考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

hiroyan55.exblog.jp
ブログトップ

<   2012年 07月 ( 9 )   > この月の画像一覧


ホトトギスって、僕は実際には見たことがないけれど、
ホトトギスと聞いて思い浮かべるのが、

『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』
『鳴かぬなら鳴かして見せようホトトギス』
『鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス』


という有名な言葉

浜口雄幸は自著 『随感録』(三省堂)の中で、
この言葉を引用して、こう述べているそうです。

努力の及ばざる所は時が之を解決す。
 鳴くまで待たうは時なり。



結構せっかちな僕が言うのもなんだけど、
なかなか奥の深い言葉だなと感じたのは、

すぐに結果を求められる現代において、
待つということができない、或いは苦手な人って、
随分と多いように思うからかもしれない。(自分も含めて

じっと何かを待つということが、
とても消極的で、回避すべき態度のように感じられ、
行動しなければ、
自主性がないだの、積極性に欠けるだのと言われやしないかと、

ついつい、そんな風に考えてしまう

けれど、
何事もすぐに行動を起こさなければならないなんて、
そんなこと、別に誰が決めたわけでもないし、

待つということも、
ものや人を見極めるのに、或いは物事を解決するためには、
随分と積極的な意味を持っている筈なのに、

実際には、それがなかなかできないのが、
或いは現代人に共通のジレンマなのかもしれません。

僕自身も、
何かにつけ、じっとしていると、
すぐにでも自分が取り残されてしまうような、

気がつけば、なんだか一日、
そんな過ごし方をしてはいやしないかと、
振り返るときがあります。

そして、そう感じるのは、
大抵、対人支援の場にいるとき。


もし対人支援の場において、
相手反応よりも介入すること、

つまり、目的手段履き違えて
こちらの専門家としての見解や、
或いは加算といったものを優先させて行動してしまうと、

相手の立場に立った時間と場の共有が
できなくなる可能性があります


専門的に言えば、
相手の立場に立った適切な段階付けと介入が、
どんどん疎かになってしまう
ということ。

それは、
相手の持っているものを引き出し、それを支援する
という対人支援の基本忘れていく
ということにも繋がっていきます

自分に対しても、相手に対しても、
待つという姿勢が疎かになっていくと、良い支援はできません

もちろん、
自分のやり方でもって、
どんどん対人支援を進めていこうとするのは、立派なことだけれど、

リハビリにおいては、
相手の反応を待つという姿勢もまた、
とても大事なことです。

目的は、
相手の持っているものを引き出し、それを支援することであって、
僕らが専門的な介入をすることは、手段であって目的ではない

待つという姿勢は、一見、何もしていないように見えても、
引き出すという意味において、
とても積極的な姿をしている筈で、

具体的には、
利用者の時間共に過ごす
一緒に時間と場を共有する、という姿勢にこそ、
それ涵養されるものかもしれない。


対人支援究極の目的は、
共に生きるという姿を作り出すこと、にあります。

そのために、
様々な形があっていいとは思いますが、

ただ、
高齢者に対するリハビリの在るべき姿問われる時代において、
その姿が、どういったものであるかについて、
僕らはもっと自覚的であるべきだとは思います。


何かにつけ追い立てられるような毎日ですが、
こういう大事なこと忘れないように、
備忘自戒の意味を込めて、
今回、ここに書き留めておきたいと思うのです。

b0197735_15115461.jpg


[PR]
by hiro-ito55 | 2012-07-29 15:40 | 作業療法 | Comments(0)

作業療法という手仕事


今の世の中、
科学的でなければ作業療法ではない
と考えている人は、どれだけいるのだろうか。

20年ほど前から、
医療の世界ではEBM(evidence-based medicine)
ということが、盛んに言われ出したのは、
誰もが知るところだと思います。

そして今も、その流れの中にあります。

しかし、
科学的でなければ作業療法ではない言い切ることは、
このエビデンス(論拠、根拠)という言葉を、
あまりに限定的に捉えてしまっているのではないか
と、僕には思えてなりません。


医療介護の分野において、エビデンスとは、
ある治療法の効果を示す論拠や検証結果のことを指し、
その信頼度によって選ばれる指針となるものです。

つまり、エビデンスとは、
ある療法に対する信用度の問題であって、
科学的でなければならないということではないし、

作業療法Identityが、その論拠を、
科学に全面的に依拠してしまうという論拠にはならない。(ややこしいが。


誤解してほしくないのは、僕は、
科学 ⊆ 作業療法 であって
科学 = 作業療法 ではない、ということが言いたいのであって、
別に科学的手法そのもの否定しているわけではないのです。

そんなことをしても無意味であることは承知しているし、
医療・介護の分野における科学の優位性は、
揺るぎないものであることも、承知している。

問題は、
科学の価値や進歩を言うのではなく、
科学如何にひとつの理論として、どこまで純粋に、汚れなく
保持していくことが可能であるか


その難しさにあると思うのです。


しかし、
臨床家が、純粋客観性と化してしまうことはできない

EBMが声高に叫ばれるに従い、科学という現実的な手段を得て、
自分は空想家ではないという自惚れを、誰の胸にも容易に抱かせたが、

この仕事を通して、僕はむしろ、
科学の分析や構造のうちに容易に掴みきることのできない人間の価値や、
或いは本質といったものを、信じています

これは、臨床家であれば誰でも感じていることだと思う。



科学とは、設計図のようなものかもしれません。

科学に従って構造を規定すれば、こういう図を描くことができる、
という巨大な設計図だ。

図面自体は何も主張することはないし、
システム構造する設計図がなければ、
装置や仕掛けは、動き出すことはできない

しかし、
設計図通りに動き出せば、
後は、人間の手を必要としないオートマティックな運動に、
従うわけではない

設計図純粋性は、
それを使役したり、されたりする人間活動の曖昧さの中霧散し、
やがて解消されてしまう。

ひとりひとりに違った個性があるように、
思考行動多様性が生まれるのは、当たり前のことで、

例えば、
MMSEHDS-Rで概ね5~25点対象者を集めて、
同じメニューの認知症短期集中リハビリを施しても、
その効果結果違いが出てくるのは、当たり前のことなのです。

科学ひとつの理論として、人間活動の中に、
どこまでも純粋に、汚れなく保持していくことの、
たいへんな難しさが、そこにはあります。

しかし、
その困難さ嘆いてみたところで、何にもならない



のことを本当に知ろうとすれば、
友を科学的にみる馬鹿はいないと思います。

友を知るためには、
各々が、各々の内的な動機従って知ろうとしていくものです。

これは誰もが持っている当たり前の真実であり、
また、唯一確かなことでもあります。

主観とか客観とかというものが、
非常に曖昧な意味を持つものであることは知っていますが、

相手を知るためには、
僕は、各々の人間が持つそういう普遍的な性質しか、
信じていません。



対人支援の基本というものを考えてみれば、
それは、相手の良さを引き出して、支援することにあるかと思います。

そしてそのためには、
相手のことを、よく知っていなければなりません。

科学による相手分析的な構造や傾向よりも、
各々が自分の内的な動機に従って生み出される持続的な交流を、
相手にとって意味あるものに結び付けていく

そういう手仕事を、僕は信じている

人間の活動対象とする作業療法は、
自分の都合の良いときに計算され反省され、
それを基に設計されるものではない


何よりもまず、
相手の持続的な活動の中に生きられるものだ


いつでも僕らの傍にあって、
活動の中に有機的価値あるものとして、
人と人との間生かされる可能性を持っているのが、
作業療法であって、

僕らが人間活動の中で意識的に使役することにより、
明瞭な刻印成すことができる

そういう根本的な事実を忘れてしまえば、
後には、作業療法の形骸があるばかりだ。


作業療法科学によって意識的に支配しようというのは、
人間活動が、集団的有機的な統一を欠いている
そういう本質的なことへの不安に端を発していると思うのだが、

相手の良さを引き出すという人間性の解放は、
残念ながら、設計図の中にはない

臨床家の常識は、日々の仕事を通して、
こういう意識的に行われる集団的統一への、
不健全さを感じている筈だと、僕は思う。

b0197735_1952622.jpg


[PR]
by hiro-ito55 | 2012-07-23 20:21 | 作業療法 | Comments(0)

違和感を埋めていきたい


ここ一週間ほど、
個人的にちょっとバタバタとしたことが続いて、
ようやく一段落

これまでずっと
僕のことを気にかけて下さっていたPTの先輩から、
うちで働いてもらえないか。』
というお誘いを頂いたのが先週の話。

そして今週、今の職場に退職届を提出し、
来月からは、そちらで働かせて頂くことになりました。

今の職場は、老健には珍しく通所リハビリがないため、
入所リハビリのみの仕事だったけど、
今度の職場在宅の分野


個人的には、
数年間の訪問リハビリの経験があるので、
それほど未知の分野でもないけれど、

実は、
以前の記事でも触れたように、
ここ一年ほど、
ある利用者さんから言われた言葉が、
僕にはずっと引っ掛かっていました

それは、
在宅復帰に向けたケアプランの変更によって、
様々なアプローチが試されていた場面で言われた言葉

あんたらには分からん。
 自分が家に戻ったら、
 あんたらが面倒を見てくれるわけでもないじゃないか。
 だったら放っといてくれんか
。』

それまで何となく感じていたことだけれど、
入所施設の中だけでリハビリをしていると、
利用者が在宅復帰した後のことは、何も分からない

情報としては、
居宅のケアマネさんから上がってくることはあるけれど、
チームの一員として、自分が実際に関与することは当然ありません

でも、在宅復帰を目指している利用者なら、
入所中に、在宅生活を鑑みたプランに変更して、
それに沿って支援を進めていく。

自分たちは、在宅復帰後には実際に関与はしないのに...。

そこに、
対人支援の専門家として違和感を感じていたから、
この利用者さんから言われた言葉に、
正直、ドキッとしました。

違和感一番感じていたのは、
実は、利用者さん自身だったということです。

だから、
退所前訪問指導加算の算定を条件に、
せめて退所前に実際に利用者宅を訪問して、

そこから責任ある意見を言わせてもらえるよう、
事業所側に働きかけましたが、

僕の力不足で、結局その願い叶いませんでした


今度の職場は、実際の生活の場で、
利用者さんやその家族とも、直接顔を合わせる機会が多くなります。

もちろん、それに関わる他の専門職の方たちとも。

そこで、一専門家としてもう一度、
少しでもこの違和感埋めていくお手伝いができるような、
そんな仕事の仕方をしていきたいと思うのです。

b0197735_1341211.jpg


[PR]
by hiro-ito55 | 2012-07-21 01:47 | 作業療法 | Comments(2)

僥倖


人生とは不思議なもので、
自分が苦しいと感じるときほど、
はっきりとしたというものが見えてくる。

そういう出会いというものが、必ずある

それは、
苦しいときほど、人は本当に自分に謙虚になれるから、
本当に自分に素直になれるから、
なのかもしれません。

振り返ってみると、
人生とは、生き続ける限り、
その繰り返しであるように思えてきます。

これは、とても不思議なことです。


余談ですが、
この歌と出会ったのもまた、
その出会いのひとつです。









[PR]
by hiro-ito55 | 2012-07-17 01:02 | 哲学・考え方 | Comments(0)

コガモ、危機一髪!


なんだか、こういう映像見ると
ほっこりと優しい気持ちになります。

水鳥だから、水を入れると浮いてくるんですね。
八羽のコガモみんな無事みたいです。









[PR]
by hiro-ito55 | 2012-07-15 18:58 | 動画 | Comments(0)

宿命について


世界で通用する人材育成する、

大学などの教育機関を中心に、
こういうことが盛んに言われ出したのは、
ここ10年ほどの出来事ではないかと思います。

確かに、人は元々、
色々な可能性を持ってこの世に生まれてくるもの。

幼い頃から経済学死に物狂いで勉強すれば、
ビル・ゲイツになれるかもしれない。

或いは、
小学生ぐらいから野球一筋に打ち込めば、
イチローのような大選手になれるかもしれない。


大人になっても、
自分の掲げる抽象的な理想に酔いしれて、
現実のことが眼中にない人を 『夢想家』 と呼びますが、

閉塞感に苛まれている時代の反動でしょうか、
今の時代は、大量の夢想家を作り出そうとしているように感じます。


大人とは、
自分の世界を、自分の言葉で語れるようになった人
と思うし、

成長とは、その過程を指すものだと思います。

今を生きるとは、
彼はいつでも彼自身であり、
他の人で在ることはできないという実感

そういう現実
それとに向き合い、今を懸命に処して
自分というものに、確かな輪郭を与えていくことであり、

そしてそれを
人は 『宿命』 と呼ぶのではないでしょうか


けれど、
誰もが自分の宿命自覚して生きているわけではない
と思います。

宿命とは、『命を宿す』 と書きますが、

命を宿すためには、
誰かと比較したり、或いは自分の過去と比較したりして、
相対的に自分を捉えるのではなく

自分のしたいことやるべきこと、そして自分にできること
そういう現にある自分の経験と直に向き合うことで、

人は初めて、
自分の人生に命を宿すことができるのだ、
と思います。

そしていつかそれが、
自分というものの歴史だ気付いたとき、

歴史とは、
一人一人の人間の在り様にこそ、生きて在るもので、
けして自分の外にはないということに気付きます


歴史とは、現にある自分の経験と直に向き合って
自分というものに、確かな輪郭を与えていく

そういう、命を宿すことへの絶対的な信頼
言わば、宿命の別名であるに違いない。


けれど、
ただ直向きに現実と向かい合って処していくことは、
たいへん難しい

また、
誰にでもできることではないし、
利口なやり方でもない

特に、
現実のことが眼中にない夢想家や、
何でも比較したがる相対主義者にとっては、
忌避すべき姿勢であるかもしれない。


志は大きく持たなければならない』、 『隣の芝は青い
確かにそうかもしれないが、

空想比較もされないバカは、バカなりに完璧である

自分の人生に命を宿すためには、比較空想していてはダメである


そう思えて初めて、
人は自分の今を懸命に生きることできる
己を捨てて、現実の経験と直に向き合うことできる

そういう姿勢で満たされる人にとっては、
また、後悔や反省などは一番無意味で、縁遠いものになるでしょう。


人生を我が物にできた人は、
どんなにちっぽけと思えるものでも、
自分の宿命しっかりと見定めてこれとはっきり向き合えた人

そういう人は、
偉人であっても、僕らのような凡人であっても、
偉大であると思います。



   今までは私は天ばかり見てあこがれていた。

   地のことを知らなかった。全く知らなかった。

   浅薄なるアイデアリストよ。今よりは己れ、地上の子たらん、

   獣のごとく地を這うことを潔しとせん、

   徒(いたずら)に天上の星を望むものたらんよりは。
                  

                     ―田山花袋―


b0197735_1655389.jpg


[PR]
by hiro-ito55 | 2012-07-10 17:27 | 哲学・考え方 | Comments(0)

生きとし生ける物へ


久しぶりにこの曲を聴いた。



いい歌だとずっと思ってたけど、

歌詞の内容深いだけに、
その表現したい気持ちをここまでにぶつけられると、
心を揺さぶられる





[PR]
by hiro-ito55 | 2012-07-08 00:07 | 音楽 | Comments(0)

重要なのはThrough-put


哲学と実用性』 でも少し触れたことですが、
僕らが関る作業療法のことでもいい、
或いは哲学でもいい、
概論的なこと一般論的なもの役に立たず
具体論的なものこそ役に立つ

僕らは少し人生経験を積むことができて、
自分のやることに自信がついてくると、

物事を、ついついそのような
実用性を尊重した形で捉えがちです。

けれど、そもそも
概論一般論具体論は、どちらがいいとか悪いとか、
そのように、対比させて同列に論じるものではないと思います。

もっといえば、こういう問いの立て方自体
間違っているのではないかと思うのです。


現実生活において、特に仕事の上では、
白か黒かはっきりしろと、
具体的に迫られる場合も多いものですが、

現実に待ち受ける困難乗り越えるためには、
一般論・抽象論Input)だけで考えたり、
具体論Output)だけで行動したりするのではなく、

重要なのは、自分自身の形で消化すること
その在り方自体を自分に問う姿勢Through-put)、
なのだと思います。

現実にある困難は、問題を自分のものにしていくことで、
ひとつずつ乗り越えていけるのだし、
その形を問うことにおいて、人間の知性の努力は最大であるべきです。

ところがそれを、概論具体論かのところで拘ってしまうと、
頭の中で帰納法演繹法の間を、行ったり来たりするだけ
ということになりかねません。

一般論概論本に書いてある
けれど、それをそっくりそのままの形で、
仕事や人生に適用させることができないのは確かです。

僕らの現実は、
抽象的な世界そのままに在るわけではないのですから。

でもだからといって、
具体論すぐに提示できるのがいいとも限らない

僕らはよくできた計算機でもなければ、
脊髄反射に従って生きているわけでもない。

だから、
この問題には具体的にこう対処する
という 『形だけ』 で終わってしまっていたとしたら、
それは問題です。

これは受け手の問題でもあるのですが、
例えば、介護職員が、
リハの先生が具体的にこうだと言っているから、こうしよう。』 
と思って、
その通りのことを真似していくだけだとしたら、
せっかく具体論を提示したとしても、この場合は失敗です。

いくら具体的な答え提示しても、
相手の 『何故、そうなのか』 という
考える機会を奪ってしまっては、
結局、他の場面での応用が効かないし、その先が続きません

だから、
影響力のある人ほど、
こういうことには気をつけていなければなりません


僕らは、
物事を比較するという考え方に慣れてしまっています

しかし、
概論具体論どちらがいいのか、と比較するのではなく、

そういう比較思考のパターンから
一歩抜け出して考えてみることも、大切です。

例えば、
人の思考行動というものは、
空間的であって、時間的であるものです。
これは、どちらが欠けてもダメです。

相手がいる場合は、
お互いの間で交わし合うという、空間上でのやり取りがありますし、
また、後から分かるといったような、時間的な成熟があります。

そして、正しくそういう過程において、
問いや行動の形は変化していきます。

もっといえば、
いかに確信を持って我がものにしていけるか、という
広がりと深みを持った運動に、変化していきます。

そしてそれが、自分だけでは収まりきれずに、
自分から相手にバトンタッチされて、成熟していくこともあるのです。

そのように考えれば、
現実に目の前で起こっている困難乗り越えるために、
自分に対しても、相手に対しても、
よい問いの仕方、よい投げかけ方をすることが、
もっとも良い答えの出し方だ
ということに、気付くと思います。

重要なのは、
一般論・抽象論Input)だけで考えたり、
具体論Output)だけで行動したりするのではなく、

自分自身の形で消化すること
その在り方自体を自分に問う姿勢Through-put)、
なのです。

そのためには、
抽象的な問いから入ろうが、具体的な問いから入ろうが、
そんなことは大した問題ではないということが、分かると思います。

b0197735_1225369.jpg


[PR]
by hiro-ito55 | 2012-07-05 01:51 | 哲学・考え方 | Comments(0)

今や私は自分の性格を空の四方にばら撒いた。
 これからこれらを取り集めるのに、骨が折れることだろう
。』

記憶が定かではないですが、
これは確か、フランスの詩人、批評家
シャルル・ボードレール言葉であったように思います。

彼の言うように、
人の感受性とは、そういうものだと思います。

感受性は、『』 と置き換えてもいいかもしれない。


僕らがなぜ音楽感動できるのか。
それは僕らのが、詩や音楽に共鳴するからです。

でも、詩人音楽家は、
なにも新しい言語や音符を発明するわけではない

で使われる言語自体は、僕らが日常使っているコトバだし、
音符自体も、音階で定められた五線紙の上にあります。

だとすれば、
詩や音楽の材料は、既に僕らに等しく与えられているもので、

詩人音楽家は、
それらを組み合わせて、僕らに感動を与えることのできる人達で、

そういう、
言葉や音に対する鋭い感受性と、創造性を持っている

通常、僕らは聞き流してしまうだけの言葉や音
リズムを与えて命を吹き込むことを、創造と呼ぶならば、

彼らは、自然界に当たり前のように存在している
言葉といった詩や音楽の材料を拾い上げ、
僕らの注意を、そちらに向かわせるように導いていく
そういう人達だ。

そして、
普段はさしたる関心もなく通り過ぎる
当たり前の言葉や音命が吹き込まれ
それらに僕らの感受性共鳴するということは、

僕らの心もまた、
自然にある言葉や音と繋がっている

ということを証明している。


感動は、
なにかの拍子に、その繋がりにパチン火が付くようなもので、
感動したいという、自分の意志が齎す産物ではない

僕らが自分の意志でもって、
全てコントロールできるように思っているは、
実は、そのような自分だけの所有物のようなものではなく、

心の断片は、僕らの外にいつも散りばめられていて、
創造によっていつも、ある形導かれる

感動点火作業は、自分の意志ではなく、
それはいつも、何かのきっかけで齎されます。

創造によって導かれ、
いつも向こう側からやってくるのです。

点火によって流される電流が、
心の形を、物凄い速度変えていくならば、

その運動の中においては、
その形を整えられるのを、ただ待つしかない

そういう仕方でもって導かれたは、
最早、自分の完全な所有物とは言い切れない

感動共鳴する経験を通して、僕らは、
自分のが、自分の意志離れることもあること、
自分の中だけにある独占的な所有物ではないことを、
教えられます。

ならば、自分の心を 『我が心』 と呼ぶのは、
随分とおこがましいことのようにさえ、思えてくるのです。


冒頭に挙げたボードレール言葉は、
こういった心や感受性の本質への覚醒
或いは自覚の瞬間でありながら、

それを見抜いてしまった自分は、
これから創造という手段でもって、
それらをある形導いていかなければならない

そういう、ある種の自分の運命と呼ぶべき困難さの自覚と、
これと向かい合う決意の言葉に違いない。

僕はそう思います

b0197735_23403858.jpg


[PR]
by hiro-ito55 | 2012-07-03 00:10 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー