考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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― 悩んでるなら 答えを待っても進めはしないだろ
  とにかく今を 走り抜くんだ
  走り出したら もう止まれないほど蹴り上げて
  全力で向かうんだ
  連れてゆくのものは この胸叩いてる 蒼い春 ―

              ― センチミリメンタル「蒼い春」 ―


先日、知り合いの方を通して、彼らの唄を知りました。↓↓
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B面の『water』という曲も含めて、
久しぶりに聴いた、前向きで素直な唄
作詞は、ヴォーカル兼キーボードの温詞さん

僕個人としていつも思うことは、
詩人という人たちは、けっして言葉を弄ぶ空想家なんかではなく
言葉の表現性信頼し、その力驚きながら
それに正直に向き合える人だ、ということです。

詩人は、言葉という道具を新たに発明するのではなく
当たり前のように日常僕らが使っている言葉だけを組み合わせ

その言葉を使うことで、
いつも僕らが何気なしに使っている言葉の中には、
いつまでも僕らの心に残るような消えない言葉というものがあり、

言葉はけっして、意味伝達だけの、実用性だけの便利な道具ではない
ということを、気付かせてくれます

音楽もそれと同じだと思うのです

この唄を聴くと、
彼には『詩人』という言葉ぴったりのような気がする。

だから、
この唄に出会えたことに感謝しています


今のところ、
地元NHK名古屋や、FMラジオには出演されているようですが、
まだメジャーデビューしていないということなので、

残念ながらCDショップでは購入できないようですが、
これからの彼らの活躍を、楽しみにしています

僕は僕で
CDちゃっかりサインも貰ったりして(^_^;)
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蒼い春



water



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by hiro-ito55 | 2012-11-29 00:16 | 音楽 | Comments(2)

思い込みによる弊害


この利用者さんとは私も久しぶりにお会いするのですが、
 この方には、嚥下体操を強くお勧めしておきました
。』

担当ケアマネさんからの突然の電話連絡に、
思わず『え!?』と答えて絶句してしまいました。

その方の食事中の咽込みについては、モニタリングなどを通して
担当ケアマネさんに今まで何度も上申しており、

呂律が回らない言葉を噛むといった問題や、
食事後に口腔内に食物残差物が残るといった問題
異食行為や食べ物を上手く口元に運ぶことがでない
などの認知機能の障害見受けられないこと

そういった情報は幾度となく伝えてあるはずなのに、
その電話一本の反応で、
こちら側の情報が全て無効にされてしまったような、
残念な気持ちになりました

電話での話を聞くうちに、どうやらそのケアマネさんの頭の中では、
咽込み ⇒ 嚥下体操 という図式既に出来上がっていて

咽込みのある利用者さんには、とにかく嚥下体操を行なえば良くなる
という、間違った思い込みをされているようでした。


利用者さんと細目にお会いして接していれば、
或いは、いつも一番近くにいるご家族お話を伺えば

本人呂律の問題食物残差物の問題
異食行為弄食などの、認知機能の問題全く見られないことは、
すぐに分かるはずだし、

摂食・嚥下についての最低限の知識を持っていれば
嚥下のどの相での問題であるかといったことは明白なはずです。


ならば、この利用者さんの場合
今問題となっているのは、咽頭期食道期での機能低下であり、

STなどの嚥下の専門家ではない僕らが、
取り敢えずの対応として出来ることは、
反射運動重力蠕動運動が上手く働くためにはどうすればよいか
考えることです。

そのためには、例えば、
横を向きながら食べ物を飲み込まない
食べ物を口にしているときには話し掛けない
といった環境を整えることも、ひとつの手でしょう。

嚥下体操で、
随意筋の動きを促すこと無効だとは言いませんが、

それよりも、
今は、形成された食塊スムーズに胃に送り込む環境作り
それを考えること重要な段階であること

そのことを、嚥下のメカニズムと併せて説明したのですが、
それよりもとにかく嚥下体操を』というのが、
このケアマネさんの方針

そしてボケないためにも、
みんなでわいわいお喋りをしながら楽しく食事をしましょうと、
事ある毎にご本人とご家族に勧めている様子


対人支援の基本は、
僕ら専門職が良いと思うものをまず提供するのではなく
ひとつには、利用者さんの潜在能力を上手く引き出すこと

そしてそれを支援することにおいて、僕らの専門性発揮されます

しかし、自分の思い込み強ければ強いほど
そういう重要なことに、気付くことができない

結果として、利用者さんの不利益に繋がったり
危険因子増やすことになったりしたとしても
僕の経験から言えば、そこにあるのは身勝手な弁解ばかりです


そんな状況で、この方のサービス担当者会議に臨んだので、
当然、ケアマネさんとの話は噛み合わない

なぜ嚥下体操を勧めているのか
その根拠についても話をはぐらかすだけで、
ご本人やご家族にも、何も示して頂けない

幸いにご家族ご本人には、
僕の伝えたいこと充分ご理解して頂け

後日、彼らから、
嚥下食事に関する素直な相談もして頂けたので良かったものの、

僕にとっては、対人支援専門職としての在り方など、
根本的なことを考えさせられた一例でした

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by hiro-ito55 | 2012-11-25 00:01 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(4)

人はいつから大人になるのか

やや哲学的な問いですが、
自分の経験を、自分の世界を、
自分の言葉で語れるようになったとき


人は大人になれる

少し前に、そんなふうに書いた覚えがあります。


自分の言葉で語れるとは、
社会的常識を身に着けていくこととは、少し違います

どんなに有名で、人前では常識的な振る舞いをしていても、
情緒が、とても未熟なままの人は、世の中にいくらでもいます


例えば、1+1はいつでも2です。

年齢性別社会的地位に関係なく、
これは常識です。

常識だけれど、
このような、正しいこといくら知っていたとしても

自分の世界を、
自分の言葉で表現することにはならない


社会的通念常識、つまり、
みんなが正しいとする意見をいくら言えたとしても
自分自身や他人のことについては、何も語れぬままです。

自分の言葉で、
自分の世界を語っていくためには、

やはり、自分の経験と直接に向き合い
そこから語れる言葉を、大事にしなければいけない


自分が直接経験しないことを、
を以ってあれこれ言うのが学者です。

医療介護の世界に、を利用するのはよいのですが、
初めに理ありきの如く、全てを語ろうとするのは、
人の経験を、というもので縛ってしまうということです。

『事』は『言』だ、とよく言われますが、
纏まりのない言葉でも、事に触れて言葉を発するのが人間であり、
経験言葉によって、僕らの意識の上に捉えられるのです。

しかし、
纏まった言葉を捉えないと、
事は僕らの意識に、漠然としたまま残っているだけです。

だから、
その経験しっかりと我が物にするために
人は自分なりの言葉を必要とするのです。

そう考えれば、
本来、一般化とは何の関係もないところに、
普通の意味で、言葉を使用する僕らの日常生活があり
それを見定める絶え間ない言語生活の中に、僕らは生きています

言い換えれば、
事(人の経験)は、言葉によって読み取られるのを待っているのであり、
というものが、に先行して在るのではない
ということ。

そこに気付くことができれば、
作業療法士としても、一人の人間としても、
汲み取れる経験言語の幅は、広がると思うし、

僕の経験から言えば、
利用者は、そういう人と出会えるのを待っています

僕らが、
自分の言葉で語り出すためその手掛かりは、
以前の記事で書いたような、個別性共有や、共感の中にありそうです。
 ↓↓
個別性への共鳴と、普遍的であるということ
物は見ない、物の名を呼ぶ


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by hiro-ito55 | 2012-11-18 16:26 | 哲学・考え方 | Comments(0)

同じOTをしても、利用者によって、或いはセラピストによって、
そこから得られる反応や、明らかにされる可能性違う
ということはよくあります。

もし、原因セラピストの側にあるとするならば、
自分の技術を磨くというのが、
まず職業人としての僕らの務めになります。

しかし、技術というのを、
単に手技的なテクニックと捉えてしまうことだけは、
避けたいものです。

人は物ではないのです

技術統一して、
オートマティックな反応期待するというのは、
本来は、物体に対してのみ有効な方法論です

訓練をして、身体機能的向上が見られることは、
たいへん素晴らしいことですが、

どうせOTという仕事をしているのなら、
もっと違った観点に立ちたいものだというのが、
この仕事を通して得られた僕の気付きです。

今回はそれについて書いてみたいと思うのですが、
ちょっとだけ回り道をして、
僕らが日常的に使っている言葉の性質から、話を進めていきます


言葉には、有用性表現性という二つの側面があります。

1.有用性

有用性とは、目的を持つという意味で、
例えば、店の前で『これを下さい』と店員に声をかけてみたり、
上司に業務報告をする時に使ったりする言葉です。

この場合は、とりあえず意味や内容が相手に伝わればよいので、
そのためには、いくらでも言い換えの利く言葉だといってもいいでしょう。

意味内容伝達という、
あるひとつの役割だけを持った言葉ですので、
僕らが普段使う言葉の中でも、限定的な働きをもったものといえます。



2.表現性

もうひとつの表現性とは、消えない言葉のことです。

例えば、
自分の好きな詩なんかを思い浮かべて頂ければよいかと思いますが、
その言葉を、そのままの形で覚えてしまいたいと思えるような、
僕らの心にずっと残る、他に言い換えの利かない言葉のことです。

例えばは、
そこで使われている言葉を、別の言葉置き換えてしまったら、
全く別のものになってしまいますので、
意味だけが伝わればそれでいい、というものではありません

いわば、
そこで使われる言葉そのものの姿が、
ひとつの表現する力を持っていると言えます。
これを、言葉の持つ文(あや)と言います。)

そうすると、
表現性の言葉は、言葉の意味+言葉の姿(文)という、
二つのもので成り立っていることが分かります



3.言葉についてのまとめ

纏めれば、
言葉について言えることは...、

有用性の言葉というのは、
  内容や意味だけが相手に伝わればよい言葉のことで、
表現性の言葉というのは、
  意味と姿・文(あや)の二つの性質を持った言葉である、

ということです。

言葉全体からみれば、
まず言葉の表現性という土台があり、
そこから、意味伝達の役割だけを分離させ特化させた言葉の有用性がある
と考えるのが自然でしょう。

つまり、
言葉は、その土台としての表現性があるからこそ
有用性もあるのだということです



4.僕の得られた気付き

人の経験についても、言葉と同じことが言えると思います

作業でも、活動でも、行動でも、
それは全て人の経験であると捉えることができます

そう考えれば、
僕らOTは、人の経験を扱う仕事だと言えます

僕らがなぜ、
人の作業活動行動科学的に分析し、解釈するのかといえば、
人の経験を、有用性に沿って働かせていくという目的があるためです。

科学にはその役割がありますが、
人の経験には、あなたの経験と誰かの経験が違うように
別の場所、別の時、別の人に置き換えることのできない
個別性というものもあります

つまり、
誰にとっても同じというものの知り方ではない経験
というものがあります。

それを、
僕らは共感尊敬という繋げることができます

それは、
その人の経験の表現する姿に、他者が共鳴するということです。

例え、その時詳しい意味は分からなくても
心を打たれるというのはそういうことであり、

僕らがこの動作に介入したい
この作業を共にしていきたいと思うのは、
そういう時に働く直観だと思うのです。

この直観は、
人の経験が有用なものかどうか、という基準で捉えられる以前に
知覚される経験があることを、僕らに教えているし、

経験の表現性が、有用性よりも先んじてあることを、
僕らに自覚させてくれます



5.まとめ

現代は、文系理系を問わず
学問というものは、ある方法を決めて始めなければならない
という間違った思い込みがあります。

ある有用な方法決まれば
いずれ物事が明らかになるという考えが、非常に根強くあります

例えば、教育のことでいうと、
子供ある英才教育を施せば、優秀な子供に育つ
と、疑わないような思い込みです。

しかし、英才教育を施した子供が全員秀才になるとは限らない

そういう失敗は、
人の経験というものを、有用性のみで語れると見誤ったから
と思うのです。

方法論という、
反証可能な対象においてのみ有効な手段は、
端的に言えば、物的対象において有効だということ

人は物ではありませんから、
これを忘れて、初めに有用と思える方法在りき
という考えを当て嵌めることが、そもそものボタンの掛け違いなのです。


作業療法は、人の作業や活動や行動を扱う社会学です

人や、人の経験実証主義的読み取り
そこから、意味役割文脈だけ抜き出して
方法論をそこに当て嵌めるというのは、
大きな過ちの元であるように思えます。

その時詳しい意味は分からなくても
まずはこの動作に介入したい、この作業を共にしていきたい
と思えるような経験をしっかりと掴んで、これを磨いていく

そういう経験の表現性への共感尊敬が、
人と人との繋がりを生み

その繋がりが、やがて、
意味なり価値なりといった、はっきりとしたを創り上げ、
人の、普遍的な何かを創り出していく
のだと思います。

作業療法士であるならば、
人の経験というものを、全て科学が担っていくと思い誤らないでほしいし、

人の経験を扱う作業療法が、全て科学の上に成り立っているなどと、
けっして安易には思わないでほしいと思うのです。

人の行動活動を、やたらと科学で測ることは、
有用性の言葉だけで僕らの会話満たし
その言葉だけを使って毎日を送り続ける

そういう機械的な言語生活で、人生を送ることと同じである
ということに、一人でも多く気付いてほしい

最近は、そんなことを考えています

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by hiro-ito55 | 2012-11-12 00:01 | 作業療法 | Comments(0)

moon…


昔からよくこの歌を聴いていたけど、
今日は寝る前にふと、この歌を聴きたくなりました




今月に入って、
新規契約の取り付け終業後の地域リハ懇親会への参加
事業所への営業活動など、
バタバタと忙しい時間が続いています。

忙しい中、
デイサービスでいつも心がけていることは、
利用者さんのやりたいこと、居心地の良い空間と場を作り出すこと

職員の一日のタイムスケジュールを決めて、
その通りにサービスを提供することも、
職業人としてのひとつの在り方だけど、

僕ら専門職良いと思うものを、まず提供するのではなく
利用者さん良いと思うことや、潜在能力見極め

それを支援していくことが、
結果として、利用者さんにとって居心地の良い場であったりする。

タイムスケジュールに沿って仕事を進めれば、
職員のその日の仕事の達成感は得られやすいけど、

それは、利用者さんの時間ではなく
職員の時間通りに事が進んでいること紙一重です。

だから、
僕らの仕事は、利用者さんに振り回されてなんぼの世界

利用者さんにはどんどん我がままになってほしいし、
デイでは、そういう事をぶつけて貰える場でありたい

個人的には忙しい日が続くけど、そういう僕の思い理解し、
一緒になって悩んでくれるスタッフ感謝しています。

moon...

僕が関わる全ての人にとって、安らぎの場でありますように






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by hiro-ito55 | 2012-11-08 21:16 | 日常あれこれ | Comments(2)

物事を知るということにおいて、
科学的という言葉が、僕にはずっと煩わしいものでした。

かつて、
真理とは、科学的真理の代名詞であった時代がありました。

今でもそうですが、
時代的通念科学的知見さえあれば、
これであたかも物事を全て知っているかのような

なんとなく、そんな気にさせられてしまうものです。

でも、本当に何かを知るということは、
そういうことではなかろうと思います

前回書いたように、作業する方の姿外部化して眺めても、
作業その人個別性
或いは、物事の掛け替えのなさを、説明することはできない

科学的に見るということは、
類似性を求めるということであり、
物と物との間に、関係性を見つけ出すということです。

とはこういう点で共通しており、このように機能し合っている
そういう相関的な関係性発見し、
この関係性...と、延々と広げていくということです。

例えば、作業に対して、
統計学を基に、あるモデルを作り出してみたところで、
この行動にはこうだ』という、それに沿ったカテゴリー解釈が、
モデルの数に比例して、いくらでも増えるだけです。

科学は、物事を外部化してその関係性に注目する学問で、
これに沿って関係性を増やすものだということは、

言い換えれば
物は見ずに、物の名を増やしていくということです。

けして、
その場に自分も入って、
その中から物事を知るということをしないのが科学的な知見であり、

物事の中に自分が入ってしまえば、
それは主観的なものだと片づけてしまう。

例えば、
何故生きるのか』『なぜ老いていくのか』という問いに対しては、
科学は、それは哲学の守備範囲であるとして、見向きもしない。

僕はここに、や人の営みである作業活動を知る上での、
科学的な知というものの、限界があるように思います。


僕らは、
科学というものは元来、物体だけを対象にしているのだ、
という重要なことを、どうしても忘れがちです。

最近は脳科学が盛んだけど、脳はただの物体です

脳科学から、人間の認知や行動に対して言えることは、
身体という物体が、こういう法則でもってこのように反応する
ということだけです。

現代科学が採用する、
精神や心は、肉体一対を成して存在しており
お互いに一対一反映し合っている
という考えは、

実は、
心身平行論という仮説の上に成り立っているにすぎません

しかも、この仮説が間違っているということは、
哲学者アンリ・ルイ・ベルグソン失語症の研究によって、
証明されていますが、

科学の側からは、
この仮説が正しいという証明は、成されていません

仮説を証明して
初めて次のステップに進むことができるのが、科学という学問ですので、

現在のところ、
人の心や精神というものがどのように存在しているのか
実は何もわかっていない、というのが正しいのです。

それでも、
人の認知行動を、科学説明することができるとするならば、
まずはこの仮説が正しいということを、
科学的に証明しなければなりません

この前提条件を飛び越えることは、科学に対する盲信であり、

前回の記事の中で書いた、
科学的でなければ作業療法ではないというのは、無神経で浅薄な言葉
というのは、そういう意味においてです。

それどころか、
精神という誰にとっても当たり前で、確実であるにも拘らず、
これほど移ろい易く、また曖昧なものはない

そいうもの抱えている人間に対して、
科学は、非常に不向きな学問なのではないでしょうか。

作業療法が、
物と物との関係性を探るだけの学問であればそれまでですが、

もし、本当作業姿知り
自分自身もその一員でありたいのならば、

共感共有というものを手掛かりに、
そこからできるだけ多くのものを汲み取る以外に方法はなく、

それには、科学でも主観でもない、
別の尺度がいるということを、知らなければならない

そういうふうに得られたものは、
その人がいなくなれば無くなってしまうような、
とても儚いものなのかもしれないが、

普遍性というものは、本来、そういう危うさを秘めたもので、

それを、
しかと我が物にすること人に与えられた叡智であると思うのです。

物は見ないで物の名を増やす、ということが科学であるならば、
人は科学というものをどんどん使えばいい

けれど、
物の名は分からないかもしれないが、それでも物を見る
ということが、人や作業を知る上での叡智であるならば、

これと親しく交わり、それを想うという想像力を殺しては、
物や人との間の、真の接触は絶たれてしまうのです。

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by hiro-ito55 | 2012-11-04 19:34 | 作業療法 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー