常あれこれ | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー