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震災復興のテクノクラート


皆さんは、井上準之助という人物をご存知でしょうか。
戦前に大蔵大臣(今の財務大臣)として活躍した人です。

昭和5年、当時世界恐慌の煽りを受け、
慢性的な不況に陥っていた日本を、
浜口雄幸とともに緊縮財政行政整理によって金解禁を実行し、
近代日本の歴史の中で、
もっとも鮮明と言われる経済政策を実行した人です。


彼が大蔵大臣に就任したのは、大正12年9月1日

そう。関東大震災のあった日です。

国内未曽有の非常事態ということもあって、
組閣作業は急がれました。

9月2日には、各大臣の親任式が行なわれ、
井上準之助も大蔵大臣として挨拶に立ったのですが、
彼が日銀出身の大臣であるということで、
官僚からの冷たい視線が注ぐ中での挨拶であったようです。

しかし、井上は、その挨拶の席上で、
就任早々、モラトリアムの実施を発表します。

モラトリアムとは、支払い猶予令のことで、
一定期間、債務の支払いを凍結し、
銀行からの預金の引き出しについても、大幅に制限する

というものです。

これを実行することで、債権者が一斉に手形を取り立て、
債務者がそれに応じきれずに、破産が続出する
という事態を防ぐ
という狙いがあります。

モラトリアムは、
第一次世界大戦中に、ヨーロッパで実施された例がありますが、
日本で実施されるのは初めてのことで、
しかも、天災にまで適用できるかどうかは非常に微妙で、
高度な政治判断を求められる問題でした。

しかし、この井上の素早い判断によって、
震災六日後の9月7日にはこの法令を公布し、即日施行させることで、
経済の混乱未然に防ぐことができました。

更に9月12日には、
震災の被害者に対して、税金を免除・軽減・猶予する法令と、
生活必需品の輸入税を免除・軽減する法令を公布し、施行します。

この間、わずか2週間足らず

震災で大蔵省の庁舎は焼け、十分な資料もない中での政策実施で、
まさに、早業と呼べる行動力ではないでしょうか。


そしてその後、
政府からも 『帝都復興に関する詔勅(注:帝都=現在の東京)
が打出されますが、
このとき、日本の主要産業である生糸産業が大打撃を受けた横浜が、
この計画の中に含まれるかどうかが、曖昧にされました。

そこで井上は、各関係団体に積極的に働きかけ、
横浜を復興計画に含めることを閣議決定させます。

しかし、震災後の復興の成り行きを心配した者たちが、
神戸に生糸市場を移すよう、井上の下に陳情に訪れます。

そのとき、井上はその一団に対し、
横浜へ行ってみなさい。彼らが今あんな悲惨な目に遭っているのに、
君たちはそれを助けようともせず、産業を神戸に移せなどと
不人情なことをしようとする。
そんな薄情なことが許されると思うのか
。』
と、彼らの要求を一蹴しました。

そしてその一方で、横浜の人たちには、
生糸を運ぶのに汽船が使えないなら、軍艦を使ってでも運んでやる。
どんな支援でもするから、一日でも早く仕事を始めろ
。』
と、励まし続けたそうです。

その甲斐あってか、現に9月18日には、
横浜で生糸の取引が再開されます。


また、震災後の復興予算編成の場においては、
与党内部から、
被災地は日本の一部にすぎず、被災地自らの負担で再建を図るべきで、
国民全体がその費用を負担する必要はない

という強硬な意見が出されましたが、

井上はこれをはねつけます

人間でいえば、東京横浜も身体の一部分である。
 しかも帝都は首から上の部分である。
 それが身体の全部でないからという議論には賛成できない。
 帝都および横浜の復興は全国民の負担においてなすべきである
。』
 (青木得三著『井上準之助伝』:井上準之助編纂会)
として、

予算捻出のためには、増税することを避け
入るを量って出ずるを制す』という考えの下、
徹底した政府の支出削減を主張し、
その上で、復興予算額を弾き出します。

その後、各大臣の根強い反対を何度も押し切って、
井上の原案どおりの震災復興予算が、閣議決定されることになります。


そしてそこからふと、
東日本大震災後の、今の日本の現状を思ってみる。

時代背景社会システムも違いますが、
今、どこを見渡しても、
このような行動力信念を持った政治家は、
残念ながらどこにもいません。

震災から一年経っても、
日本全体のことを思って具体的なヴィジョンを打ち立て、
それを実行できる政治家が、
見渡す限り、ほんとうにどこにもいないのです。

現在の社会システムがそうさせるのか、
政治家自身がそうなのかは分かりませんが、
皆、党利党益派閥利益確保という
狭い土俵の上だけでしか動けなくなっている。

政治から主体性が奪われると、
こうも愚鈍になってしまうのかと、嘆きたくなります。


大正12年から9年後
井上は、残念ながら一連のテロ標的となり、
民衆の面前で銃弾に倒れてしまいますが、

現在の政治を思えば、
心に完全の満足と愉快』 という自分の中にある純粋な信念に従い、

それがあるならば、
多少世間に対する人為的の位置は低くとも、又まずい飯を喰っても、
 其の方が遥かに勝れしならん
』 
という哲学を貫いた、稀有な政治家なのかもしれません。

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by hiro-ito55 | 2012-03-29 19:09 | 社会 | Comments(0)

自分を引き受けられる人


人間は、
根源的孤独であるか独でないか

青年期には、一度は真剣に考えたこと

しかし、
孤独であるか、孤独でないか という問いに、
いつまでも立ち止まっていることはできない、
そう気づいたのが、20代の頃。

孤独であるか、孤独でないか と問い続けるのではなく
人間は、孤独であり、孤独でもない 
と、一見相反するもの自分の中に認めることは難しい

けれど、
人生において、
より建設的な態度を採れるのは、

孤独か孤独でないかを迫って、
どちらかを選んだ人ではなく
両方とも、人間の姿であると、認めることができた人ではないかと、
最近、思うようになってきました。


孤独であるときに、孤独でないと思えることで
それが自分の力になり、

一人で決めなければならないときには、
周りに流されずに、自分で決断することができる。

そういう人は、他人から
人間は孤独であるかと問われれば、
孤独でないと答え、

逆に、人間は孤独ではないと言われれば、
孤独である と答える。

禅問答のようですが、そう心から思えることが、
自分の人生を、より豊かに生き抜くための羅針盤です。


愛情 ― 憎しみ
喜び ― 悲しみ
楽しみ ― 苦しみ
理性 ― 感情    etc....。

一人の人間という総体の中では、
互いに矛盾すると思われるものが、
幾重にも重なり合っています。


大事なのは、人間は、
どの立場にも寄り掛かっていないし、
どの立場にも寄り掛かっている


一人の総体として、
人間はそうなんだと考えることです。

そう考えないと、全てが虚無
つまり、ニヒリズムに陥ってしまいます。

そうやって、
自分の中にある矛盾を引き受けた人の姿は、
とても人間らしいと思う。

逆に、僕が 『つまらない人だな』 と思うのは、
あるひとつの自分のegoisticな立場に固執して、
それを押し切ろうとする人。

或いは逆に、全てを空しいこととして割り切って、
厭世的に物事を語る人です。

それはどこか、病的な姿をしています。

それは、
何かひとつのことに夢中になっている人の姿とは
根本的に違う


何かに無我夢中で取り組んでいる人は、
我を忘れているものです。

自分のことを忘れ、
一人の総体として、全力で取り組んでいる。

それは、egoではない、
egoを超えたもの

自分の中にある矛盾するものを、
引き受けることのできた人の姿ではないか
と思うのです。

物事への前向きさや、人生の豊かさは、
そういった姿勢にこそ、あるのではないか。

そしてそれが、
その人の魅力というものに繋がっていくんだと思う。

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by hiro-ito55 | 2012-03-27 17:03 | 哲学・考え方 | Comments(0)

移行期と不易流行


例えば、前進しているが大きく旋回するとき、
舵を切っても、船はすぐには曲がれず、

しばらくの間、
船は惰性で真っ直ぐに進んでしまいます。

人の世界もこれと同じで、
ある制度が左へ大きくを切っても、
人がその方向を向くまでのには、
タイムラグが発生します。

個人のレベルではすぐに左を向ける人はいたとしても、
全体としては、そのようになります。

それを、移行期と呼びます。


俳句の世界には、不易流行という言葉があるそうですが、
不易とは、普遍性のことであり、
流行とは文字通り、その時々の流行りのことです。

俳句においてこの二つは、
共に風雅の誠から出るものであるから、
根源的には一つであると考えます。

変わるものと変わらぬものが、共にひとつであるとは、
随分と奥の深い言葉です。


仕事においても、
その時々によって変えていかなければならないものがあり、
それでも基本的な変えられない部分もあり、

そのバランスを取るのが、
実は非常に難しかったりします


来週からは、
いよいよ新しい介護保険制度スタートします。

三年に一度の改正で、
毎回、それに振り回される部分もあるとは思います。

基本的に、僕らの仕事は
介護保険制度というものに則って
行わなければならないものなので、

改正の度に軌道修正を図らなければならないのは、
仕方のないことです。

だから、
新制度に則って、
変えなければならない部分は変えればいいし、

けれど、
変わったからといって、
全てを全く新しくしなければならないという意味でもなく

変わらない部分も、変わる部分も、
その根は同じである筈なのです。

それが、
作業療法の個性なんだと思います。

その何であるのかは、
僕ら作業療法士一人一人が
日々の臨床の場で、しっかりと見極めていかなければならないし、

そうして得たものが、きっと、
これからの作業療法の歴史を作っていく

そんなふうに思っています。

来週から制度は少し変わり、
皆さんそれぞれに、色々と思うところはあると思いますが、

移行期的混乱を乗り越えて、頑張っていきましょう

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by hiro-ito55 | 2012-03-25 15:08 | 作業療法 | Comments(0)

アリバイ作業活動


以前勤めていた老健でも、今の職場でもそうなんですが、
介護職員の方が提供しているアクティビティーで、
利用者にやらせっぱなしという場面を、多く見かけます。

アクティビティーに、介護職員と一緒になって取り組むのではなく、
利用者が長時間、一人で黙々と作業に取り組んでいる

そんな姿を、其処彼処で見かけます。

残念なことに、
職員の側が、利用者に作業をさせておくことで、
とりあえず安心してしまっている。
つまり、利用者に何かの活動をさせている
という事実を作り上げることで、終わってしまっている
のです。

これを、アリバイ作業活動と言います。

厳しい言い方ですが、
職員のそんなアリバイ作りのために、
作業が利用されているという現実があるのも、
また事実なのです。


生活リハなり、介助方法なり、作業活動なり、
それを何とかしたいと思うのは、もちろんいいことなのですが、
介護職員の中には、残念ながらこれらのことに対しては、
方法論の段階で終始してしまう人が多いのです。

それは、
なぜ、この方法なのか』 という根拠付けに至る思考ができない
或いは、そういう思考が苦手な方が多いということの現れです。

そんな場合は、
適切な形でこちらから介入する必要が出てきます。

その際、職員に対し、
エビデンスに至る思考を促す材料を与えることが重要で、

具体的には、
ただ活動していれば、利用者の身体機能は維持できるのか、
認知症の進行は防げるのか、
といった問いを投げかけることで、
その問いに対する職員のフィードバック
促していかなければなりません。

もちろん、作業を行なう副次的な効果は、
認知症の進行防止や、身体機能の維持という形で現れますが、
それも、適切な形で、方法として作業を用いるからこそ、
それらの効果が有効になるのであって、
やらせっぱなしの状態では、何の効果もありません

そして、
最初から、認知症の進行防止や、身体機能の維持を
目的として作業を行なってしまうと、
また方法論の中
行ったり来たりしてしまうような悪循環に陥ってしまうので、

まずは、
それらを作業の目的とするよりも、
利用者と一緒になって取り組む時間を持ってほしい


例えば、今僕が習字を行なっている利用者さんの中に、
リウマチによって手指に変形のある方がいます。

この方は、昔は小筆で巻物に字を書き、
小学校からも証書の下書きの依頼が来るほどの腕前でした。

ところが、今は手指の変形がひどく、
思ったように字を書くことができません

でも、毎回一所懸命に習字の練習をされ、
ようやく平仮名二文字を、
まともに書くことができるようになってきました。

書けた』 と破顔されたときの顔が、とても印象的でした。

こういう方の場合、
この人にとっての作業の目的は、
手指機能の向上そのものではない筈です。


そのことを理解するためにも、作業を用いる際は、
介護職の方にも、前回の記事で示したような、
その人にとっての活動の姿や形を、まずは感じ取ってほしいのです。

何故なら、
そうやって、方法論から一段掘り下げることによって、
その人にとっての作業の持つ意味価値を、引き出せるのであって、
そこから出発することで、
方法論として用いた作業も、生きてくると思うのです。

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by hiro-ito55 | 2012-03-22 19:16 | 作業療法 | Comments(0)

名付けるということと作業療法


あるものについて、名前を付ける、或いは言葉で表現するということは、
そのものに単なる意味を付すというだけではなく、
そのものに、姿や形を与えるということです。

例えば、目の前のを見て、綺麗な枝振りというときの、
その枝振りという言葉は、
単にその枝のフォルムデザインディテールを言っているのではなく、
もっと全体的なものを含んでいる

こことここのが、こういうふうに交わっていて、
の大きさや付き具合が絶妙だのといった
言葉によるその枝振りの見事さを表す説明を待たずに、
枝振り』 と一言表現するだけで、
それがどんなものなのかということが、納得できることがあります。

つまり、その一言には
言葉による詳しい解釈分析意味といったものまで、
全部が含まれていることになります。


逆に言えば、
枝振りという言葉で表現したにも拘らず
僕らの分析や解釈の言葉は、まだ言葉として表現されていない
という見方もできます。

つまり、
言葉で名付けられたのにも拘らず、
まだ言葉にならないものが、既にそこに含まれているという、
言葉の上でのパラドックスが成り立っています。

しかし、だからこそ桜の木を見て、
あの桜のあの綺麗な枝振りと、その言葉で表現したとき、
その言葉で表現できないものまで含めて
感心という形で、僕らの印象に残ることができるのです。

それが、そのものに姿や形を与えるということであり、
何かに対する感動を、改めて僕らが意識できるということだと思う。

そして恐らく、そういった言葉の持つ力
鋭い感覚を最も注ぎ込んでいるのが、
詩人なのではないでしょうか。

詩人は、言葉を使い名付け、表現することで
世界に姿や形を与える

詩に対する
僕らの詳細な分析説明の言葉は、
いつだって後から付けられるものです。


これは、
ひょっとしたらリハビリにだって、同じことが言えるかもしれない。

例えば、利用者の歩容と言ったときに、
歩容と表現される言葉の中には、
その人の歩幅や、歩隔、筋力、バランス能力、歩行に対する意欲
などが、含まれています。

或いは、利用者の作業と言ったときには、
手指の巧緻性や、アイ・ハンド共同作業能力、認知の正確さ
好き嫌い、昔取った杵柄などが、含まれています。

それらを全部含んだものが、
その人にとっての歩容や作業の意味であり、
筋力や手指の巧緻性だけでは説明できない
その活動に取り組むその人の、姿となるのです。


作業療法を行なって、活動に対して、
これが私の歩容』 『これが私の作業
といった言葉で表現できるようになるには、
そこに全体がなければいけない。

歩容や作業などに、全体が含まれることで、
その人にとっての活動の姿や、形が現れるのであって、

筋力バランス能力手指の巧緻性といった詳しい解釈と、
それに対する介入は、
そういった全体としての姿が捉えられて、
初めて意味を成すもの
なのではないでしょうか。


先日、事務部の方から
アクティビティーのために提供して頂いた彼岸桜を見ながら、
そんなことを考えたりしました。

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by hiro-ito55 | 2012-03-19 22:27 | 作業療法 | Comments(0)

ときには気張らずに...。


毎週、利用者のアクティビティーとして、
ポスターカラーを使って絵画活動 を行なっていますが、
事務所の方から、彼岸桜を頂いたので、
今回はそれを題材にして絵を描くことに。
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習字でも絵画でも、
こういうアクティビティーをやっているとよく耳にするのが、
参加者の 『上手く描けない』 という言葉。

上手く描こうと思うと、手が止まって描けなくなってしまう

こんなとき僕は、どんなに拙く思えても、
見たままを描くよう、
参加者にアドバイスするようにしています。

普段、ADL練習や運動療法で頑張っている利用者には、
せめてアクティビティーのときぐらいは
気張らずに取り組んでもらいたい。

毎日、ちょっとだけ背伸びしながら
頑張ることを繰り返す生活の中で、
利用者の気張らない、今のままを表現できるがあっても、
いいのではないか。

そういう思いから、利用者の作品に
僕からは、できるだけ手を加えないようにしています。


頑張って成し遂げることだけを提供するのが
対人支援の方法ではなく、

利用者の今のままを表現する機会を提供して、
その結果を一緒に分かち合うことも、
そういうを作ることも、
立派な対人支援の方法だと思うのです。

頑張って何かをしなくても、
今の自分の能力を認めてもらえるんだ。

そんな安心感を提供できるような場になってくれればと、
そういう気持で、
一緒になって作業に取り組んでいます。







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by hiro-ito55 | 2012-03-17 19:53 | 作業療法 | Comments(0)

支援は続く…


氷室さん、まだまだやってくれています。↓↓

支援は続く…氷室京介、新たに2億円超寄付!総額8億円超

このうちの一万数千円は、
ちっぽけな金額ですが、僕も貢献させて頂いています。


そういえば、去年見に行った年末ライヴのMCでも、
氷室さんはこんなようなことを言ってたっけ。

義援金を集めても、全額が被災者の下に届くわけじゃない。
 そこには、様々な複雑な道のりがあって...、
 残念ながらそれが現実で、人を支援するために何かするってのは、
 本当に難しいんだけど、
 でも、自分が何かできる環境にあるなら、
 それが何であれ、やるべきだと思う
。』

そして、
去年6月のチャリティーコンサートの後、
本当は、収益金を自分の手で直接被災地に届けたかったけど、
様々な制約から、それが実現できなかったことを語ってくれました。

それでも、一人のミュージシャンとして、
自分にできることを、今も着実に続けている氷室さん。

そんな彼の行動を見ていると、
氷室京介のファンであるということだけで、
何かをもらえるような気にさせてもらえる。

僕は、BOØWY時代からの氷室さんのファンだけど、
そんな姿はやっぱカッコイイ


そして、
嫌なことがあったり、何か迷ってしまったり....、
人生には色々あるけれど、

そんな時、
僕はこの歌をよく聴いています。↓↓



氷室京介 Sacrifice歌詞情報 
ライヴ映像は、こちら 







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by hiro-ito55 | 2012-03-14 18:51 | 社会 | Comments(0)

調和を失った時代 ~現代人の病~


前回述べた人間中心主義幸福主義について、
少し分かりづらかったと思うので、
今回はそれについて、少し書いてみます。

迷惑が掛かるといけないので実名は伏せますが、
近代思想については、
とある大学のY先生から教えて頂いたことに、
僕はたいへん大きな影響を受けました。

そして、
コミュニティー(最近、僕はこの言い方がわざとらしくて好きではない)
の崩壊=人間の社会的孤独化)は、
大量消費社会が出現する以前から、思想という形で、
既に準備されていたのではないかと、考えるようになりました。


例えば、近代思想の出発点は、
ルネ・デカルトであると言われています。
我思う故に我あり』 で有名な、あのデカルトです。

彼の登場以来、自由、平等、民主主義といった、
個人を拠点にして根拠づけられる価値観
というものが育っていきます。

これは、個人個人の存在が、
人間は人間であることにおいて尊い』 
という価値観です。

そしてこれが、人間中心主義と呼ばれるものです。

この人間中心主義に基づけば、
例えば人は、自分の幸福を求めることにおいては、
無条件で、それが許されることになります。

何故なら、
個人個人が、人間であることにおいて、既に尊い存在なのですから、
その尊い存在である一人一人が、
不幸な存在であっていい筈がありません

だから当然、
一人一人の幸せというものが、あらゆる制約から離れて、
無条件で、認められなければならない

という価値観に行き着きます。

このような価値観を幸福主義と言い、
幸福主義は、人間中心主義によって支えられていることが分かります。

幸福主義では、
一人一人が、自分の価値観に基づいて
幸せを求めることが許されるのですから、

幸せの価値観が人それぞれ、千差万別で、
それが、他人の幸せの価値観と衝突することがあっても、
極端な話、人間は自分の方の幸せを優先させて、
それを実現するために、利己的に振る舞うことが許されるのです。


なぜ、このような価値観が、近代以降に育ってきたかというと、
西欧社会が中世という時代を経験したからです。

かつて、西欧社会が経験した中世という時代は、
暗黒の時代』 と捉えられていた時期がありました。
僕らよりも上の年代の方たちは、
学校で歴史を学ぶ際は、実際にそのように教えられていたと思います。

なぜ、『暗黒』 なのかといえば、
近代以前は、人間の理性が宗教の奴隷となっていた
と捉えられていたからです。

デカルト以来の人間中心主義の目的は、
この信仰という呪縛から、人間の理性を自由にすることでした。

そしてその結果、
政治を宗教から解放し、
社会を宗教の絶対性から相対化させることに、成功しました。

そして何よりも、個人個人において、
人権、自由、平等という価値観を獲得することに、成功したのです。

そうなると、
それまで理性の前に無条件に存在し、
基礎づけられていた道徳観倫理観は、
個人の中では、もはや必然なものではなくなりました

その代わり、
道徳観倫理観幸福というものを、
個人個人が自分で獲得していく、という自由を与えられたのです。

言い換えれば、
個人個人を基礎づけていたものを、
宗教から人権、自由、平等という価値観に置き換えたことによって、
これを理性の働きでもって、
個人個人がその責任において獲得していかなければならなくなった
ということです。


日本も近代化に伴って、
このような西欧の思想から、大きな影響を受けていますが、
これは、個人にとっても、人間同士においても、
調和というものを失った、たいへん厳しい時代です。

例えば身近な例で言えば、
なぜ、人を殺してはいけないのか
なぜ、老いた者を労わらなければならないのか
といったことに対してさえも、『』 が投げかけられ、

これに対して、その都度立ち止まって考え、吟味し、
個人個人が自分の責任において、
自分の納得のいく答えを、出さなければならなくなったのです。

しかも、解放された理性でもって、その答えを導き出せ
と迫るのが、人間中心主義の特徴です。

そう考えると、
人間中心主義の成功は、
同時に、現代人の病でもあると言えるのです。

そしてデカルト以来、
既に現代人の苦悩の種は、蒔かれていたことになります。


20世紀の後半に入ると、フランスを中心に
そのような近代の価値観を更に進めて、
ポスト・モダンという動きに発展しました。

そして現代は、そのポスト・モダンを更に発展させて、
グローバリズムの時代(TPPはそのいい例ですね)になっていますが、
それについては、機会があれば書きたいと思います。
(一先ずおしまい。)

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by hiro-ito55 | 2012-03-13 00:28 | 哲学・考え方 | Comments(0)

僕らが抱える孤独


なぜ生活しなければならないのか
なぜ生きているのか
といった問いを、
僕は大学時代真剣に考えていた時期があります。

他人から見れば、バカバカしい問題であったかもしれませんが、
一人暮らしを始めたのをきっかけに、
僕にとっては、それはとても切実に思える問題でした。

今から思えば、若さゆえの悩みであったと思い直すこともできますが、
一人の現代人として抱える共通の孤独感というものが、
そこにはあったように思います。

今、なぜそれを思い出したかというと、
震災から一年が経ち、その間、被災者の孤独死という問題を、
メディアを通してよく目にするようになったからです。

孤独死に至るのは、
高齢者社会的弱者(僕はこの言い方が好きではない)が多く、
メディアでは、
それが、人との繋がりが希薄になった今の日本社会の象徴
のように扱われています。

本来なら、被災者の孤独死という問題と、
現代人の孤独の問題を同列に考えることは
些か不謹慎のように思えますが、

僕には、
根っこの部分で、同じ問題を抱えているように思えるのです。


現代人の他人との繋がりの希薄さは、消費を主体とした生活が、
都市部への人口の偏り核家族化の推進などという現象を引き起こし、
それらが僕ら日本人の間に定着した結果、齎された。
だから、大量消費を主体とした生活様式から、これを見直そう

ということは、よく言われることです。

しかし、これだけでは、
現代人の孤独の全体像は、見えないように思います。

消費を主体とした生活様式は、
確かに人との繋がりを希薄にしてきましたが、
じゃあ何故、
現代人の間に、そのような生活の変化が起きていったのかについて、
その背景について、あまり言及する人がいません。

確かに、
近代化 = 消費社会 = 人との繋がりの希薄化』 
という図式は、非常に分かり易い

けれど、
そういう社会の継続的な現象を推進していったのは、
紛れもなく人間なのだから、

これを一歩踏み込んで、人間の思想問題から捉え直し
この近代化の現象を、それが齎した結果として捉えてみることが
今、必要なのではないかと思うのです。

そうしなければ、
本当の意味での現代人の孤独は分からないだろうし、
そこから、社会の在り方というものを考え直さなければ、
この大量消費社会に変わる新しい社会モデルも、育たないと思うのです。


現代人である僕らは、

人間は人間であることにおいて尊い』、
或いは、
一人一人の幸せは、あらゆる制約から離れて、
 無条件で、認められなければならない


という価値観を持っています。

それ自体は素晴らしい考えなのですが、
それも行き過ぎれば、人との調和を失った社会となります。

実は皮肉にも、現代人の孤独を加速させたのは、
そういった、僕ら個人としての人間らしさを保障する筈だった
人間中心主義や、幸福主義という価値観が、
少し行き過ぎたせいではないか、と考えています。

そして、
人との繋がりの崩壊は、大量消費社会が出現する以前から、
思想という形で、既にそのように準備されていたのではないか
と、考えるようになりました。

もし、今回の震災を契機に、
人との繋がりを持った新しい社会の在り方を考えるのであれば、
単なる復古主義に甘んじるのでもなく、

僕らが今、無条件に認めてしまっている価値観の見直しや
反省というところから、もう一度出直す必要があると思います。

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by hiro-ito55 | 2012-03-11 20:00 | 社会 | Comments(0)

ベルグソンの物質と記憶


僕は今、
アンリ・ベルグソンの 
『物質と記憶』 という本を読み進めています。

日本語以外の語学力に乏しい僕が、
フランス語で書かれた原著を読むわけにはいかないので、
読んでいるのは、ちくま学芸文庫から出版されている
合田正人・松本力 訳著のもの。

訳書でも、
文章にはその文章の持つリズムというものがあるので、
それに慣れるまで少し苦労しましたが、

読んでみると、とても面白い本です。

この人は、知覚というものについて、
それを精神肉体との関係から明らかにしようと試みた、

いわば、
当たり前のことを解き明かそうとした人で、
その当たり前のことを、事細かく言語化しようとしたところに、
この人の苦労はあったと思う。

当たり前のことを目の前にして、
なんだ、そんなの当たり前じゃん。』 と言って済ます人に、
恐らく知的な向上や、発見というものはない

あることに対して言語化するということは、
対象とするその事物についての感覚を鋭くすることであり、
物事への深い洞察というものは、
そういった態度によって生まれると思うからです。


常に新しいことにチャレンジし、切り開いていく姿勢も大事ですが、
新しい発見など、そうそうできることではありません

当たり前のことに対して、いかに鋭い感覚を持っていられるか、
そういう姿勢が、人生を豊かなものにしてくれると、
凡人の僕などは思うのです。

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by hiro-ito55 | 2012-03-10 19:22 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー
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