考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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繋がりと質的な豊かさ

今年も残すところ今日一日となりました。

2011年は、国外ではアラブの春世界的な金融不安
国内においては東日本大震災など、
色々な出来事があった年でした。

特に震災後の東電福島第一原発の事故は、
これからの僕らの生活に、多大な影響を与え続けるでしょう。

だからといって、
全てがけして悪い影響だけではないように思います。


今年は、『』 という言葉がクローズアップされましたが、
国内未曽有の危機にあって、自己中心的な振る舞いよりも、
人との繋がりを求めるところは、いかにも日本人らしい

それが 『日本人の美意識』 なんだろうと思います。

他人との生存競争に勝ち抜くために、
自己中心的に振る舞うことを規範とする、

つまり、
自我小我中心に据えることが、
個人の尊厳の基本を成すのではなく、

助け合いの心や、思いやりの精神が、
人間であるということの最も大事な部分で、

これを個人の基本として据えた方が、実は皆が生きやすい
そういうことに気付き始める人が徐々に増えていく。

時間をかけながらですが、
そういう時代に変わっていくだろうと思います。

それは、本当の意味での個人主義です。

分かり易く言えば、僕ら一人一人の在り方に、
量的な豊かさ』 よりも、
質的な豊かさ』 を求める心構えが生まれる、
ということです。


人やものとの繋がりを感じられる生活というのは、
個人の生活を豊かにしてくれますが、
それは量的に豊かになる、ということではないのです。

食材イオンの惣菜で済まし、
ユニクロで買い、
プリウスに乗る。

そういった生活が、本当に豊かなものであるか、
僕らはもう一度、よく考えてみなくてはなりません。



今年はブログを通じて、
僅かですが、人との繋がりも増えました。

また、読み込まなければ
なかなか意味を掴めないであろう僕の文章を、
しっかりと読んで下さる方々もいらっしゃることに、
本当に感謝しています。


今年一年、ありがとうございました

皆様も、よい年末年始をお過ごし下さい

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by hiro-ito55 | 2011-12-31 15:24 | 日本人 | Comments(0)
先週、久しぶりに元同僚PTさんと会い、
リハビリ業界でも最近は、
How to本』 の類いが、やたらと多くなってきた
という話になりました。

なぜ、これほどまでに
How to本や、 Instant toolが増えたのか。

需要がなければ、本も増えることはないですから、
買い手であるリハ職の中に、
すぐに答を出さなければならない』 と考える人が増えてきて、
そこから、『すぐに使えるHow to』 を望む人が増えた
ということです。

このような傾向は、リハビリに携わる者の思考の欠落
という、全体的な傾向を表しているのではないか。

言い換えれば、
自分で考えることに対し、
忌避的姿勢を示す人が増えてきている

そういう傾向を表している
とも言えるでしょう。


実は、
僕が作業療法士になって、心に響いた言葉があります。

ひとつめは、数学者 岡潔言葉で、
彼は 『人間の建設』(新潮文庫)の中で、
次のようなことを述べています。(少し長いですが...。)

私がいま立ちあがりますね。
そうすると全身四百幾らかの筋肉がとっさに統一的に働くのです。

そういうものが一というものです。
一つのまとまった全体というような意味になりますね。
一の中に全体があると見ています、あとは言えないのです。

個人というものも、そういう意味のものでしょう。
個人、個性というその個には
一つのまとまった全体の一という意味が確かにありますね。

たとえば人が立とうという気持で立ちましょう、
それは筋肉運動ではありますが、
気持次第千差万別の立ち方がありますね。

そういうことを何がさせているかということが、
実は一つもわかっていない
そうだとすると、人間の生活は操り人形でしょう。

それが何に依存して、
どういうあり方であるかということが一つもわかっていない

人がどうしてできたかということは、
肉体だけから説明できると信じているが、
とんでもない間違いだと思います。

われわれの日常生活の仕方
なぜそういうことができたのか、どういうあり方であるのか
ということが一つもわかっていない

にもかかわらず、自然というものがあって、
その機能によって時間と空間の中
自分が動いているということだけを信じている。
それは偏見だと思うのです。
とうてい説明しきれるものではないのです。



また、
2011年7月20日の僕の記事
人はマニュアルによって動きはしない』 の中でも紹介しましたが、
小林秀雄は 『様々なる意匠』 の中で次のように述べています。

人間を現実への情熱に導かない あらゆる表象の建築は
便覧(マニュアル)に過ぎない。

人は便覧(マニュアル)をもって
右に曲がれば街へ出る と教える事は出来る。
然し、坐った人間立たせる事は出来ない

人は便覧(マニュアル)によって動きはしない、
事件によって動かされるのだ。




この二人の、人間への優れた洞察から、
人間の生活や行動の動機となる、情緒心的運動が、
個人の中で、如何に大きな力を持っているかを
想像することができます。

作業療法が、対象者の活動
治療へと結びつけるものであるなら、

僕らは
人間の情緒心的運動というものに、
無関心ではいられない。

それらを知るために、
精神医学心理学を学ぶのも結構ですが、
専門的・科学的に知ることと、人間を知ることとは
別のことです。

木を見ること森を見ることが、別のことであるように...。

或いは、知には順序がある
と言っても、いいかもしれません。

人間であれば、誰にでも、一人の人間としての在り様
というものがあります。

それは、
その人をその人足らしめているものであり、
人間活動知るには
まずは、そこに気付かなければなりません。

その上で治療を というときに、
専門的な知見や、スキルが必要となるのです。

『知』 には、そういう順序や、
質の違いがあるということが分からなければ、
良い治療など、できる筈もありません。


まずは、情緒心的運動を含めた
個としての人間の在り様知ること。

これを知る手がかりになるのが、
哲学であると思うのです。

哲学というと、何か小難しいものだと思ってしまいますが、
人間活動そのもの』 のことです。

作業療法人間活動を扱うものですから、
作業療法を通して考えるということは、
哲学をするということでもある筈です。

それに、
岡潔数学者で、小林秀雄批評家です。

哲学者』でなくても、
こういう人を参考にして哲学はできるし、
哲学は、けっして形而上のものでもありません。

僕らが、作業療法を通して考えるということは、
それは、『具体的な哲学をする』 ということになるのです。

しかし、ここを素っ飛ばして、
すぐに使えるHow to頼るというのは、
対象者の人間としての在り様も、僕らの専門的な知見
知らずに済ますということです。

今、作業療法士自身その姿勢であっても、
形だけの作業療法が成り立ってしまう

そのような姿勢で、済まされる時代になりつつあるのでは、
と思うのです。

養成校でも、臨床でも、
哲学についての必要性重要性を、
誰も教えてはくれません

だから、自分で学んでいくしかないのですが、
しかし、この欠落が、そう遠くない未来のうちに、
作業療法致命傷となるのではないか、

僕は危機感煽るような論じ方は好まないのですが、
最近は、ついついそんな気がしてしまうのです。

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by hiro-ito55 | 2011-12-28 00:32 | 作業療法 | Comments(0)

国内の電力供給不安

九州電力は、25日に玄海原発4号機が定期検査入りし、
全ての原発が運転を停止したと発表しました。

以下は、NHK(Web版)の記事の抜粋です。

玄海原発4号機の停止によって、国内の原発は90%近くが止まるという
異例の状態で本格的な冬を迎えることになります。

電力会社ごとに見ますと、すべての原発が止まっているのは、
東北電力の4基、中部電力の3基、北陸電力の2基、日本原子力発電の
3基となっています。

また、関西電力では、今月16日、
福井県にある大飯原発2号機が定期検査のため停止し、
原発11基のうち10基が止まっています。

一方、運転の再開に向けては、
再開の判断の前提となる安全評価「ストレステスト」が、
定期検査で止まっている各地の原発で実施され、
これまでに北海道電力、関西電力、四国電力、
それに九州電力の8基のテストの結果が、
国の原子力安全・保安院に提出されています。

しかし、原子力安全・保安院の審査が終わったケースは1つもありません。
また、運転を再開するためには、
地元の自治体の了解を得なければなりませんが、
自治体の多くは、再開に慎重な姿勢を崩していません。

運転を続ける国内の6基も、来年1月以降、
春までに順次、定期検査で停止する見通しで、
運転を再開する原発がなければ国内のすべての原発が止まることになります。



東日本大震災での東電福島第一原発事故の影響を受けて、
今、国内では電力供給の在り方について
見直しの気運が高まりつつあります。

北海道から沖縄まで、国内には九つの電力会社がありますが、
かつて日本には七百の電力会社があったそうです。

1920年頃の話ですが、
その頃の日本の人口が約6,500万人ですから、
凡そ人口十万人弱で、ひとつの発電所があった計算になります。

日本の電力会社の歴史を見ると、
1887年に発足した東京電燈株式会社が、国内最初の電力会社で、
東京日本橋から電気の送電を開始しました。

その後、各地に電力会社が創設されていきますが、
大正末期には急速に電力会社の統合が進み、
東京電燈東邦電力大同電力宇治川電気日本電力
五社に絞られていきます。

戦時中は、日本の電力は日本発送電九配電会社
二社による国家統制の体制下に置かれました。

現在の九電力会社体制になったのは、戦後のことです。

その間、電力会社のエネルギー源は、
水力、石炭、石油、原子力という流れで推移してきました。

エネルギー源が石油であった時代に、オイルショックがあり、
石炭が見直された時代もありましたが、
時代の流れから、
その見直しの気運も一時的なもので終わってしまいました。

今は福島第一原発の事故で、
原子力発電の見直しが起こりつつあります。

今回のように、国内の原子力発電所の活動順次止めていくと、
それに代わる発電方法が必要になってきます。

原子力発電への不安が高まる中、
エネルギー源は何かに大きく偏るのではなく、
多様化した方がよいということが、
これから段々と分かってきます。

そのひとつとして、
石炭をエネルギー源とした火力発電所を、
もっと作ってはどうかと思います。


化石燃料可採年数
その年の生産量で、これから何年採り続けることができるか)は、
BP2006によれば、
石炭155年石油40.6年天然ガス65.1年となっています。

また、地域別の埋蔵量でみれば、
石油60%以上が中東で確認されたもので、中東依存の傾向が強く、
石炭は、北米、欧州、アジア太平洋の3地域に
それぞれ約30%ずつ埋蔵されています。

天然ガスは、中東に約41%欧州及び旧ソ連に約34%であり、
この2地域に埋蔵が集中しています。

つまり、現在考えられる化石燃料のうちでは、
石炭最も長く取り続けることができ、
且つ、その可採地を特定の地域に依存しなくてもよいということで、

可採地の確保の両面において、
最も安定した供給が可能であるということです。

もちろん、石炭を燃やせば亜硫酸ガスが発生し、
気管支喘息気管支炎などの障害を引き起こす可能性があるので、
その点は十分に配慮しなければなりませんが、

原発事故による放射能汚染と比べれば、
技術的な対処が可能である筈です。

そして、国内での雇用国民生活を考えれば、
火力発電所は現在の九つの電力会社に任せるのではなく、
地元の企業で行えるようにすればよい。

小さな発電所をたくさん作って、そこで地元の雇用を生み出し、
地域への電力供給という形で還元させていけば、
安定した産業となるでしょう。

今とは国民一人当たりの電力消費量も違うとは思いますが、
かつて日本には全国七百の電力会社があり、
石炭による発電だけで6,500万人の国民生活を賄えていたのだから、
やってできないことはない筈。

原発が止まる』 という不安煽るだけでなく、
また、そこから 『原発が止まったら不便でしょ?だから必要ですよね
と、原発依存型のエネルギー供給を、単にこのまま継続させるのではなく、

そろそろもっと具体的な形で、
これからのエネルギー供給の在り方について、
話し合う時期にきているのではないでしょうか。







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by hiro-ito55 | 2011-12-26 18:05 | 社会 | Comments(0)

ヒムロック

明日は、久しぶりに元同僚再会するのですが、
ついでに氷室さんのライヴを見に行ってきます。

ついで』 といっても、むしろこっちの方が圧倒的に重要で、
気分はまるで遠足前の小学生。

ふふふ(笑)...。(ΦωΦ)

今回の日本ガイシホールは、
2月のセンチュリーホールに続いて、今年2回目のヒムロック。

OPはいつもこんな熱い感じです。↓↓



他会場のセットリストを見ると、
BOØWY時代の曲も半分ぐらいあるようなので、
どんな盛り上がりになるのか、今から楽しみ。

ふふふ(笑)...。(ΦωΦ)







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by hiro-ito55 | 2011-12-22 20:58 | 音楽 | Comments(0)
作業療法士として働くようになってから、凡そ10年。
その間、様々なリハ職やスタッフを見てきました。

その中で、
お手々つないで仲良く』 
というスタイルで仕事をしている人間が
やたらと多いことにも気付かされました。

中には、『利用者さんが笑ってくれるから』という表面的な理由だけで、
未だに認知症のある方を
平気で『ちゃん付け』して呼んでみたり、
利用者の居宅のことを『おうち』と表現したりする方もいます。

或いは、認知症のある利用者に
『今日は何月何日でしょうか?』
『今朝のご飯、何食べたか覚えていますか?』

などと、本人に確認させながら
リハビリやレクをする専門職が、実際にいることにも、
正直驚かされます

彼らは、親しみを持って接している、
或いは、認知機能訓練と称して、
日時や場所の見当識、短期記憶に働きかけ、
歪んだ認知を正しい方向に修正しようとしているつもりでしょうが、

認知症の方へのこのような接し方は、
百害あって一利なしです。


ご存知のように、
認知症の症状には
中核症状と、BPSDがあります。

中核症状とは、
日時や場所が分からなくなる失見当識
ちょっと前のことを忘れてしまう短期記憶低下のことなどで、

BPSDとは、
暴言暴力無気力介護拒否といった、
昔は周辺症状や、問題行動と呼ばれていた症状のことです。


全ての認知症の方が、重度のBPSDに発展するというわけではなく、
認知症を抱えていても、へっちゃらな方もいます。

こういう方は、中核症状を気にせずに、
日常生活を送ることができている方です。

気にせずに生活できるということは、
それを 『問題視しないで済んでいる』 ということです。

認知症の方が、短期記憶の低下を自分で問題視していても、
周りの人間が、それを問題として取り上げて接しない限り、

それは、その人にとって問題として表面化、
つまり、日常生活に支障を来すような
重度のBPSDとして表面化する可能性は、
ずっと低くなります。

問題視しないで済む』とは、そういうことです。


中核症状を抱えている認知症の方にとって、
誰かに何かを聞かれて、答えることができない
或いは、間違ったことを答えてしまった
という喪失体験は、

自分が認知症であるということを
わざわざ確認させられる体験で、
気持ちの安定性を損なう体験です。

そしてもし、
答えられない・間違った』 という経験を
日常的に反復させられれば、それが強いストレスとなり、
将来的に、BPSDの増悪を招くことになりかねません。

認知症があるからといって、何も感じないわけではないのです。
むしろ、言葉や行動で上手く表現できない方が、
強いストレスとなるでしょう。

僕らでもそうです。
自分の分からないことを毎日確認させられれば、
誰だって嫌な気分になります。

認知症の方に、
『今日は何月何日でしょうか?』
『今朝のご飯、何食べたか覚えていますか?』

と訊くことは、
そのストレスを、わざわざこちらから提供しているようなもの です。

そして、
その反応も利用者によって様々なのは、当たり前のことです。

問いに上手く答えられる方もいますし、
笑って誤魔化す方もいれば、 
『ふ~ん』 と黙ってしまう方もいますし、
『そんなの知らん』 と<怒り出す方もいます。

利用者が笑ってくれるから、という表面的な反応が、
必ずしも利用者の喜びの表現であるとも限らないのです。



もし、認知症の方の中核症状を確認したいのであれば、
上記のような、それを問題視させるような訊き方ではなく、

今日は〇月△日です
今朝のご飯は〇〇が付いていましたね
といった『話題として』提供するべきです。

その上で、利用者の反応を見ればいいのです。

分からなかったり、思い出せなかったりすれば、
黙ってしまうかもしれませんし、
もし思い出せたなら、それに見合った反応が返ってくるでしょう。

その反応を見て、確認すればいいのです。

大事なのは、
中核症状の有無を 『問い』 という形で
認知症の方に投げかけないこと


問われれば、利用者はそれを 『問題』 として受け取ってしまい、
間違ったり答えられなかったりした場合に、
それを 『自分の問題点』 として解釈し、
そこから、BPSD増悪の可能性を高めてしまう
ということです。


そう考えると、
認知症の方への生活リハは、人間関係そのものである
ということが、よく分かると思います。

少なくとも、僕ら医療・福祉の専門職としては
これぐらいのこと理解しておいてほしいことです。

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by hiro-ito55 | 2011-12-18 22:09 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)
業務開始早々、利用者のこんな愚痴で始まる。

こんなに腰が曲がってきて...。鏡を見ると嫌になっちゃう。
 のそのそとしか歩けないし、長く歩くと足も痛い。
 歳をとるのって嫌なものね、先生。
 どうせなら、もっと若返ってちゃんとしたい。
 あ~あ、長生きなんてするもんじゃないわ
。』 などなど...。

間髪を入れない愚痴で始まった本日のリハビリ。

数週間前に、僕に 『自分史』 を貸して下さった
あの方です。

『自分史』 を書くぐらいだから、自尊心も強い。


ただ、僕に愚痴を聞いて欲しかっただけ
のようでしたが、

僕は、賢しら口にウソをつくことが嫌いだから、
思ったままに申し上げる。

自分のや、体の不自由さ戦おうと思ったらダメですよ。
 思ったら、負けますよ
。』 と。

すると、すかさず
じゃあ、どうすればいいの?』 
と、返ってくるので、

年齢や不自由さなんてものは、ホントは戦うべきものではなく
 うまく付き合っていく、そういうものだと思います
。』 
と、お答えする。

少し間をおいてから、
そうね、それがホントの前向きということよね。』
という返事が、返ってきました。

僕は、この言葉に、はっとさせられました。


実は、対人援助の仕事において、
相手の向上心を引き出すことと、劣等感を煽ることは、
紙一重ではないか、と感じることがあります。

向上心を上手く引き出して、
あるところまでは不自由さを克服できた場合、

達成したことは、確かに大きなことでしょうが、
じゃあ、達成できなかったものは、どう始末をつければよいか、

相手と接しているときに、迷うことがあります。

どうしても達成できないのは、仕方のないことです。』
もう少し早くからリハビリをしていれば...。』
などと説明すれば、

納得していただけるものなのでしょうか。

或いは、その後もまだ 『頑張りましょう。』 と、
相手に更なる向上心を求めていくのが、
良いのでしょうか。

しかし、これでは、
まるで終わりのない積み木のようです。


対人援助においては、
ひとつひとつ積み上げていく』 という加法だけでなく、

障害や衰えゆく身体、そういったものに対し、
利用者自身の方から、うまく歩み寄っていけるよう導いていく、

そういった、『融合を軸とする発想』 も、
僕らは最初から持っていなくては、ならないのではないか、

そう思います。

特に維持期においては、
例え不自由さは残っていても、
前向きな姿勢を持っていられることが、
その人の自尊心自分らしさを、持続可能なものにします。

融合を軸とする発想には、そういった姿勢を引き出す
積極的な意味合いも含まれています。

そのためのADL練習であったり、
機能訓練であったりするわけで、

けっして、年齢や衰えゆく身体といった、
勝つことができないもの克服させるために、
それらをするわけではない。

これは、向上心とは異なる前向きさです。

それを引き出すことも、
作業療法士の対人援助の基本の基本であると、
改めて教えられた気がしたのです。







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by hiro-ito55 | 2011-12-16 00:28 | 作業療法 | Comments(0)

南極大陸

木村拓哉主演、日曜劇場 『南極大陸』。

来週最終回ですが、僕も毎週楽しみにして観ています。
あぶ刑事』 の頃から柴田恭兵の大ファンなので...(^_^;)

このドラマは実話を題材にしたフィクションですが、
日本がんばれ』 という、
メッセージ性の強い作品だなと感じています。


調べてみると南極観測は、
当時、敗戦国日本復興を掛けた
一大プロジェクトであったようで、

観測船宗谷出港の日(昭和三十一年十一月八日)には、
東京晴海埠頭一万人の人が
見送りに集まったそうです。

舞台は昭和三十年代の日本。
現代から見れば、やや牧歌的な雰囲気の漂うこの時代、

敗戦国日本の誇りを取り戻そうと、
南極観測のために、全国から千社以上企業が参加し、

また、朝日新聞などが紙面で一大キャンペーンを張ったことで、
大人から子供まで、
全国十万人以上の方々から、募金も寄せられたようです。

南極観測のため、ブリュッセルで開かれた国際会議の場で、
日本に割り当てられた観測地点は、
南極東部のプリンス・ハラルド海岸

この場所は、それまでにアメリカイギリスなど、
当時、戦勝国と呼ばれていた国々が何度も接岸を試みて、
結局一度も成功したことのない場所で、

接岸不可能と呼ばれていた場所でした。

しかし、日本はこの不利な条件の下、
一度目の挑戦で接岸に成功し、
そこに観測基地まで建設してしまう。

しかも、そこで隊員が一年間越冬し、
数々の観測データを持ち帰ることに成功。

思えば、昭和五十九年、僕がまだ小学生だった頃、
世界初オゾンホール観測したのも、
この昭和基地でした。

その前年には、高倉健主演で 『南極物語』 も上映され、
僕の通う小学校では、
掃除の時間に、そのBGMが流されていたのを覚えています。

しかし、
僕らの世代が、もの心がついた
ちょうどその頃からでしょうか、

国民的規模の夢、
つまり、世代を跨いで共有することが可能な夢を、
一つの物語として描くことができる

そういう機会が少なくなっていったのは。

東京オリンピック』 『大阪万博』 『カラーテレビ』 
力道山の活躍』 『新三種の神器』....。

これらは皆、僕らの生まれる前の出来事です。


以前の記事で 『生きるとは語らうことだ』 
というようなことを述べましたが、

国民的規模で共通の物語を語れることは、
時に大きな力になります。

東日本大震災から九ヶ月。
震災前と震災後では、エネルギーの使い方から人との関わり方まで、
微妙に変化していくでしょう。

そして、
ここにも復興に向けた数々の物語が、息づいていると思います。

経済、スポーツ、文化....、
未来に向けて、
世代を跨いで共有できるような物語を、もし作ることができれば、

それがどんな物語であったとしても
それはきっと、大きな力になる気がします。

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by hiro-ito55 | 2011-12-14 00:39 | 社会 | Comments(0)

夕焼け

大学講義聴講の帰り道。

駅まで10分の道のりを歩いていると
赤く染まった夕空に気付く。
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歩道橋の上で足を止め、
『きれいだな。』 と思って
しばらく眺めていると、

ふと、頭の中にある歌が流れてくる。



この歌の歌詞に出てくるように、
夕焼け空 ホントにきれいだと思う。

な~んてね☆(^^ゞ







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by hiro-ito55 | 2011-12-09 21:49 | 音楽 | Comments(0)

諸行無常ということ

昨日の話の続きです。

先の東日本大震災に関連した 『復興の精神』 (新潮新書)
という本にも、
南直哉さん寄稿されています。


私にあったのは、断崖絶壁の端に立って遠くを見ているような、
なすすべのない空虚である。
それは、この問いに何も答えられない、という悲哀ではない。
答えを断念しなければならない、という無力さなのだ。

私は、彼らに届く言葉を持ち得ない。

死に、飢え、凍える者と、それを映像で見ている者を分かつ断絶が、
同時にその無根拠さを露わにするとき、
さすがに「愚かな」私も、「傲り」に気づく。

「傲り」とは何なのか。

この断絶の前で、臆面もなく理由を語り、解釈することである。
そして、この断絶の前の沈黙こそ、私がいま思う「無常」である。



南直哉さんは禅宗のお坊さんで、
禅宗では 『不立文字』 を説きますが、

南直哉さんの仰る、この 『断絶の前の沈黙』 という姿勢も、
それに根差したものでしょうか。

これには、
諸行無常』 の 『無常』 について、
よく考えてみなければなりません。


小林秀雄は、『私の人生観』 という随筆の中で
諸行無常について、次のように述べています。

諸行無常という言葉も、誤解されている様です。
「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し」
そういう風に、
つまり 「盛者必衰のことわりを示す」 ものと誤解されて来た。

因果の理法は、自然界の出来事のみならず、
人間の幸不幸の隅々まで滲透しているが、人間については、何事も知らぬ。

常無しとは又、心なしという事であって、
全く心ない理法というものを、
人間の心が受容れる事はまことに難しい事である、

私達の心の弱さは、この非人間的な理法を、
知らず知らずのうちに、人間的に解釈せざるを得ない。



なるほど、
無常なる現実の正体は、心がない現実であって、
人は、この現実を説明するために、
様々なをもって解釈し、説くことはできます。

しかしそれは、
無常なる現実に、直に向き合っていることではない
現実を受け入れることが困難な、
人間の弱さの現れ でもあるのです。


つまり、
仏教的解釈だの、
有識者や専門家の見解だの、
科学的な根拠だの、

そういった 『』 でもって、
尤もらしく解釈し、語ることは、
圧倒的な現実の前では、何の意味も持たない

私たちの理の及ばない 圧倒的な現実の前では、
人は 『なすすべもない空虚』 
つまり、『心がない』 ことを思い知らされるのであり、

それを忘れて、まずをもって処するのは、
ただの人間の驕りである。

そこに気付けば、自分はただ、
言葉を無くす瞬間に、立ち会っている』 のであり、

仏教者ではなく、
一人の人間として向き合う 『沈黙』 が、
そこにあるのではないか。

冒頭の南直哉さん言葉を、
僕はこのように受け取っています。







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by hiro-ito55 | 2011-12-05 10:12 | 哲学・考え方 | Comments(0)

老師と少年

先月 『Present is a Gift』 の510さんから勧められて、
南直哉さんの 『老師と少年』(新潮文庫) を購入。

とても薄い本なので、楽に読める
と、思ったら大きな間違い

良い本というものは、
読むたびに、読み返すごとに、違う意味を持ったり、
新たに はっと気付かされたりするもので、

そういう仕方で、自分を深化させるものです。

一度読んだだけで、
『なるほど』 と合点のいく本など、
実は大したものではない

だから、『老師と少年』 は、
購入してから繰り返し読ませて頂いています。


この本に登場するのは、
主に二人の人間。

少年が、老師の庵へ毎晩訪れ、
老師と対話します。

そこで少年は、
生きるとは何か』 『苦しみとは何か』 『老いるとは何か』 といった、
抽象的な問いを、老師にぶつけます。

老師は、少年のそれらの問いには直接答えず、
人間であることの大切さ』 を少年に問いかけ、
考えさせます。

老師は少年であり、
少年はまた、老師の苦しみでもあるのですが、

同時に、
彼らは読者自身でもあるのです。

少年の問いは、
明確な答を提示できるようなものではなく、
だからこそ、その問いは切実なのですが、

形而上学的な問題を、自分自身に置き換え、
日々の自分の経験に触れさせることで、

その問い自体の意味が変化し、深化し続ける。

そして、
自分の経験の仕方もまた、
少しずつ違った意味合いを帯びてくる。

そうやって、
自分の向き合う具体的な現実と照らし合わすことで、
この本は生きてきます。


少年の、
生きるとは何か』 『苦しみとは何か』 『老いるとは何か
といった問題を、
自分の内発性に委ねることができず、
理性でもって向き合わなければならないのは、
現代人不幸であり、苦しみであるのでしょう。

その苦しみの種は、
近代思想の祖といわれる ルネ・デカルトの時代から
既に蒔かれていると思うのですが、
その話は、また別の機会にしたいと思います。

『老師と少年』(新潮文庫)
興味のある方は一度読んでみて下さい。

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by hiro-ito55 | 2011-12-04 16:06 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー