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ナースコール


先日、多床室であった話。

Sさんには、Aさんという同室者がいます。
そのAさんが夜中に 
痛い、痛い、』 
ベッドの中でずっと呻いていました

心配になったSさんは、起き上がって歩いてAさんの枕元まで行き、
どうしたの。大丈夫?』 と気遣ったとのこと。

訊くと、
腰が痛くてたまらない。』 
というAさんからの切実な訴え

だから、動けないAさんに代わって
Sさんは脇にあるナースコール押してあげた

すぐに夜勤のナースが来て、処置をしてくれたけど、
Sさんはその駆けつけたナースから、感謝されるどころか、
ダメじゃない、一人で歩いたら! 転んだらどうするの!』
と、逆に激しく叱責されてしまいました。


リハビリの合間に廊下の椅子に腰掛けて、
その時の出来事を、笑顔で話してくれたSさん

しょうがないよね、怒られても。
 みんな心配してくれてるんだから
。』 と。

自分はリウマチで、体のあちこち痛むはずなのに、
そんなことには頓着せず、
目の前に困っている人を見かけたから、
自分でできる方法で、気遣ってあげた


とても人間らしい行為です。

けれど、
人として当たり前のことをしたにも拘らず、
怒られてしまった。


その一方で、
これは他の多床室での話。

昼間体調の悪かったYさんという男性が夜中にが上がり、
眠れずに魘されていました

クーリングをして暫く様子を見ても、はなかなか下がらず、
ベッドの上で苦しそうにされていました

そして、
午前零時すぎ同室者のDさんからナースコールがあったため、
夜勤のナースが訪室。

すると、
コールを押したDさんは、駆けつけたナースに向かって、
うるさくて眠れないから黙らせろ。』 と、ご立腹

ナースがYさん体調等を説明するも、Dさんは聞き入れず、
その後もナースコールを頻回に押しては、
同じ主張を、明け方まで繰り返したそうです。


かたや、同室者を気遣うSさん
一方で、他者の苦しみより、
他者の行動が自分を眠れなくさせている、なんとかしろと、
被害的立場で苛立ちを訴え続けるDさん

そして、自分のしたことを咎められても、
いつまでも自分の訴えに固執するのではなく、
けっして感情的になったり、怒ったりすることもなく、
しょうがないね。』 と、受け入れることのできるSさん

そんな、
とても寛大な心には、頭が下がります

こういう人を目の前にしたとき、
例え、それで転んでケガをしたとしても、
僕らに、それを責める資格があるだろうか

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by hiro-ito55 | 2012-06-29 19:00 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

融合という軸


最近ではあまり強調されなくなりましたが、
全人間的な復権を目指す』 という概念

つまり、
再び人間として相応しい状態に戻る』 ことが、
リハビリテーションの理念であることは、
周知のことだと思います。


元々、この概念自体
自分主体的存在として規定し、
それに対する障害客体として捉えることで、
主体―客体』という対立的構図を作り出し、

自分から剥奪されたものを、もう一度取り戻そうという努力によって、
主体的存在の回復を測る
という西洋哲学的な思想背景にしています。


実際、高齢者のリハビリに携わってきて、
本当にこの概念に沿ったリハビリが、日本人に合っているのかどうか
疑問に思い始めたのが、約4年前。

しかし数年前からは、
世間でも 『闘うリハビリ』 なとど、よく言われています。

確かに、
障害周囲の環境克服するべき客体として捉え、
主体である自分それを乗り越えていく

そのように規定した上でリハビリを行うことは、
短期的にみれば、確かに効果的でしょう。

しかし、長期的にみた場合はどうなのでしょうか

受傷してから10年20年も、
或いはそれ以上の人生が残されている場合
実際、そういった患者や利用者が多いのですが、

そういった場合、
いつまでも障害闘うべき客体として、
自分という主体から切り離して捉えたまま
これに挑み続けることができるでしょうか。

その間にも、高齢者でなくても、
加齢とともに段々と心身は衰えていきます

もちろん、ずっと頑張り続けて
それを生き甲斐にしている人もいらっしゃいますが、

対人支援という立場から、その人のQOLというものを考えると、
復権』 だけでは十分とは言えない気がします


時間の経過とともに必要なのは、
闘う』、『克服する』 というよりはむしろ、
自分と、障害や周囲の環境とが融合して
ともに歩んでいくいく
という姿勢で、

そういう姿勢が、
その人の人生を、広く支えていくのではないでしょうか。

そして、
それを援助していくのが、僕ら作業療法士の役目ならば、

僕らは、
無闇やたらに 「頑張れ」 と利用者を励ましていくのではなく、
単に、障害闘うものや克服すべき対象として捉えさせるのでもなく、
ましてや利用者が喜んでくれればそれでいいというものでもなく、

僕ら自身にも、
利用者をそのような方向へと導いていく姿勢や、
支援の方法必要とされるのではないでしょうか。

そして、
維持期リハや、高齢者医療携わる者にとっては、
それこそが、真に問われる資質であるように思います。


少しだけを言えば、そのような支援の姿勢は、
いきなり身に着くようなものではないので、
ベースとしてその人に備わっているほうがいい。

幸い、多くの日本人には自然や周囲と融合していくという資質
egoというつまらない自我意識を自分と見誤らない資質があり、

周りのこと自分のことのように感じて
それを取り込んでいけるような、感受性が備わっています。


そういった、
日本人に元々備わっている良い資質引き出しながら
これを活かしたリハビリはできないか、

日本の、或いは日本人の文化や歴史勉強しながら、
今でもその答えのヒントを、ずっと探し続けています。

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by hiro-ito55 | 2012-06-26 16:41 | 作業療法 | Comments(0)

放射線ホルミシス


昨年の福島第一原発事故以降、世間を賑わしている放射線量

震災がれきを題材に、
以前の記事でもそのことについて少し触れましたが、

実際のところ、放射線が人体に与える影響如何ほどなのか
年間1ミリシーベルトの被曝とは、どういうことなのか
素人の僕には見当がつきませんでしたが、
ある雑誌で、興味深い記事を見つけました。

その記事の著者「史実を世界に発信する会」事務局長
茂木弘道(もてぎひろみち)氏

記事の中で彼は、『放射線ホルミシス』 を論拠に、
放射線量が1ミリシーベルト以下でなければ安全ではない
現在のマスコミが騒いでいることは、『狂気の沙汰』 だとしています。

放射線ホルミシス効果とは、
高線量の放射線では、生物に重大な害を与えるが、
低線量の被曝では、害がないばかりか、
生物にとって、逆に良い影響を与える効果がある
というもの。


以下、彼の論点を纏めてみました。

・福島市では震災以降、バラや枯れたサボテンなど、
 植物や農作物が、異常に成長している事例がいくつも報告されている。
・これは、ミズーリ大学名誉教授トーマス博士が提唱した
 『放射線ホルミシス効果』である。
・放射線ホルミシス効果は、世界中から放射線医学の専門家が集まる
 1985年のオークランド会議で、その説が認められている




放射線ホルミシス効果の例

・地上の三百倍もの宇宙放射線を浴びる宇宙飛行士の健康チェックを
 十年間行なったところ、宇宙に行く前よりも帰ってきたときの方が、
 一様に健康データが良くなっていた

・広島、長崎の被爆生存者(母数十万人以上)の追跡調査を行なったところ、
 被爆者の癌や白血病の発症率、寿命、子供への影響など、
 全ての統計において、年間100ミリシーベルト以下の被爆者は、
 一般平均値よりも数値がよい

・世界八つの核施設で働く被曝労働者の癌死亡率を調べたところ、
 いずれも年間100ミリシーベルト以下の被曝労働者のほうが、
 全く被曝していない労働者よりも50~90%も死亡率が低い




放射線量に関する誤解

・「放射線は体に悪い」とされている論拠は、
 ICRP(国際放射線防護委員会)が採用している「LNT仮説」にある。

・LNT仮説とは、1927年に米国のマラー博士によって提唱された仮設で、
 オスのショウジョウバエに高線量の放射線を当てたところ、
 二代目、三代目に奇形などの異常が確認されたことから、
 その被害の度合いは、放射線量に比例するとするもの。

LNT仮説では、高線量の実験は行なったが、
 低線量の実験は行なっておらず、「恐らく放射線量に比例するであろう」
 という、あくまで「仮説」にすぎない

・ICRPは博士のこの仮説を採用し、「どんな放射線も有害である」と訴え、
 世界中に放射線の恐怖を印象付けた

・「人体に影響を与えない放射線量は年間1ミリシーベルト以下」とは、
 ICRPの設けた基準で、科学的根拠はない

・この基準は、どこまで放射線量を減らせるかという可能性に対し、
 「年間1ミリシーベルト以下」と言っているのであって、
 それ以上の放射線が人体に有害であるという根拠はどこにもない

・我が国では、1954年に起きた第五福竜丸事件以来、
 放射線の恐ろしさが広く知られるところとなったが、
 事件の半年後に、被曝によって亡くなったとされた乗組員の死因は、
 実は被曝が原因ではなく、売血輸血による急性肝炎であった。

・また、第五福竜丸が被曝した付近のマーシャル諸島の住民や、
 他の乗組員には、肝機能障害は一切認められなかった。

・昨年、東京都世田谷区の民家から高線量が検出され、
 マスコミがその恐怖を騒ぎ立てたが、その後の調査で、
 線量の原因は床下に保管された放射線ラジウムの入ったビン
 (夜光塗料の原料)であったことが判明。

・専門家によれば、この家の住人は年間30ミリシーベルトの線量を
 浴び続けている筈だが、50年間この家に住んでいる女性は健康で、
 人体への影響は確認されていない。

・また、大手マスコミは国民に不安を煽り立てておいて、
 その後の調査結果については、報道していない




このような事実を報告した上で茂木氏は、
「事実はどうあれ、放射能は絶対に悪」という前提に立っている限り、
 物事は何も伸展しない。
「別な意見もあるようだが、本当はどうなのか」
「根拠となっている説は古いようだが、最新の情報はどうなのか」
 と調べる姿勢がいまの日本に一番必要

としています。

こちらは放射線量に関しては素人なので、
ICRPが採用している「LNT仮説」基準の妥当性や、
放射線ホルミシス効果の信憑性については、
依然、疑問が残りますが、

少なくとも、
徒に国民の不安煽り立てる大手マスコミ情報を
そのまま信じるよりは、いくらか説得力のある報告です。







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by hiro-ito55 | 2012-06-21 00:10 | 社会 | Comments(0)

今を懸命に処すること


以前の記事の中で、
以下のようなことを書いたことがあります。


過去の経験を深化し、拡大し、具体的なものにしていくために、
人の経験があるのだと考えてみる。

人生経験が豊かになるほど、
過去の確信は、より具体的になってくると考えてみる。

確信は、理想の卵だけれど、
一般的に言われる理想は、みんな未来に置いてしまう。

理想を未来に置くから、
人は過去の経験を、未熟なものだったと考えてしまいがちで、
過去の確信を、いかに深化させていこうかと、
そういう努力の下に自分の経験を捉えてみる
ということには、なかなか思い至らない。

言語化できなかった、或いは具体性を持たなかっただけで、
自分の過去の確信を、自分の経験によって深めていくのだと考えれば、

人は自分のひとつひとつの経験に、
もっと謙虚になることができるのではないかと思うのです。



若い頃を中心に、人は
あの時、ああすればよかった、こうすればもっと違っていた
などと考えがちですが、

自分の人生について振り返って、無闇やたらに反省することは、
あまり意味のないことで、

そんな反省をしているがあったら、
今を懸命に処していくことに、
もっと真剣であるべきだと思います。

例えそれが完璧でなくても、
今を処すことのひとつひとつの積み重ねでしか、
僕らは自分の歴史というものを
未来に繋げていくことは出来ない

今を懸命に処して生きる人は、
それが、自分を肯定するという、
健全な精神の働きなしでは成し得ないことを、知っている。

無闇やたらな反省は、結局、
自分自身の経験を、
現在の自分という、歴史的審判者の視点でもって、
過去を見下すようなもの

そんな、自分は常に進歩し続けているという病的な盲信
僕は信じない

現実に処することに手いっぱいな人に、
そんな盲信はほとんど意味をなさないし、
無縁なものでもあると思う。


そんなふうに考えるのも、
過去に小林秀雄以下の文章に触れて、
それを思い出したからかもしれません。


*注):文中の『歴史』を『人生』に置き換えると、
    分かり易いかもしれません。


歴史から、将来に腰を据えて逆に現在を見下す様な態度を学ぶものは、
歴史の最大の教訓を知らぬ者だ。

歴史の最大の教訓は、将来に関する予見を盲信せず、
現在だけに精力的な愛着を持った人だけが
まさしく歴史を創って来たという事を学ぶ処にあるのだ。

過去の時代の歴史的限界性というものを認めるのはよい。
併しその歴史的限界性にも拘らず、
その時代の人々が、いかにその時代のたった今を生き抜いたかに対する
尊敬の念を忘れては駄目である。

この尊敬の念のない処には歴史の形骸があるばかりだ。
現在は将来の予見の為に犠牲に出来る様なものではない。

予見とは実際には寧ろ
遅疑なく現在に処そうと覚悟した人々だけに訪れる
光の如きものである。

歴史は断じて二度繰返されるものではない。


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by hiro-ito55 | 2012-06-17 17:19 | 哲学・考え方 | Comments(0)

満たされるモノ


90歳代の利用者さんから教えてもらった言葉

人は奪い合えば足りないが、譲りあえば余る。』


素晴らしい言葉だと思う。

もそれは私のモノだと言えば、
いつまでも足りない気持ちにさせられるけれど、

お互いを思いやるような心持ちで臨めば、
それはいつでも満ち足りている

同じ物や心でも、
分け合うこと不安安心に変わったりする。

たったひとつしかないモノでも、
十分に多くの人を満たすことができる。

これはひとつの真理だろうし、
その真理は、数多の経験が、
きっと、自然とその人自身に語りかけてきたものに違いない。

そんな凝縮された人生経験に裏打ちされて、
しっかりと支えられているように思えてきます。


有名な人だから必ずしも偉いのではなく、
偉大な人はいつでも、僕らの身近にいる

ふとしたきっかけで、
そんな当たり前のことに気付かされます。

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by hiro-ito55 | 2012-06-15 19:45 | 日本人 | Comments(0)

増え続ける有料老人ホーム


有料老人ホームの数が急増している。⇓⇓
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        (内閣府消費者委員会資料より抜粋)


現在、
全国で特養入所者約44万人
有料老人ホームとその他の施設・居宅系サービスでは約50万人
高齢者向けバリアフリー住宅では約10万人いる、
とされています。

また、平成20年10月現在で、
特養、老健、介護療養型医療施設
いわゆる介護保険3施設が、
全体で約83万人入所者を抱えています。

その中で、
特養入所申込み者数は、約42万人(平成21年12月現在)。
入所者数とほぼ同数です。

特養以外にも、老健や介護療養型医療施設に入れない人が、
恐らく相当数いるものと思われます。

有料老人ホームの数が急激に増加したのは、
平成18年の老人福祉法改正で、
老人ホームの定義が緩和された影響もあるかと思われますが、

特養の入所者数と入所申込み者数が、ほぼ同数である現状を鑑みても、
この急激な増加は、
老人ホームへの需要の高まり自体が進んでいる影響推測できます。

そして、今後この傾向
しばらくの間は続いていくのではないかと考えています。

例えば、今年の介護保険法の改正で、
老健在宅復帰支援機能の強化型が示され、
その基準を満たした老健に算定される加算が優遇されることから、
今後は、老健の生き残りをかけた競争激化していくでしょう。

しかし、
以前の記事でも触れたように、
今回の改正では、見せかけの在宅復帰増える可能性がある
という問題点もあります。

それとは別に、
在宅復帰の見込みが低いと判断される対象者
重度の要介護者や、家族からの介護支援が困難な対象者など)は、
老健への入所を敬遠されていく可能性が高まることも、
今後の問題点として浮かんできそうです。

つまり、利用者の差別化を進める
そういった動きの温床になる可能性があるということですが、

恐らく、個人的には、こういった人たちを対象に、
今後の老人ホーム需要が増えていくと予想しています。


また、現状をみると、
老人ホームの「設置主体」は株式会社民間企業が中心です。

老健や他の施設を抱える医療法人も、老人ホームを新設して、
そこに在宅サービスを展開させていくという動きも出てくるでしょうが、

問題は、そのような営利目的複合型抱え込み型経営というものが、
サービスの偏りを生み出すのではないかということです。

本来ならば、同じ30分未満のサービスであれば、
訪問看護ではなく訪問介護でも十分であるはずが、
算定できる加算の違いから、訪問看護優先的に配置する。

利用者にとって本当に必要なものではなく、
加算の大きいものをサービスとして提供するのであれば、
それはサービスの質の低下をも招きかねません。

いずれにしろ、このような流れの中で、
差別化も含めて、利用者が喰い物にならないような在り方
今後、検討していくべき課題になっていくと思います。


*関連記事高齢者在宅生活の方向性
      『退所後、在宅復帰できるのは...
      『在宅復帰支援<家族のレスパイト
      『介護保険施設に対する厚労省の姿勢







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by hiro-ito55 | 2012-06-12 01:58 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

現代思想について思うこと―その2 ―


2.確率論へのすり替え

科学者自身がそうであるように、
物事を確率論的考える癖は、相対的価値観とともに、
現代人にとって、身近なものの捉え方です。

それは、例えばこんなことです。

去年の記事 ある夢の話 で、
祖母が亡くなる前日に、
僕の夢枕に立った経験について書きました。

確率論にすり替えるとは、
この話を聞いて、これを正しいか、正しくないか
という問題に、置き換えてしまう
ということです。

それはどういうことかというと、

なるほど、あなたの見た夢は、後から振り返ってみれば、
確かに予知夢と呼べるようなものだったかもしれないが、
同じような夢を見て、外れた場合も世の中にはたくさんある

そのたくさんあるケースの中から、あなたの見た夢だけを取り出して、
帰納的にそれが広く一般にいわれているような、予知夢だと判断するのは、
合理的に見て、正しいわけではない

確率論者は、このように主張します


しかし、
人は、自分の経験した事実を、
その経験のままに受け取ることでしか、
現実というものを積み重ねていくことはできない

現実に生きるとは、そういうことで、
それが最も重要であるにも関らず、
経験したその姿のままに語るところでは、受け取らない

受け取らないで、
他のケースと比較し、判断基準外部に持っていって、
それが正しいのか、正しくないのかという新たな問題
すり替えてしまうのです。

そういう回りくどいやり方でもって、
人間の経験を図ろうとする


現実経験する僕らにとって、
正しいか、正しくないかが問題なのではなく
そういう経験をする人間の精神肉体というものが、
いかにも不思議である。

しかも、
この不思議驚かずにはいられないのもまた、
現実の自分自身である。

そういうことが問題なのです。

そういう二重の現実に包まれた只中にいれば、
人間には、それを素直に受け取ることでしか、他にそれを知る術はなく、
合理的な解釈など、甚だ無力である。

人間の経験は、
そういうことを教えているのであって、

それを確率論的問題として捉えるようなすり替えは、
本物を作ろうとして、
トルソを作ってしまうようなもの
かもしれない。

そんなふうに思います。


しかし、
現実の経験そのまま語ろうとすれば、
それはその人の主観であると捉えるのが、大抵の人の反応です。

だから、
観念論者ますます意固地になるし、
科学者は、
ますます人の経験というものを、バカにするようになるのです。

観念論者科学者も、
やれそれはオカルトだ、非科学的だ、唯物論だと、
争ってはいるけれど、

何れにしろ、誰もその経験について語ること
真剣に受け取ろうとはしない

みんな、
それが正しいのか、正しくないのか、という新たな問題
すり替えてしまっている。

当の本人たちは、
すり替えてしまっているということにさえ気付かない

そして、
それにはっきり気付いているのは、
一瞬で消えてしまう何かを、永遠の何かに置き換えようとする、
そういう鋭い感覚でもって、
現実向かい合っている芸術家だけかもしれません。

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by hiro-ito55 | 2012-06-08 00:10 | 哲学・考え方 | Comments(0)

現代思想について思うこと―その1―


現代思想については様々な分野から
専門書解説書などが出回って、
色々な方面からその検証なども行われているようですが、

素人なりに考えてみれば、今のところ、

1)ものごとの意味、或いは価値について相対的に捉えること
2)事象や現象を確率論にすり替えて捉えること


のふたつに、
僕は、現代人の思想の特徴というか、
深い潮流のようなものが、あるように思われます。

僕らもまた、現代人の子であれば、
どんな職業であれ、
けしてそういった思想の影響から、
無関係でいられる筈はないと思います。



1.相対化

ものごとを、相対的に捉えること自体
けっして悪いことではないのですが、

ポストモダニスト
と呼ばれる人たちがそうであるように、

相対的に捉えることが、
物事の、或いは人の価値を最終的に決定する
と考えていれば、それは問題です。

いわば、相対化を絶対化してしまうような考えです。

例えば、今、目の前にAB2本のボールペンがあるとします。
これを、50人なら50人、集まった人たちの面前に置いて、
その人たちに実際に使ってもらうとします。

そして、
軽い握りやすいなど様々な理由で、Aの方が45人に使われて、
B5人しか使ってもらえなかった場合を考えてみます。

この場合、価値のあるのはAのボールペンで、
多くの人に使われたことが、その価値を立証しています。

とすれば、
初めからボールペン自体価値があったのではなく、
その価値は、
どれだけ多くの人に使ってもらえたかで決まる
ことになります。

言い換えればこれは、
ボールペンの価値は、ボールペンに内在しているのではなく、
外部の判断に委ねられるという考え方です。

AとB(或いはそれ以上)を対比させて、
それぞれの価値を決定する。

これが、相対的価値観です。
僕らの仕事でいえば、これを提供したら利用者が喜んでくれるから
 という動機付けだけで、リハやレクをするようなものです
。)


これに沿って見れば、
例えばグローバリズムというものも、
この相対的価値観の延長上にあることが分かります。

Aさん
町工場の経営者で、工作機械の部品を作り、
顧客は数十人で、営業範囲は東京都内。


Bさん
自動車メーカー社員で海外赴任も多く、
世界中で年間何百万台も車を売るため、
毎日のように各国で商談を纏める仕事をしている


相対的このふたつの仕事を見たとき、
世界基準を標榜する現代においては、
どちらが価値のある仕事であると、判断されやすいでしょうか。


こういう相対的な考え方は、
ある意味、非常に分かり易いものであることは確かです。

まして、世界基準の導入を推し進める現代においては、
この相対化によって、
物事の意味や価値が支えられていることも確かです。

しかし、
相対的に物事を見ることも、
確かにそのものの価値を測るひとつの方法には
違いありませんが、

物事の価値を決めるのは、それだけではありません

例えば、冒頭のボールペンの話でいうと、
その何の変哲もない一本のボールペンが、
実は、亡くなった祖父の形見や、
大切な人からの贈り物であった場合はどうでしょう。

たった一本の、多くの人に選ばれなかった場合のボールペンも、
そういったことで、そのボールペンの持つ価値は違ってきます

そうであるならば、そのボールペンは、
多くの人に使われる以前に、
つまり、外部にその価値の判断を委ねる前に、
既にその価値が、内在していたことになります。

手元にある同じ千円でも、人によって
或いはその使われ方によっても、意味や価値が異なるように
(お金とものとの交換という行為だけで見るなら別ですが。)、

例えそれに汎用性がなくても、
それが千差万別であっても、
そのもの自体が既に持っている価値というものがある
ということになります。

しかし、相対的な価値観では、
そういったことを見逃してしまいます

相対的な価値観は、
ものとものとの 『間』 にある関係性
に注目した価値観
であるからで、
そのもの自体を見つめるわけではないからです。

ここに、
僕らが物事についての意味や、
価値について考える際に陥りがちな、
大きな落とし穴があるように思われます。

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by hiro-ito55 | 2012-06-05 01:22 | 哲学・考え方 | Comments(0)

哲学と実用性


哲学についてあれこれ考える際に、一度は疑問に思うことに、
哲学は役に立つのか』  『哲学に実用性はあるのか
実用性が生じた時点で、それは哲学ではないのではないか
といった、実用性に関する疑問があります。

実用性というものを、どう定義するかは人それぞれで、
それによっても、解釈に違いが出てくるとは思いますが、

ここでは広く一般的な意味で、
自分の生活や人生に、実際に役に立つか立たないかという観点
と、定義しておきます。

そのほうが、
実用性というものを観念的に捉えないで済むと思います。


確かに、
哲学実用性があれば、
それはむしろ、実学と呼ぶべきものになってしまうかもしれません。

しかし、
哲学に具体性というものがないのなら、
哲学は単なる観念です。

別の言い方をすれば、
それは、形而上学的な空想だと言ってもいいかもしれません。

例えば、
イチロー野球に対する哲学を持っていないと言えるでしょうか。

彼にとって野球をするということは、
具体的な哲学を実行する、ということではないのでしょうか。

イチローでなくても、例えば町の職人さんでもそうです。
職人が良いものを生み出すためには、
何よりも、自分に与えられた素材の良さを引き出して、
それを活かすこと
が求められます。

そのためには、自分の技術についてだけでなく、
素材のことを本当によく知っていなければダメで、
優秀な職人さんは、そのことを十分に心得た上で、
腕を振るって仕事をします。

与えられた環境や素材と、自分との間の緊張関係から、
互いが呼応するという形で、良いものが生まれる。

もしそうならば、
例えば漱石の言うような、『則天去私』 という心境も、
職人にとっては、
仕事を進める上での必要十分条件のようにも思えてきます。

だとすれば、
それはもう十分に哲学であると言えるでしょう。

彼らにとっては、
自分の体を道具として使って、野球や仕事を実践する
哲学は、そういった具体性を持ったものになります。

いわば、哲学と人間の行為の間には、
そういう進行的で具体的な関係が、成り立つことになります。


逆にもし仮に、
哲学をそういった人間の営みから切り離して考えれば、
例えば、画家から絵筆絵の具を取り上げることと同じである
のではないでしょうか。

画家からそれらの道具を取り上げてしまえば、
彼の思い描く絵は、単なる彼の頭の中での出来事で、
彼の空想にすぎません。

それは、もはや絵とは言えないでしょう。

とすれば、哲学の価値は、
役に立つか立たないかという実用性ではなく、
自分が具体的にどう表現するか、ということになります。

そしてそれは、
現実の世界の中で、
具体的な自分自身の経験を磨いていくことと同じである
ということにも、気付くはずです。


哲学をあくまで実用性と対比した、言葉の上で定義したいのならば、
自分自身の経験を磨くことは、必要ないでしょう。

しかし、人間の行為の中には、
すぐに実用的と呼べるものかどうか、
判断のつかないこともあり、

それを、観念的にではなく、
具体的にどう表現するかを考える際の、ひとつの指標に、
哲学というものがあるのです。

哲学は、自分自身の経験を磨いていく行為の中で
具体的な形をとって、その人の人生の中で生きてくるものであり、

そこに、哲学の価値というものはあるのだと思います。

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by hiro-ito55 | 2012-06-02 02:03 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー
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