考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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大垣城散策


久しぶりの何も予定のない連休だったので、
何も考えずに遠出天一、サイコ―)をしたついでに、
大垣城にぶらりと寄り道
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別に城が好きというわけではないけど、
予定らしきものもなかったので、ぶらりと寄ってみました。

これは、城の前の公園
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連休中なので、人もそこそこ。

そこを抜けて、
正面にそびえ立つのが、濃飛護國神社(のうひごこくじんじゃ)
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戊辰戦争で亡くなった方を祀るために
創建された神社のようです。
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そして、その護国神社を抜けると、
大垣城

正面の七間多門跡から石畳の階段
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20~30mほど登ると、すぐに天守
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天守脇にあるで見ると、
昔はこんなに広かったようなのに、
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今では、本丸だけが残っているみたいです。
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城よりも、天守を取り囲む森の方が綺麗だったので、
何とはなしに歩いてみる。
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マイナスイオンが出てたかどうかは分からないけど、
たまには、何も考えずにブラブラと歩くのもいいですね。







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by hiro-ito55 | 2012-04-30 21:59 | 日常あれこれ | Comments(0)

知性というものについて


1.Did you know ?

少し前に、このような映像を見つけました。



あらゆるものがものすごいスピード生成されていき、
ごく短時間のうちに陳腐化していきます。

この映像を見て、皆さんはどのように感じるでしょうか。

僕は、知るということについて少し考えました。

この映像で紹介されているような、
あらゆる情報知識量的ものすごいスピード増え続け
それらが急速に陳腐化し続ける世界。

これに不安を感じるのは、
人間の知性というものについて、
少し誤解しているせいなのかもしれません。



2.知性の構造

理性情緒人間の知性ですが、
人間の理性を支えるのは情緒です。

それは、
理性が人間を支えているのではないということで、
僕らの不安は、
これが逆であると捉えているところから来るのではないか、
と思ったのです。


情緒とは、
自明のことを、自明のこととして捉えることのできる人間の知性です。

つまり、
当たり前のことを、当たり前のこととして捉える力のこと
なのですが、

物事を当たり前のこととして捉えるためには、
自分自身が納得するという力
働いていなければなりません。

例えば、
知識の上でいくら哲学や科学を知っていても、
それは情報として知っているということであって、
そのままでは、ただの観念です。

それを具体的な形で生かしていくことができなければ、
自分自身を支える力には、なっていかないでしょう。

そのため、そういったに変えていけるように、
情報を、自分自身の経験と照らし合わせていくことが必要なのです。

つまり、哲学や科学は、
自分自身が納得することができて初めて、生きた知性になるのだから、
情緒は、
その知性を支える大地のようなものでなくてはならない。

こういったことが知性の下地になければ、
理性だけで物事を知ろうとするし、
理性だけで自分を支えようとしてしまいます。

世間一般で言われる、いわゆるインテリと呼ばれる人たちが、
何かの拍子に一旦、タガが外れるとガタガタっと崩れてしまうのは、
理性を支える大地が貧弱だからです。



3.生きた知性にするには

情報や知識の量が、人間の知能を決めるのではないし、
いくら量的に情報や知識が増えていこうとも、
自分がそれを本当に良いものと感じられなければ
情報や知識をいくら知っていても、生きてこないのです。

例えば、
今はネットを通じて様々な画像を見たり、
情報を得たりすることができます。

僕は去年、三重県の松坂にある本居宣長鈴屋を見てきました。
鈴屋とは、宣長の終の棲家であり、講演場であり、
彼の一生涯の勉学の場でもあった場所です。

ネットでも鈴屋の画像や、宣長の情報は載っていますが、
実際に自分がそこに立ったとき、
この場所で彼が自分の生活のために薬の帳簿を付けたり、
聴衆に向けて講演をしたり、自分の勉学に励んだり悩んだりした

その200年前の彼と同じ場所にいるんだと感じたとき、
何とも言えない気持ちになりました。

ネットでどんなに鮮明な画像詳しい情報が載っていたとしても、
そういうリアリティーみたいなものは、
実際に見てみないと分からない

莫大な情報や知識をいくら持っていても、
それだけではそういう感動は得られないし、

また、そういうものを感じられなければ、
自分の中で、本当に生きた知性の種とはなっていかないのです。



4.正しいと認められることの方が大事

莫大な情報から正しい答を見つけるよりも、
それが本当に正しいと認められるということの方が、
人間の知性においては、実はとても大事なのです。

人間の知性の労力は、
そういったことに注がれるべきものなのです。

例えば、これは僕の経験ですが、
病院勤務をしていた新人OTの時、
運動学のことをもう少し詳しく知るために
僕は休み時間を利用して、休憩室の図書で調べものをしていました。

それを見て、一人の先輩から、
そんな理由づけはいらないから、そんなことよりも、
 うちは即戦力を求めているんだから、すぐに使えるものの方が大事で、
 そうでないものは、別に学ばなくてもいい
。』
と言われ、
ほとんど徒手的な写真や図解だけしか載っていないような
薄っぺらい本を、一冊渡されたことがあります。

これは随分ひどい話で、
自分のやることが本当に正しいかどうか
それを考えること問題じゃないから、
理由は知らなくても、
技術も人も、使えればそれでいいということです。

これでは、人も知性も、
それを行使する人間の責任感も、育ってはいきません


人間の知性を守るためには、
どういったことが本当に知るということなのか、ということを、
僕らはもう一度、
よくよく考えてみなければいけないと思うのですが、

そのことの重要性
現代では、だいぶ分かりにくくなってきています。

既に40年ほど前に、数学者の岡潔は、小林秀雄との対談
世界の知力がどんどん低下している』 
と、はっきり警鐘を鳴らしていますが、

爆発的に増え続ける情報から、正しい答を見つける
といった労力に、
人間の知性振り回されている現状を、このまま放っておくと、
人間の知性は、どんどん低下していく一方だと思います。







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by hiro-ito55 | 2012-04-26 02:49 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作られるBPSD (後)


利用者に 『今日の日付けは何月何日でしょう?』 
と、スタッフが質問している場面。

老健などの施設で、日常的に見られる光景です。

認知症の利用者とコミュニケーションを取って、
色々とやりとりをしながら、
共有する時間を持つこと自体はいいのですが、

しかし、
何故その質問をするのか
或いは、そのアプローチの仕方は、
その人に対して本当に適切な方法なのか


考えながら実施できている人は、
どれだけいるのでしょうか。


ご存知のように認知症の症状は、
主に、中核症状と呼ばれるものと、
BPSDと呼ばれる症状の、二種類に分けられますが、

今日の日付が分からなかったり、
今いる場所が分からなかったりといった
日付や場所の失見当識や、
少し前に昼食を摂ったこと自体を忘れる短期記憶の低下などは、
認知症の中核症状の代表例です。

そして、
認知症の中核症状を、
本人が自覚することによって生じる具体的な混乱が、
暴言暴力やる気や自信の喪失といった
BPSDと呼ばれる症状です。


まず、
認知症の中核症状自体は、
薬剤を用いない僕らコメディカルには、
直接的には、改善させることが望めない症状です。

そうならば、
そこを不必要に刺激して、
本人に自分の中核症状を自覚させるような行為は、
医療・介護従事者として、厳に慎むべきだと思います。

以前書いた記事と内容が重複しますが、
僕らのそのような行為によって、
やる気や自信の喪失も含めて、
利用者のBPSDを、顕在化させることもあるからです。


例えば、
冒頭にも挙げたような、
利用者に 『今日の日付けは?』 と、職員が質問している場面。

もし、その質問に答えられなかった(間違った)場合、
それは、自分に欠けているものがある(喪失体験)ことや、
間違ってしまった(失敗体験)ことを、
他人によって、改めて自覚させられるということです。

利用者の中には、その原因を、
自分がボケてきているためだと、
はっきり認識できる方だっているのです。


できない体験』 を、
改めて 『できないこと』 として本人に確認させる

そのことに、
やる気や自信の喪失という結果以外に、
それを打ち消すほどの、何か大きな利点があるのでしょうか。

僕が、
入所後、しばらくしてからBPSDが顕在化してくるような場合は、
原因が、薬剤の変更などによるものでないならば、
それが、
施設生活によって作られたBPSDである可能性が高いと思うのは、
職員が中核症状を不用意に刺激している現実もあるから
だと思うからです。

だから、
リハビリやレクリエーションの度に、
認知症のある方に 『今日は、何月何日ですか?』 などと、
不用意に訊くべきではないのです。


しかし、そもそもこういった質問を日常的に行うというのは、
中核症状 = 問題点 と捉える考え方が、
専門職の中でも、まだまだ根強いのかもしれません。

例えば僕の職場では、
BPSDのことを 『問題行動』 と呼んでいる職員が、
リハ職員も含めて、未だに数多くいます

対象となる利用者には、
毎日の記録に 『問題行動の有無』 という形で、
確認したその 『問題行動』 を記載しています。

今日は、何月何日ですか?』 などと質問して、
利用者の中核症状を本人に確認させる機会を提供しながら、
その結果、生じた行動を問題行動として捉える

という二重の苦痛を、利用者に与えているのです。


中核症状それ自体は、
その段階においては、別に問題行動ではないのですから、

それを周りが問題視することで、
本人にもそれを 『問題』 としてフィードバックさせてしまう
というのは、

明らかに、
認知症の方に対する差別的行為です。


その結果、利用者に様々な混乱がもたらされたとしても、
そのことに無自覚であれば、

自分たちが問題を作り出している
ということが分からない


最初から 『問題』 だったのではない
ということが分からない



こういった、
認知症の方に対する間違った接し方は、
早晩、なんとかしなければならない問題だと思うのです。


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by hiro-ito55 | 2012-04-22 23:42 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

作られるBPSD (前)


入所当初元気だった利用者が、
しばらくするとBPSDが顕在化してくるということがあります。

そしてそれは何も暴言暴力という形だけでなく、
自信ややる気の喪失といった形で、表面化することもあります。

こういった場合、
現場としてはハードソフトも含めて
その人の生活環境をよくよく観察して見直し
善後策を練ると思います。

カンファレンスなどを利用して
その利用者に関る各専門職が話し合い、
ケアマネを中心に、
チームとしてどのように支援していくかの確認と、
具体的な見直しのための合意形成が成されていくのですが、

入所後、しばらくしてからBPSDが顕在化してくるような場合は、
原因が、薬剤の変更などによるものでないならば、
それが、
施設生活によって作られたBPSDである可能性が高いということを、
まずはしっかりと受け止めることも重要です。


しかし、
こういう話し合いの場に参加すると、
自分たち職員からBPSDを作り出しているかもしれないと、
自省的に考えられる人もちゃんといますが、
むしろそういう人は少数派で、

反対に、そのことに対して最後まで無自覚であったり、
或いは、ひどい場合には、
自分たちのやり方をただ否定するだけの非建設的な意見として、
被害的に捉えられたりすることがあることには、驚きです。

それも、
認知症は進行していくものだから』 という漠然とした常識が、
各職員の無自覚さに繋がっていたり、
言い訳に利用されていたりする。

そんな姿勢を、強く感じることがあります。

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by hiro-ito55 | 2012-04-19 19:21 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

納得と自己満足は違う


前回前々回と、『納得すること』 について述べてきましたが、
間違えてほしくないのは、
僕が言っている納得するということは、
けして自己満足するという意味ではない

ということです。

そうではなくて、
納得するためには、いかに自分の見識を広げて
深めていけるか問題になるのであって、

それは、
どこまで我を捨てて、自分の経験を捉えていくことができるか
ということに係ってくるということです。

それは、
いかに自分で考えるか、ということであり、
どこまで自分の個性と戦えるか、ということです。

本当に自分自身を納得させるためには、
そういう問いの立て方をすることが、大事なのです。

そして、こういった姿勢が、
学問や自分の人生、物事を知る基本姿勢になる筈なのですが、
これは、自分の経験を相対化することでもないし、
絶対化してしまうことでもなく、

ただ、自分の経験を拡大し、深化させていくということです。


しかし、
こういう重要なことが、実は見落とされやすい

それよりも、観念的で抽象的にものを知ることの方が、
とても高尚な経験であるかのように錯覚してしまう。

自分という、
けして動かすことのできない立場から
一途に物事を知るのではなく、

そこを離れて、俯瞰的な立場から、
システムとして、物事の色々な関係性を探ることの方が、
知としては優秀な経験であるように錯覚してしまう


でも、自分自身の経験というものを考えてみたときに、
例えば、今はの季節ですが、

桜は、ただ桜らしく花を咲かせればいいのであって、
の木にとって、
自分が春の風景の中で、どのような位置を占めているかとか、
他の桜とどう対比させられているかといったことは
関係のないこと
です。

は、ただ桜らしく花を咲かせることだけ
自分の経験なのであり、自分の納得である筈です。

以前の記事でも書いたように、
それを知るためには、僕らの仕事でいえば、
作業療法という、具体的な哲学をするということだと、
僕は思うのです。

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by hiro-ito55 | 2012-04-18 01:02 | 哲学・考え方 | Comments(0)

誰がやっても同じではなく、
誰がやってもちゃんと対人支援が成り立つ


そういったことに視点を置いて、
成すべきことは何かと問うことが、
僕らの仕事の根幹であると思います。

でも、その一方で、
例えば、
正しい歩行姿勢正しい座位姿勢という言葉も耳にするけれど、
その 『正しいこと』 ってなんだろう。

科学的に証明されたこと、効果が実証されたことが、
正しさの根拠になるのかもしれない。

つまり、
万人に共通する正しさということ。

誰がやっても一定の効果が得られて、
人によってその効果にバラつきがあっては、
それは正しいこととは言えない。

誰がやっても、同じような効果・結果を得るところに
正しさの根拠がある。

とすると、
突き詰めればそれは、
全体主義のことなのではないかと思えてきます。

正しさを強調する人も、全体主義者も、
何か根っこの所で共通しているように思う。

例えば、
1+1=2 ということは、誰にとっても正しいことだけれど、
世の中には、1+1が3にも4にもなることがあります

それが、セラピスト個人や利用者個人の個性なのであって、
それは、申し訳ないが、エビデンスベイスドな正しさ
全体主義的な考えだけでは、理解できないことです。

1+1が3や4になるには、正しいことだけではダメで、
そこに、相手や自分自身の個性がなくてはならない

しかし、
誰がやっても同じような効果が得られることが、
僕らの仕事においては当然のことなんだと考える全体主義者のような人は、
この個体差というものを、あまり積極的に認めたがらない


また例えば、
歩行練習やアクティビティーやレクリエーションなど、
誰が関わっても同じ質が得られることを求める人は、
セラピスト自身に対してだけでなく、
利用者自身の個性をも否定していることには、あまり気付かない

そういった、
誰がやっても、同じような効果・結果を得る正しさを求める風潮は、
このところのリハビリ界全体に蔓延してきた、
ある種の病のように思えてくるのです。

ちょうど、How toに代表されるような、
万人にとって正しいと思えるようなことだけが、
より一層強く求められてきている

そんな、思考や経験の自由を奪うような正しさだけが
独り歩きしだしているように思うのです。


前回も書いたことだけど、
レクやアクティビティーは、相手を楽しませなければならなくて、
僕らは相手を楽しませるために演出しなければならない
と考える人は、案外多いものです。

そう考えることは正しい

正しいことなんだけれど、
でもそんなことは、いったい誰が決めたことなんでしょうか。

相手を楽しませなければならない
という 『べき論』 でレクやアクティビティーを実行する人は、
知らず知らずのうちに相手にも、楽しむことを求めています

楽しめないのは 『いけないこと』 であって、
そのいけないことを取り除きさえすれば
相手も楽しんで参加してもらえるはずだ、と考えてしまう。

そうやって、
相手の示す反応や微弱なシグナルに、極めて鈍感になっていく

でも、本当はそうではなくて、
レクやアクティビティーを楽しめないのは、
その人なりの理由がちゃんとあって、

僕らの仕事は、
その理由を探って、相手が納得することを
色んな形で支援していくこと
にあるのです。

けして自分の正しさを、相手に押し付けることではないのです。


例えば、正しい歩行姿勢や座位姿勢でなくても、
セラピストや利用者が本当に納得したやり方であれば、
何もひとつの方法でなくてもよいのであって、

要は、利用者が納得する方法を探りだして、
それを支援していくのが、僕らの仕事である筈。

そこに僕らの力量というものがあるのであって、
その力量を磨いていくために、
日々の仕事に向き合う姿勢が、問われるのだと思うのです。


その時、その場所、そのセラピスト、その利用者
によって生じるを認めて、
そのを、いかに支援という形に結びつけていけるか
ということが問われるのです。

そういった姿勢に基づいて初めて、
僕らの対人支援は成り立っていきます。


誰がやっても同じ質を求めるのは、
経営者の立場で考えれば、正しいことなのかもしれないけれど、

誰がやっても同じではなく、
誰がやってもちゃんと対人支援が成り立つ


そういったこと視点を置いて、
成すべきことは何かと問うことが、
僕らの仕事の根幹であると思うのです。

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by hiro-ito55 | 2012-04-13 02:39 | 作業療法 | Comments(2)

昨日、岡崎の方でははほぼ満開でした。

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以前、『桜と日本人の心』 の記事でも触れたように、
古来、日本人に馴染みの深い桜といえば山桜でしたが、
こうやって見ると、
ソメイヨシノ綺麗な桜であることに違いはありません。

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花でも何でもそうだけど、それの価値を認めるかどうか
自分が納得しているかどうかの問題です。
もっといえば、それに親しみを持てているかどうか
ということ。

いくら世間一般正しいと言われていることでも、
自分自身がそれに対して本当に納得していなければ
そのものの価値は、自分には響いてこない

これは何も、ものに限った話ではなく、
仕事で向き合う利用者に対しても、同じことだと思います。

対人支援という切り口で日々の仕事を見ていると、
それが少し分かってくると思います。


利用者を支援することにおいて、
僕が忘れてはならないと思うのは、

利用者を、
あの手この手を使いながら納得させるため
僕らが関わるのではなく、

利用者が納得したものを支援していくのが、
僕らの仕事であるということ。

そのために、どうするべきか問われるのであって、
けして、こうあってほしいからという僕らのエゴを、
支援という方法に形を変えて、
相手に押し付けることではない筈です


そこの部分は、履き違えてはならないと思う。

そのことが分かっていないと、
例えば、レクを行なう場においても、
いつでも、『何とかして場を盛り上げなければならない。』、
最初から、『利用者を楽しませなければならない。』、
そうあることが正しいことなんだと、勘違いをしてしまう。


として盛り上がること楽しむこと
利用者自身が納得している場合はいいけれど、

でもそれは、
相手との関わりの中で、僕らが支援していく過程の中で、
お互いを発見しながら確立していくもの

レクアクティビティー
盛り上げなくてはいけない
楽しくなくてはいけない
という態度でいつでも接するということは、

裏を返せば、
相手にもそれを強要するということです。

それは、
根拠のない正しさを、相手に強要するということなのです。



正しいこと』 で言えば、
科学は、ものとものとの関係性を探る学問ですが、

それが万人にとっての共有ツールに成り得るのは、
科学が 『正しいこと』 だからです。

でも、
AやBの関係性ではなく、それ自身のことを知るためには、
正しいことだけではダメなのです。

ものや、相手や、作業活動の本当の価値というものは、
科学だけでは分からない
(現に僕らだって、友達のことを理解することが、
 科学的に知るということとイコールではないことは、分かる筈です。)

ものの価値を知ることが、科学的に知ることとイコールでないのは、
それ』 を知るためには、
それ』 に対する納得親和性という、
僕らや相手の情緒が、深く関わっているからです。


身体に障害を負ったり、認知症になったり、
例えどんな人生になってしまおうと、
その人が本当に納得している生き方であれば、
最期は後悔はしないと思うし、

その後悔をさせないために、僕らのできることを提供するのが、
対人支援という僕らの仕事です。

日々、利用者に触れながらも、
改めて、そのことはっきりと認識させられた一日でした。

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by hiro-ito55 | 2012-04-10 19:22 | 作業療法 | Comments(0)

ありがとうございます。


日本ブログ村が開催している記事トーナメントの、
『日本をより良くしたい!2』トーナメント に、
個性を尊重する日本人』 の記事で参加させていただき、
優勝することができました。(^.^)

小さなトーナメントですが、
記事を読んでいただいた皆様、
投票ボタンをポチッと押して、応援して下さった皆様、
記事は読んだけど、投票ボタンは押さなかった皆様、

ほんとうに、ありがとうございます

これからも、
一人でも多くの人興味を持って読んで頂ける、
そんな記事を書いていけるよう、心がけたいと思っています。


読んでない人のために再録↓↓

個性を尊重する日本人
日本人は、個人よりも組織や社会を優先して考える
という話を、よく耳にします。

そしてそれは、日本人には個性がないのだ、
或いは、日本人は個性を尊重しないのだという意見と、
結び付けて論じられることが、多い話でもあります。

現実には、外国の方だけではなく、
一般人であろうが有名人であろうが、当の日本人の中にも、
それが自分たち日本人の欠点であるかのように
思い込んでいる人がいます。

けれど、僕はけしてそうは思わない。

日本人が、個人よりも社会や組織を
優先させて考える傾向にあるのは、個性がないのではなく、
それは、周りの人を尊重する姿勢なのだと、僕は思うのです。

俺が、俺が、と自分を主張して押し切るのではなく、
自分の周りのことを考えてみる。

そういうことができるのは、
自分よりも周りの人や繋がりを尊重する姿勢があるからで、
自分のことなど二の次だ、という謙虚な姿勢を持つからです。

いわば、自分よりも他人の個性を尊重する姿です。

この部分が見えていないと、
日本人の側からも、日本人は付和雷同気質だとか、
全体主義だとかという話になってしまう。

そうではなく、組織や社会を優先して考えるのは、
自分よりも他人の個性を尊重するという、
広い意味での個性の尊重なのであって、

それは、
個人から見た人間社会に対する美意識でもあるのだと思います。

そうやって考えると、
日本人が個性を重んじていないとは、
一概に言うことはできない。


東日本大震災からもうすぐ一年が経ちます。

アメリカから被災地の支援活動にやって来た方の中には、
支援物資を手渡すたびに、ほとんどの被災者の方から
 『ありがとう』 とお礼を言われたことに、
とても驚いたという話を、聞いたことがあります。

また、一人ペットボトル2本まで
という制限を受けていたにも拘らず、
給水車の列に皆、整然と並んで
自分の番を待っていられる姿に感心した
という外国人の話も、聞いたことがあります。

こういうのは理性ではなく、情緒の働きでできることだと思うし、
それが、日本人の社会に対する美意識なのだと思います。

そういった、日本人に自然と備わっている素晴らしいものを
僕らは大事にしていきたい。

そんなふうに思います。







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by hiro-ito55 | 2012-04-08 22:37 | 社会 | Comments(0)

退職と専門性の発揮


先日、元同僚と会う機会があり、
そこで話題に上ったのが、『転職』 について。

結構、深刻な話題なのですが、
そいつの職場(老健)ではここ最近、
就職後1~2年あまりで退職するPT・OTが多いとのこと。

そして、退職理由としては
もう少しスキルアップするために、△△方面で働きたい
というものが多いようです。

これは、裏を返せば、
その職場にいる限り、自分の専門性が発揮できない
と感じていたからなのかもしれません。

ちなみに、
こちらのサイトに興味深いアンケート結果があります。
       ↓↓
「退職理由」PT,OT,STのホンネ

上司の仕事の仕方が気に入らない』がダントツトップ

そいつも一応主任をやってるので、
あなたの仕事っぷりが、気に入られていないのでは?
などとは、冗談でしか言えない(;一_一)。
(一緒に氷室京介のライヴにも行く仲だし、
 個人的には、そいつの仕事に対する姿勢を尊敬してるので。)


退職に至るには、職場の人間関係だとか、
色々な理由が組み合わさっているのが、実際のところだと思うのですが、
ホントのところは本人にしか分からないので、

一応その場では、転職と専門性の発揮という主旨で、
自分の考えるところを少し話しました。


一般的に僕らの仕事は、専門職と言われています。

しかし専門職といっても、
精神分野、身障分野、急性期、回復期、施設、在宅など、
その専門性を発揮する分野や場は多岐に渡るし、

また、就職した事業所によっても、
僕らの発揮できるパフォーマンスは、制限を受けてしまいます。

そもそも
自分の専門性パフォーマンスに対する考え方は
人それぞれだし、

例えば僕の同期のように、
最初からハンドセラピー一筋
ずっと同じ病院に勤めている人もいれば、

色々な所で働きながら経験を積んで見識を広げ、
その中から、
自分が本当に興味のある分野に気付いていく人もいます。

どちらが良いとは、一概には言えない

石の上にも三年』 ということわざもありますが、
その一方で、アメリカでは、
A rolling stone gathers no moss.(転がる石に苔は付かない)
ということわざもあり、

自分のキャリアをどんどん積んでいくための転職は、
むしろ積極的に評価されるようです。


どのような形で、自分の専門性を磨いて発揮させていくかについては、
人それぞれのやり方があります。

そしてそれは、大なり小なり、
どうすれば、自分のパフォーマンスを最大限に発揮できるか
という問いの形をとる筈で、

その問いを具体化していけば(個人差はありますが)、
職場の環境、自分のキャリア、将来の目標などと、
今の自分の姿を、ひとつずつ照らし合わせていくことになります。

上司の仕事の仕方が気に入らない』 という理由も、
実はその職場では、自分のパフォーマンスを最大限に発揮できない
と感じていることの裏返しとも解釈できますし、

それによって得られた結論が、たとえ転職であっても、
それは致し方のないことだと、僕は思います。


反対に、専門性の発揮という視点から、
もしこれ以上の転職者を出したくないのであれば、

自分の部下に、
どうすればその力を十分に発揮させてあげることができるのか
問う姿勢がトップにあれば、それは可能かもしれないですが、

これはある意味、
上司の器の大きさという、トップとしての資質が求められるので、
部下をコントロールしたいという思いが強い上司だと、
うまくいかないでしょうね。

(*Mよ。僕にとっても身近な問題だったけど、
  たいしたアドヴァイスもできなくてゴメン(;一_一) )

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by hiro-ito55 | 2012-04-05 22:14 | 日常あれこれ | Comments(0)

今日は、運転免許更新手続きのため
午後から、名古屋は平針運転試験場へ。

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一時間ほどで更新手続きは終了したので、
構内をブラブラ

外は風もなく穏やかな陽気 (-_-)zzz

でも、の方はまだ蕾の段階でした。

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残念。(;一_一)







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by hiro-ito55 | 2012-04-02 17:29 | 日常あれこれ | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー