考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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 『糸』





自分がなぜ生まれてきたのか

人生経験というものを一切排除した
根源的なところで、この問いに向かい合っても、
誰も答えることはできません

自分の意志で生まれてきた人など
ただの一人もいないのだから。

でも人間は、色々な人と巡り合ううちに、
時に、生まれてきた意味を問われる
きっかけのようなものを与えられる、

そういう出会いがいくつもあります。

仕事においても、
もし自分がここにいなければ、
この利用者と語り合うことはなかったであろうという
そういう偶然を考えてみても、
そのような出会いはいくつもあります。


先生のことは生涯忘れんよ

その言葉を、ただのお世辞ではなく
真剣に受け取ることができれば、お互いに語り合うこともでき、
やがてそれは、人と人との物語となります。

そして、
人間だけがなぜ、そんな物語と出会うのか。

それは恐らく、
僕らが、言葉というものを持ったからでしょう。

人間が言葉を持たなければ、
何も自分の存在の根源的な命題について、
真剣に考えることもなかったでしょう。

でも、なぜ言葉を持ったのかということには、
だれも答えることはできません。


言葉を持つということは、
相手と 『語らう』 ということです。

語る』 のではなく、
語らうこと』 で言葉というものは生きてくる。

自分一人のことを自分一人で考えるだけなら、
自分自身が合点していればいいだけのことで、
だれに伝えるわけでもない。

誰かに伝えなければならないから、
言葉というものが必要になる。

言葉は、
そのように、『語らうため』 に僕らに与えられています。

では、何を語ろうとしているのか。

人間は、誰一人として
自分の意志で、自主的に生まれることができず、
誰もが生かされている
そういうものなら、

語らうことは全て、
生かされていることを確かめるための物語です。


僕らが語らうために、誰と出会うのかは分からない。

それは、何故生まれてきたのか
誰一人として、根源的に知ることができないのと同じように、

だれと語らうかどんな物語を語り合うかを、
誰かと語り合う前に、予め知ることはできない。

そこに、
人生の不思議があるのかもしれません。





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by hiro-ito55 | 2011-10-29 02:14 | 哲学・考え方 | Comments(2)
人間には向上心というものがあります。

しかし、仕事や趣味についても、過剰な向上心を持つ人は、
諦めることを、一時的にしろ人生の敗北負のイメージ
容易に結びつけて捉えてしまいます。

人間には誰しも無限の可能性がある。
努力すれば自分の願いは必ず叶うはずで、
そのためには、絶対に諦めてはならない
。』

というのが、現代における支配的なイデオロギーです。

学校教育も、メディアも、
人間の向上心を煽り立てることに、余念がないかのようにみえます。

僕自身も、
そんなに努力もしないで諦めてしまうのか。』 と言われるのが嫌で、
ついつい頑張ってしまうのですが、

努力も度が過ぎると、
一種の 『執着』 に変わってしまうということも、
最近になって、少し解り始めるようになってきました。


過剰な向上心は人間の 『』 ですが、
人間の欲を満足させることと、テクノロジーの発達は、
恐らく無関係ではないでしょう。

テクノロジーの本質が、
僕らが今よりも、もっと豊かな生活を送るために存在する道具』 で、

テクノロジーの発達が、
それを使役する人間の、向上心という欲望に支えられている以上、

テクノロジーを使役し、更に発展させていくことは、同時に、
人間の向上心という欲望の、不完全な部分を補完し、
これを充足させていくことでもあるのです。

その意味において、
テクノロジーの発達は、人間の向上心の
あるひとつの産物なのだと言えるでしょう。

今日、あらゆる分野で豊かになった僕らの生活というものは、
人間の向上心によって支えられてきたと言っても、
過言ではないのです。

そして、
向上心というものが支配的な価値観を持つ社会では、
諦める』 ことは、一種の罪悪感を伴うものです。


現に、他人から
君には向上心というものが無いのか。』 
と言われると、誰でもカチンときます。

皆が向上心でもって立ち向かっているのに、
自分だけ 『諦め』 という態度をとることは、
自分には価値がない』 という
人間の虚脱感・無価値感増幅させるからです。

しかし、見方を少し変えてみると、
諦める』 ということには、ものに対する『執着』 を捨て、
この自分の無価値感も含めて、現在の自分の 『苦悩』 を引き受ける

という、
肯定的な意味合い』 も含まれているのではないでしょうか。

つまり、
自分一人ではどうにもならない不条理を、
その身に引き受けるということで、

それは、同時に
自分以外の 『』 の存在に対する 『気付き』 の始まりである
と言うこともできます。


人間は誰も、自分一人の力だけで生きていくことはできません。

誰かから支えられたり、
或いは何かの影響を受けたりしながら生きていく、
そんな風でしか、生きられない。

過去、現在、未来。
いつの時代においても、自分というものは
いつも自分以外のものからの支えや、力の中にいた(いる)筈で、
それは、健常な精神の持ち主であれば、誰でも気付くことです。

人生における苦悩の多くは、
執着と不条理との闘いである
ということに、集約され得るのかもしれませんが、

諦めるということも、その存在に改めて気付くということです。

そして、
自分以外のものから届く支えや力が、
自分の向上心に、常に沿ったように働くとは、
必ずしも言えないものである、

という、
その力の持つ不条理さを目の当たりにして、
これを引き受ける ということだと思うのです。

諦めるということには、
そういった、『自分の現状を肯定する』 という、
積極的な意味合い』 も含まれているのではないか。

これは、紛れもなく健常な精神の働きで、
自分というものを無条件に基礎づけているものへの気付き
に繋がります。

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by hiro-ito55 | 2011-10-23 18:35 | 哲学・考え方 | Comments(0)

天一ふたたび

世の中には時々、
どうしても食べたくなる食べ物というものがありまして、

またまた来ちゃいました、『天一』 に。
遠路はるばる愛知から。
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今回、オーダーしたのはチャーハン定食
もちろん、『こってり』 で。
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関係ないですが、
あのベッキーも応援しているみたいです。
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んで、今回はちょうど
2011天下一品祭り』 なるものが開催中とのことで、
クジを引かせてもらえました。

普段はクジなんて当たらないのに、
今回は 『当たり』 が出たので、何かなとワクワク(笑)。

当たった景品は、直径11cmの 『小どんぶり』 なるもの。
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開けてみた。
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なかなか かわいらしい。


載せるものがなかったので、試しにミニトマトを。
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ん~.....、 微妙だな。(;一_一)





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by hiro-ito55 | 2011-10-22 20:46 | ラーメン | Comments(0)
あまり一般的な方法ではないかもしれませんが、
僕はリハビリを行なうとき、
その人の 『動作』 をただ見ることから入ることがあります。

部分的に不整合のあるものはそのままにして、
全体のバランスでまず見る。

よく観察してみると、
動作には、その人の持っているというものが必ずあります。

それは、と言ってもよいものかもしれませんが、
できるだけ利用者の現在行なっている動作の型を活かして
それを、より自然に行える 『所作』 のようなものに
新たに作り変えることができたとき、

それが、もっとも無理のない、
バランスの取れた動作になり得る
というのが、僕の経験知だからです。

というのは、
その人の手なら手、足なら足といった局所的な身体を含めて、
或いは、杖だとか床だとかそういった周りの環境

その人がどのように折り合いをつけて、
意識して、または闘っているか、
その全体の流れのようなもののことです。

これを、利用者が自然に行なえる動作
つまり、
その人の所作として、上手く馴染む動作に持っていくことが
型を作り替えるということです。

身体の一部分をいつも力ませていたり、
或いは、杖などの補助具に過度に依存したりして行なう動作は、
自然に行なえている動作とは言えません。

自然に行なえるということは、
その力の偏重部分矯正するのではなく、
その偏った力を、身体の他の部分や、身体の外にある環境に
上手く分散させられることです。

なるべく均等に力を分散させることができれば、
どんなに不格好に見えても、
それがその人の 『動作の型』 になります。


所作というのは、云わばその人の身体に染みついた動作の型です。
それは、身体性を持った動作と言い換えることもできます。

動作が身体的であるのは当たり前のことだ
と仰る方もいるかもしれませんが、

身体的であることと、身体性を持つということは
たぶん別のことです。

動作自体が主張するような動きは、身体的な動きであって、
例えばそれは 『力み』 という形で表面化します。

つまり、
動作自体が身体に馴染んでいない不安定な運動が、
身体的である動作です。

所作として、動作が身体性を持つということは、
この不安定な運動を安定させることであり、

安定させるということは、
一部に偏った力を、分散させるということで、
それは型として安定させるということです。

には、昨日の今日といった、
インスタントに身に着けたものではなく、
その人の動作の積み重ね
つまり、生活としての歴史を伴います。

この、動作としての歴史を伴うことが、
身体性を持つということです。

僕は、身体的であることと、身体性を持つということを
このように区別して捉えています。

何故、区別するかといえば、
できるADL』 と、『しているADL』 の区別が
ここにあると考えるからです。


僕らがリハビリで利用者を治療して、
歩行なら歩行で、それができるようになるとすれば、
それはそれで大変喜ばしいことです。

僕らは、リハビリで得られる効果を生み出すために、
日々、切磋琢磨しているのであり、

ちょっと経験を積めば、
それなりに効果が生み出せるようにはなってきます。

例えば、リハビリの時間にセラピストに手伝って貰いながら、
なんとか歩くことができるようになることがあります。

しかし、それで終わってしまっては意味がなく、
リハビリの時間が終わって、
セラピストのいない所でも
利用者が利用者自身の力でできるようになる、

つまり、『しているADL』 を指すのですが、
動作を身体性を持つ方向へと近づける、
そういう馴染みの動作へと導いていけるのが、
本当に良いリハビリであると考えています。

或いは、どんなに不格好な姿勢でも、
それが、その人の生活の中の動作として、
その人自身が工夫したものであり、
その人にとって違和感のない動作であれば、
それも動作としては 『あり』 かもしれません。

言い換えれば、
できるだけ、その人の持っている動作の癖を包含しながら、
所作という型として昇華されること、

つまり、その人の動作の癖積極的に肯定し、
動作が身体性を持つ方向へと導いていくこと、

これが、
できるADL』 を、『しているADL』 に繋げるための
最も近道であるし、

そういう方向へと導いていけるのが、
本当に良いリハビリであると考えています。

勿論これには、
動作ごとのマニュアルというものは存在しないので、
話はどうしても抽象的になってしまいますが、

今の僕に、ひとつだけ確かに分かるのは、
ひたすら、動作を全体的に捉える経験
積んでいくしかないということで、

それは、
セラピスト側が提供する正しい方法の押しつけ、
或いは、動作を身体的矯正するような観点では、
持続可能な動作の獲得には難しかろう という直覚です。


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by hiro-ito55 | 2011-10-18 21:41 | 作業療法 | Comments(0)

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施設で行なう介護・医療サービスのうち、
しっかりとした生活介助と支援を受けていれば、

最低でもレベル②の欲求まで 
(つまり、生物体としての基本的な欲求まで) 
は、満たすことができます。

しかし、これは 『生物としての最低限の欲求』 ですので、
介護・医療のサービスの主目標が、
これを満たすだけのものであっては、
けして充分なサービスとは、いえないでしょう。

何故なら、人間は更に上の欲求、つまり、
親和や自我や自己実現の欲求の充足を目指す 
社会的生物』 でもあるからです。


例えば、衣・食・住は満たされてはいるけれど、
それを毎日、ひとりぼっちで繰り返している生活
というものを、想像してみて下さい。

誰かと何かを分かち合うことが出来ず、(親和の欲求⇒×
好きなことに打ち込むことが出来ず、(自我の欲求⇒×
他の人から、けして認められることがない毎日。(自己実現の欲求⇒×

そのような生活は、
人間らしく生きているとは
けして言い難いものがあります。

ですから、
僕らの提供する介護・医療のサービスというものは、
レベル③~⑤の 『社会的生物としての欲求』 も、
同時に満たすものでなくてはならず、

それができなければ、
けして充分なサービスだとは言えないのです。


何のためにレクリエーションをやるのか。
 何のために施設行事に参加していただくのか
。』

もし、それが分からずに迷ってしまったら、
利用者さんの、
親和や自我や自己実現の欲求 (つまり社会的生物の欲求) 
を充足させることを、考えてみては如何でしょうか。

そのためのレクリエーションであり、
作業活動であり、施設行事であり、
生活リハビリである

と、考えることができれば、
一応は理論的な裏づけをもって、

なんとなく行なっている日々の業務
見直しを行なうこともできます。


マズローの理論は、
介護職の方も、介護福祉士の資格を取るために勉強するらしく、
彼らにとっても、お馴染みの理論のようですが、

この理論を自分たちの仕事に照らし合わせ
それと結びつけて考えることが
なかなかできない方も多いようです。

マズローの欲求五段階といわれても、ピンとこない。』 
というのが、正直な感想かもしれませが、

こうやって考えれば、
マズローの理論も、けっこう現場で使えるものかもしれません。





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by hiro-ito55 | 2011-10-10 16:20 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)
今回は、僕ら医療・介護の専門職が、
日常の仕事において目指すところを、
マズローの欲求五段階』 から、考えてみたいと思います。

アブラハム・マズローは、アメリカの心理学者で、
彼が提唱した人間の 『欲求五段階』 とは、
以下の図で表記されます。

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マズローによれば、
人間の欲求は、
上記で表される、五つのステージに分類することができます。

この図を見ると、
生物体として最も基本的な欲求であるレベル①から、
最も高度な欲求であるレベル⑤まで、

各ステージ毎に、
欲求のレベル分けがなされているのが分かります。

また、
レベル①~②は、生物体としての基本的な欲求で、
レベル③~⑤は、社会的生物としての欲求
と、一応分けることもできます。


そして、例えばこの欲求を、
老健の利用者さんの生活に当て嵌めて考えてみると、

①生理的欲求 :生物として生きていくための最低限の欲求          
           ゆっくり寝たい、ごはんをお腹いっぱい食べたい

②安全の欲求:毎日、安心して生活できる居住環境にいたいという欲求
          自分のできないことは、しっかりと介助をしてほしい

③親和の欲求:誰かとコミュニケーションを取りたいという欲求
 社会的欲求) 誰かと一緒の、何かに参加したいという欲求          
          レクやクラブ活動、アクティビティーなどへ参加したい

④自我の欲求:他者からの賞賛を求める欲求
 自尊欲求)  自分のできることを他者に褒めてもらいたい
          自分のこれまでの経験を誰かに話し、認めてもらいたい


⑤自己実現の欲求:自分の能力を発揮し、自己の成長を図りたいという欲求
           活動に参加して、自分で作った作品を完成させたい

といったところでしょうか。
(もちろん、他にも例はあると思います。)


マズローによれば、人間の欲求というものは

①が満たされて初めて②を満たすことができ、
②が満たされることによって、初めて③が、
次いで、④、⑤と


順を追って、段階的に満たされていくものである
としています。

順を追って段階的に』 ということは、
例えば、
①の生理的欲求は満たされているが、
②の安全の欲求が満たされていなければ、

③の親和の欲求や、④の自我の欲求は、
充分に満たすことはできない


ということです。


例えば、
お腹いっぱい食べられる 生理的欲求⇒〇) が、
安心して過ごせる環境になければ 安全の欲求⇒×) 、

レクやアクティビティーに参加したいだとか (親和の欲求) 、
クラブ活動で作品作りに打ち込みたい 自我や自己実現の欲求
という気にはなれない

ということです。


人間の全ての欲求が、
このように、段階的にきっちりと満たされながら、
次のステージに進んでいくわけではないにしろ、

医療・介護のサービスにおいて、
利用者さんの欲求を、段階を追って満たしながら、
より人間らしい生活を維持したり、
或いは、それに近づけていったりする、

そのためのひとつの指標として、
参考にすることはできるでしょう。

また、
これを効果的に進めていくためには、
リハとそれ以外の他職種が、
協力して取り組む姿勢が大切であるのは、言うまでもありません。







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by hiro-ito55 | 2011-10-05 20:28 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

ペニーレインでバーボン



詞:吉田拓郎 / 曲:吉田拓郎

時がたってしまうことを
忘れてしまいたい時があるよね
すべてのものがなにもかも
移り変わってはいるものの

何となく自分だけ意地をはり通して
さからってみたくなる時があるよね

※そんなとき僕はバーボンを抱いている
どうせ力などないのなら
酒の力を借りてみるのもいいさ
こうして今夜も原宿ペニーレインで
原宿ペニーレインで飲んだくれてる
ペニーレインでバーボンを
ペニーレインでバーボンを
今夜もしたたか酔っている※


恋人の顔なんて
思い出したくない事があるよね
まして逢いたくなる程の
気持ちもわかない一日なら

自分一人で歩いていたい
表参道ならなおいいさ
(※印くりかえし)


テレビはいったい誰のためのもの
見ている者はいつも蚊帳の外で
気持ちの悪い政治家どもが
勝手なことばかり言いあって

時には無関心なこの僕でさえが
腹を立てたり怒ったり
(※印くりかえし)


あまりに外は上天気すぎて
雨のひとつも欲しくなり
こんな天気は僕には似合わないんだと
肩をすぼめて歩くとき

陽気に生きて行く事が
何んだかみっともなくもなるよね
(※印くりかえし)


みんな みんな いいやつばかりだと
おせじを使うのがおっくうになり
中にはいやな奴だっているんだよと
大声で叫ぶほどの勇気も無し

とにかく誰にも逢わないで
勝手に酔っ払っちまった方が勝ちさ
(※印くりかえし)




僕らの仕事は一般企業のような、
常に利益追求を意識して仕事をしなくても、
なんとか成り立ってしまうことが多いもので、

そのせいか、
自分の主観的願望客観的事実
混同して仕事をしている方もいます。

自分の思いだけで突っ走ってしまう方に
客観的な事実からいくら説得を試みても

逆に感情的に開き直られ
説得が徒労に終わることが多いものです。

そんな方には、
鬼神は敬して これを遠ざく
の心構えで接すれば、
全く問題なく仕事を進められるので、

主観的願望の下、
どんどん突っ走って頂いて結構なのですが、

その思いを他人にまで押し付ける方には
注意が必要です。

特にそれが自分の上司となると、
話はとてもやっかいなものとなります。

そんなとき、
僕はよくこの歌を聴きます。

酒が呑めない僕でも、
一杯ぐらい引っかけてしまいたくなる時もあるのです (^_^;)。

そして、
呑めない酒を無理やり呑んでしまったとき、
小林秀雄次の言葉を思い出すと、
気持ちを再び引き締めて、眠りにつくことができます。


心が傷つくということはなかなか大したことであって、
傷つきやすい心を最後まで失わぬ者は
決してざらにいるものではない。

しかし、
自己嫌悪とは自分の一種の甘え方だ。
もっとも逆説的な自己陶酔の形式だ。





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by hiro-ito55 | 2011-10-02 21:53 | 音楽 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー