考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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本当の自由


前にも紹介した通り、
うちのデイには小さな畑があります。

最近、農作業が好きな利用者さんが、また一人増えました
先月より、新規にご利用頂いている方です。

成長と共に倒れていかないように
時期を見て、根元の土を鍬で被せ直したり

白菜の『巻き』が思わしくないと、
ビニール紐で、白菜全体をぐるっと括ったり

大根成長を促すために、間引きしたり...

彼らと一緒になりながら(アゴで使われながら)、
天気の良い日は、せっせと体を動かすのが、僕の日課になりつつあります。

体が不自由になってきたとはいえ、
みんな農家の出身だから、手際が驚くほど早い

そして何よりも、
みんな生き生きとしている


そんな彼らの隣一緒に作業をしていると、
こういう時、本当に自由だなと感じるのです

自由とは、
あらゆる束縛から解放される、という観念上の出来事でもなければ、
個性個人主義を、事ある毎に声高に叫ぶことでもない


自分が自分であるための個別性から出発し、
自分の依って立つ己の歩んできた歴史自覚しながら、
これを喜んで受け入れること

その、一見すると制約とも呼べそうな大地の上で、
自我を忘れることのできる時間と場を持てるということ

それが、本当に自由であるということだと思う

彼らを見ていると、
みんな親の決めた相手と結婚し、農家に嫁いで
朝から晩まで畑に出て仕事をし、それを何十年と繰り返してきた

雨の日も、晴れの日も...。

それを不自由であったとするのは、
彼らにとっては、大きなお世話だろう

今、こうやって、
彼らと一緒農作業に取り組みながら思うのは、
作業療法ひとつの役割は、利用者にとっての自由再現し、
それを甦らせることなのかもしれないということ


生活動作練習にしろ機能訓練にしろ、それは同じことで、
自分が自分であるための個別性を、喜んで受け入れられるように、
僕らは彼らを支援しているのではないのだろうか


また、
人は、共感尊敬から対象を知ろうとすることで、
自然と、自分の言葉というものが生まれてきます
それがどんなに拙いコトバであったとしても。)

言葉で伝えられないものは、ノンバーバルな表現として、
表情仕草声の抑揚などとなって相手に伝わります

利用者が、作業に取り掛かって生き生きとするということは、
利用者が作業に共感を覚えるということ

人によっては、それは自分の歴史や個別性を、
再認識するということかもしれない

そして、生き生きとして取り掛かるということは、
バーバルノンバーバル双方に於いて、多弁になっているということ

その利用者の多弁が、やがてしっかりとした形となるならば、
それは、自分自身の言葉を得るということに他ならない

僕ら作業療法士は、
それを引き出し甦らせ
共に分かち合う場と時間を持つことができる


自由の再現という、作業療法のひとつの発想が、
自分の言葉を得るということと繋がっている

そしてそこには、
クライエント中心主義CCP)も、
作業に焦点を当てた実践OBP)も、
意思決定の共有SDM)も、


そういった視点が、最初からみんなそこに含まれている
ということになるのではないか


トップダウン方式も、ボトムアップ方式も、共有方式も、
人が作り上げたものには違いない

それは、例えば、
人参の解毒作用の働き分析して
そこから下痢止めにはこの成分便秘解消にはこの成分有効
それぞれに分けて抽出し、これを使い分けることだ

しかし、
そういった専門的知見によって、知的好奇心は満たされても、
実存にはそぐわない


同じ腹痛なら、初めから人参一本で足りる

けれど、僕らの自惚れは、
こういった未分化のものの姿というものを、
そのままではなかなか許容しないし、

専門性が、
限定的というレールの上に乗せられるということと紙一重で、
却って僕らの認識を狭めてしまう危険があることを、認めたがらない

そして、
人との繋がりを、対幻想と言い切ってしまう人にとっては、
人参一本で足りるという事実は、更に永遠に絵空事なのかもしれない

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by hiro-ito55 | 2012-12-27 20:57 | 作業療法 | Comments(0)


僕らの仕事は、人と人とを繋いでいく仕事
個人的にはそう思っています

新しい方法だとか、発見だとか、
そういったものを残したいのではなく

自分はただいつも、
繋いでいく人たちの一員でありたい


名も無き人たちにも歴史というものがあるならば
時系列に並べられたものが、歴史の全てではなく
歴史はいつも誰にでも、その人たちの中にあり

それをしっかりと現在に甦らせるのが、
作業療法の役割だと思う。

そういう繋がりの中に、自分がいるということはまた、
自分も歴史の一員であるということ
その繋がりを知ることでもあるのではないか。

歴史を知るとは、
自分自身を知るということでもあり、

受け取ったものを、また次の人に伝えていく
その役割に気付くということなのかもしれない。

だから僕は、この歌が好きです



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by hiro-ito55 | 2012-12-23 21:33 | 音楽 | Comments(0)

San Francisco Circus


最初見たときは、CGかと思った(;一_一)



プロドライバーって、スゲーな(@_@。







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by hiro-ito55 | 2012-12-22 16:15 | 動画 | Comments(0)

年末だし、今回はここ何か月間の僕の頭の中を、
少しだけ纏めたものを書いてみました。


―美しい花がある。花の美しさというようなものはない。―

これは、以前の記事でも紹介したことのある小林秀雄の言葉です。


例えば、道の遠くの方で、
なにやら紫色のきれいなものがあるのを目にしたとする

何だと思って近づくと、やがてそれが菫の花だと判る

判ったところ普通の人は、
大抵そこで幾分かは興味を失います

なんだ、菫の花だったのかと

菫の花だと判ったとしても
それで少しも興味が失せることなく

綺麗な紫色に魅入られたまま他の目的を全く忘れてまで、
その花をずっと見続けられるということは、難しいことです。

ところが、
たとえただの菫の花だと判ったところで
それでも少しも見飽きることがないのが、芸術家という人たちです。

彼らはそれどころか、
この美しいものを、永遠の何か置き換えようとする

画家ならばで。詩人ならば言葉で。作曲家ならば音楽で...。

そして普通人の僕らは、
芸術家の表したそれぞれの作品を通して、
共感感動を味わいます


それは、
僕らが幾分かは興味を失う前の段階

つまり、
なにやら紫色のきれいなものがあるのを目にした』ときの感覚まで、
僕らの意識が、遡上させられるということです。

菫の花だと判る前の、全身でそのものを知覚しようとする
そういう状態まで、今一度僕らの知覚を遡上
僕らにそれをはっきりと自覚させる

通常は一瞬で消えてしまうような不安定な知覚を、
芸術というある形にすることで安定させ、
これを、観る者が自覚できる方向へと導く

そういう、
通常、僕らが何かを認識する方法とは逆方向に、
知覚のベクトルを導き、安定させること

それが彼らの目的であり、
共感感動とは、遡上された知覚を自覚することの別名
だと思うのです。

だから、
は、芸術家たちが生み出した空想の産物などではなく

現にある
僕らが、自からなかなか安定させることのできない知覚への、
はっきりとした覚醒なのです。


以前も書きましたが、
例えば、モネスザンヌ児玉希望横山大観は、
100年以上も人々に愛されています

人それぞれその絵に対する思い入れ愛着違うし、
絵と向き合って語り出すときの言葉も、人それぞれで違います

けれども、
絵と向き合ったときの感動共有することはできます

そして、
彼らの絵が、彼らの絵の個別性に拘らず、
人々の共感をずっと得られている
ということは、

絵に触れる人達によって齎される、
途絶えることのない共有共感という、
一人一人の経験の積み重ねが、

100年に渡る、人々の美への共鳴という、
普遍性を作り上げている
ことになります。

もし、モネ大観が、
花の美しさというものを、
自分の主観を用いて、これを新たに表現し直してやろう
と考えたなら

多くの人々の共感を、
100年以上も受け続けることは、できないでしょう



美しい花がある。

その在るがままの姿を、そのまま永遠に置き換え
観る者にこれをはっきりと自覚させたい願ったからこそ
優れた芸術家の絵は、愛され続けるのです


ところで、僕らの仕事対人支援と呼ばれています。

各専門職よいと思うもの提供すること対人支援だ、
思い込んでいる人圧倒的に多いのですが、

それは
花の美しさを、自分の個性表現し直してやろうとすることと、
同じではないでしょうか


利用者のよいと思うもの支援する
或いは、利用者の潜在能力や残存能力引き出し

それら
利用者自身がフィードバック実感できるようなで支援する

そのことにおいて、僕らの専門性発揮されるべきで、
それができる人を、本当の意味での対人支援職と呼びたい。

引き出すためには、
利用者と一緒に悩み苦しむこと必要で、

一緒になって悩むことが、
どれほど利用者にとって励みになっていることか

そして、
そこから僕らもどれだけ多くのものを、利用者から受け取っている

これは、
実際に利用者と接してみなければ分からない、また、忘れてはならない
作業療法士利用者の、共有の財産であると思うのです

この共有の財産
つまり、共に苦しみ悩みながら、そこから作業療法を介して、
利用者自身にフィードバックを図るということは、

例えるならば、
その人という美しい花があり、
作業活動という表現を介して、ひとつの安定した形作り上げ

その美しい姿を、そのままの形で
利用者自身にも判るようにして返してあげることだ、と思うのです。

これは、
心身の因果論頼りある方法示して
それに基づく効果結果利用者に示していくような、

そういう、
論理という仮面を被った実証主義が目指す普遍性などではないですが、

利用者と作業療法士の間には、
共感共鳴尊重といった共有の財産があり

それを育み受け継いでいくことが、
永遠の何かに置き換えたいと願う力変わるならば

きっとそこには、普遍性の道が開けていると思うのです

そしてそれは、
美の普遍性と、どこか似ているような気がするのです


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by hiro-ito55 | 2012-12-16 16:14 | 哲学・考え方 | Comments(0)

スクリーンの奥の尾崎豊


この週末、『復活、尾崎豊』を観てきました。
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以前、
尾崎豊について~僕の中のリアリスト~』の記事の中でも書きましたが、
僕にとっては、青春時代の何年間を、
彼の歌圧倒されて過ごした記憶があります。

今回、講演された映像は、
最後のツアーとなった1991年Birth Tour初日の映像

僕は、大人になってからの尾崎のライヴは、
実は一度もまともに見たことがなかった

十代の頃
からへ、からへ、
振り子のように揺さぶられる心を持て余しながら、

それでも、そこからその都度立ち上がれてこれたのは、
それだけのエネルギー自分自身に備わっていた証拠であり、
そこに尾崎の歌や生き方を重ね合わせもした

けれど、
友を知り自分を知り社会との繋がりを知るうちに

やがて、自分の内腑を聴衆に曝け出すような彼の歌と、
真正面から向き合うことに、耐え切れなくなっていった

知ることが、人の成長の、深化の代名詞であるならば、
ちょうどそれと反比例するように、
僕は、尾崎から意図的に目を逸らしていったように思う

知るとは、
自分の姿にはっきりとした輪郭を与えることであり、

知ることによって、
人は誰かからの借り物の言葉ではない
自分の言葉によって、世界を言い表すことができる

それは、弱さではなく、
距離感を学ぶことと同義だと思いたい



かつて、尾崎と対談した作家の村上龍は、
彼の目を見て、『獰猛なる異物表現した。

その目まともに見られる人は、
けして多くはないだろう
、と。


彼の歌貪るように聴いていた僕は、
或いは、この獰猛なる異物が放つ光魅せられていたのかもしれない

そして、
彼が闘ったのは、
イデオロギーでも、群衆でも、大人社会でもない
獰猛なる異物を抱え込んだ自分自身なんだと、
今更ながらに思う

そして、大人になった尾崎は、
スクリーンの奥笑顔を絶やさない

路上に掲げた旗を見よ』と、
強烈なパフォーマンス圧倒しながら、
様々な挫折苦悩から復活した、尾崎豊の姿そこにある


アンコール後の挨拶
You cannot miss it , みんな、頑張ろうね。
笑顔聴衆語りかけスクリーンの奥に消えていった彼が、
とても印象的だった。

彼も、調和という名の距離感を探していたのだろうか...。
僕にはそう思えてならない

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by hiro-ito55 | 2012-12-09 17:20 | 音楽 | Comments(0)

忘年会にて思うこと


もう12月
そして当事業所でも忘年会

社長と、賄いさんを含めた従業員全員で、海鮮料理を食べにいく。
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一応、経営のこととか、これからの事業所の方向性など、
真剣な話をする予定もあったけど、

社長をはじめ、そういう堅苦しい話題にはならず
最後まで、なんだかワイワイ楽しく食事
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締めには、
社長からみんなに手作りパンのプレゼント
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僕がこのデイサービス仕事をするようになって、
まだ三か月ちょっとだけど、

帰りの車の中で、
最近はみんなよく喋りよく笑うようになって、
仕事をする雰囲気も変わってきた

というを、介護さんから聞かされる。

今までの職員の話総合すると、
どうやら、前任の管理者は、
数年間、相当に厳しく人を管理していた様子(;一_一)

僕は、個人的にその前任者を知っているわけではないけど、
職員の意見抑えつける管理の仕方よくないし、

逆に、世間一般でよく言われるような、
従業員みんな経営者のつもりで仕事をする
というのも、やはり間違いだと思う

周りや、自分が直接関与しないことについてあれこれ言うのではなく
それぞれが、それぞれの向き合う仕事一所懸命であること

そこに、
多様性本当の自由というものが、存在するのだと思う


各自が、安心して自分の仕事一所懸命になれる
それが、働きやすい職場であるための、ひとつの指標だと思う

だから、僕の仕事は、
各職員が、身の丈に合った一所懸命さを、
充分に発揮できる環境作っていくことと、
そこに有機的な繋がり与えること

今日
あえて経営の話を持ち出さなかったのは
社長も、そんな風に考えていたからではないか


そんなことを思いながら介護さんを家まで送っていくと、
ちょっと待っててね、先生。』
と言って、畑で取れた大根と人参を持って来てくれる

おじいちゃんが一所懸命に作ったものだから、美味しいよ。』
と、手渡された大根は、確かにずっしりと重かった

一所懸命さから作られたものは、きっと美味しいに違いない
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by hiro-ito55 | 2012-12-02 00:27 | 日常あれこれ | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー