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月の呼び名

『十五夜お月さん』    野口 雨情

十五夜お月さん 
御機嫌さん
婆やは お暇 とりました

十五夜お月さん
妹は
田舎へ 貰られて ゆきました

十五夜お月さん
母さんに
も一度 わたしは 逢いたいな。



強烈な日差しが照りつける季節は過ぎ去り、
季節はいつの間にやら

夏に主役だった太陽が、その勢いを弱め、
秋は月が主役になる季節です。

そういえば、古来より、日本では月を愛でる習慣がありました。

仲秋の名月に、ススキや団子、里芋などをお供えして、
収穫に感謝したり、願い事をしたりするのは、その一例です。

そして、月に関する呼び名が多いのも、日本文化の特徴です。

新月、三日月、十五夜、満月
これは誰でも知っている月の呼び名ですが、

その他にも、月の変わりゆく姿に合わせて、
それぞれに呼び名があります。

思いつくままに挙げると、
いわゆる新月である、朔(さく)から始まって、
眉月(まゆづき)、 上の弓張(かみのゆみはり)、
十三夜、  待宵月(まつよいづき)、
十五夜、  十六夜(いざよい)、
立待月(いまちづき)、  寝待月(ねまちづき)、
更待月(ふけまちづき)、  真夜中の月、
三十日月(みそかづき) etc...。



朝鮮半島にも、 『秋夕(チュソク)』 という
十五夜(いわゆる満月)を祝う観月行事もあるようですが、

月の見え方に合わせて、これだけ多くの呼び名があるということは、
日本人がそれだけ月に親しみを持っていた
という何よりの証拠です。

月や自然に親しみを感じ、そこに息吹を感じる在り方は
自分たちが自然と共にあるという在り方、

つまり、人間と自然の間に
繋がりや通いを感じる在り方です。

自然から一段高い位置に人間を据えて、
そこから自然を気遣った感じ方、
或いは自然をコントロールしようという在り方では、

このような、歪形の美という美意識は現れません。


秋の夜長に読書もいいですが、
ただじっと穏やかに
月を眺めてみるのもいいかもしれません。

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by hiro-ito55 | 2011-09-27 00:19 | 日本人 | Comments(0)

脳死について (再録)

昨日の記事で、脳死と臓器移植について書きました。

脳死を人間の死と判定することが可能であるのは、
人間の死の不可逆性を科学で証明できたからですが、

ラザロ兆候というものがあり、
これは臓器摘出時に、脳死者が手足を激しく動かす不可解な現象で、
その臨床報告もなされています。

ラザロ兆候は、
脳死者に物理的な刺激を与えることで脊髄反射が起こり、
その結果、四肢が動いたり血圧が上昇したりする

というのが科学者の間では定説となっているようですが、

個人的には、人間の死というものに対しては
倫理的観点も含めて慎重に向き合うべきものであり、
もっとデリケートに扱うべきものであると思います。


この脳死の問題に対して、
僕は一年前に記事を書いていました。

思えば、第一回目の記事
このような重いテーマだったのですが、
基本的には、今の考えと大きくは違わないので、
今回はそれを再録しておきます。


僕が 「脳死」 に違和感を持つのは、
一言でいってしまえば 
『「脳の死」という一点で、人の死を規定してしまって良いものなのか』
ということです。

また、倫理的観点から言えば、
臓器提供されるために脳死を待つということは、

他人の死を待つということですから、
それは仏教における 「迷い」 に当たるのではないか
という意見も一部であるようです。

そもそも、死は生の一部であるという捉え方が、
長い間日本人には一般的だった
という話を聞いたことがあります。

ですから、長い間、「死」 自体
或いは死を含んだ 「生」 までもが
「割り切れないもの」 
として捉えられてきたのではないでしょうか。

その証拠に例えば、死をゆっくりと受け入れていくために、
「初七日」 や 「四十九日」 があり、

そういった一種の割り切れなさというか、
智慧みたいなものが、
死という在り方自体に含まれていたと想像できます。


そこで、今回のテーマですが、

脳死を人の死とすることは、
この割り切れない死と生の境界を、
科学的観点という 「線」 で無理やり明確化し、

我々が無意識的にも抱いている、
死を生の一部と捉える割り切れなさを、
無理やり割り切らせようとする行為
であるように、少なくとも僕には感じられてしまいます。

更に、「死」 を科学的観点という一点で規定してしまうことで、
ちょうど合わせ鏡のように 
「生」 も同じ観点で規定されてしまうのではないか、
と思えてきます。

つまり、科学的に 「死」 を規定すれば、
「生」 も科学的に計量化されてしまう

この問題は、そういう危険性を含んでいるように思います。

むしろ、こっちの方が恐ろしいかもしれません。

「いかに生きるか」 「いかに死と向き合うか」
といった個人個人の価値観に還元される
そういう性質のものに、

科学的に、或いは一元的に線を引いてしまうことは、
非常に危険な風潮のように思われるのです。


そういえば、
「心身一如観」を採用してきたのも日本人ですが、

日本語の中には、「身にしみて」 
或いは 「他人の身になって」 という表現があります。

これは 「全体的な存在になって思う」 という在り方であって、
「他人の身になって」 の 「身」 というのは、
単に英語で表現される 「Body」 のことではありません。

この 「全体的なものになって思う」 という心身一如観のあり方にも、
「心と身体」 という二元論からの観点では説明できない、
割り切れないものが多分に含まれていますね。


さて、少し話は逸れましたが、
極論を言ってしまえば、

現代において死や病とは 「事故」 であり、
「科学の敵」 です。

これは、死や病を戦うべき対象と規定し、

医療とは、
死や病という 「科学の敵」 に対し行なう 「戦争」 である
というような捉え方です。

そして、戦うべき対象と規定すれば、
次に、これをいかに、どのようにして克服するべきか
に主眼が置かれます。

これは何も医者の側に限ったことではなく、
それと向き合う患者さんも
死や病と戦うことを強制されていますし、

それを半ば当然のこととして受け入れているのが現代です。
(受け入れざるを得ないのかもしれませんが)

でも、本当に死や病とは敵であり、
単に戦う対象であるべきものなのでしょうか。

ここに脳死判定の是非も含めて、
人間の生死という問題を考えるとき、

そこに科学技術が深く関わっていることが、
この問題の根底を成しているように思われます。


科学技術は人間の役に立つために存在するものですから、
M.Heidegger的な表現を用いれば、

臓器までも 「人間に役立つ部品である」 
と捉える観点になっても不思議ではありません。

しかし、
臓器が 「役に立つという在り方」 においてのみ顕わになっていれば、

やがて役に立つこと以外の可能性や姿を追い払って
忘却せしめることに繋がります。

つまり、脳死を人の死と定めることは、
人の臓器も 「何かの役に立つ」 という点でしか注目されなくなる
ということに繋がりかねないということです。

この観点においては、当然人間の体は人間の体として、
死は死として守られなくなります。

そしてそれだけに留まらず、
人間がこの科学技術の持つ 「役に立つという在り方の連鎖」 
に加担していくことは、

更に 「何かの役に立つ」 という
技術の本質を手助けするように次々と用立てられていくのです。

一元論の本質は、
そのように連鎖的に関わるよう構造化されているのです。

これを、Heideggerは 「Gestellenの連鎖」 と表現しました。


科学的な観点からのみで人の死を規定するのは、
間違いなくGestellenの連鎖の中にいるからです。

そこに、僕はこの問題の根っこを感じます。


これに抵抗を感じるのは、
あらゆるものとの距離感や、融合の軸を大事にしてきた、
日本人としての抵抗感かもしれません。

また現代においては、この流れとは逆に、
「尊厳死」 ということが盛んに言われているのも事実です。

かつては 「死は尊厳である」 ということは
当たり前であったのかもしれませんが、

尊厳死が取り沙汰される現代は、
死は死として守られ、
死が死としてありうる場が開かれていないのかもしれません。 

むしろ死や病は敵であり、戦う対象である
というネガティヴな視点から見ているため、

守るというよりも、
克服するべき、或いは打ち勝つべき対象
として捉えてしまいがちなのではないでしょうか。

しかし、このように
生と死を二項対立的に捉える考え方は、
元々日本人には、あまり馴染まないように思うのですが
如何でしょう。

 
以上、内容の薄いまま、
脳死や人の死について思うことを
素人的につらつらと書いてみましたが、

要するに人の生や死というものについて、
もっと時間をかけて考えてもいいんじゃないかということです。

人間は 「心」 という厄介なものを抱えていますから、
それは哲学的、或いは宗教的になってしまうかもしれません。

ですが、それでいいと思います。

いつか、
科学とそれらが上手く統合するような観点が生まれれば。

というか、そう願ってます。


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by hiro-ito55 | 2011-09-20 22:10 | 社会 | Comments(0)

18歳未満からの臓器提供2例目


2011年9月4日付の中日新聞社会面に、次のような記事があります。


18歳未満の脳死2例目 関東の病院 家族が臓器提供承諾

日本臓器移植ネットワークは三日、関東甲信越地方の病院で
入院中の十五歳以上十八歳未満の男性が
法的に脳死と判定されたと発表した。
四日に臓器を摘出、各地の病院で移植される予定。
(中略)
男性の原疾患は頭部外傷で、臓器提供の意思は不明だが、
家族が判定と提供を承諾した。
(中略)
2010年7月に施行された改正臓器移植法は、
虐待を受けた十八歳未満が提供者になることを防ぐとしている。
今回は、提供病院の虐待防止委員会などで
虐待を受けた疑いがないことを確かめたという。

本人が提供を拒否していなかったことは、
家族の話などから確認したとしている。
移植ネットによると家族は
「本人が元気なときに臓器提供関連のテレビを見て
『死んでも人の役に立つなんてすごいよな』 と話していた。
意思表示をしていなかったけれど、(提供を)希望したと思う
と話したという。
(後略)



今回の事例で臓器提供が行われる法的根拠は、
文中にもある 『2010年7月に施行された改正臓器移植法』 です。

それによると、

医師は、次のいずれかに該当する場合には、
移植術に使用されるための臓器を、
死体(脳死した者の身体を含む)から摘出することができることとした。
(第六条第一項関係)
(中略)
死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を
書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合
以外の場合であって、
遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき。
(平成21年7月17日付 官報より一部抜粋)


とあります。


中日新聞の記事が、
日本臓器移植ネットワーク臓器提供病院発表
ほぼそのまま記載しただけのものであることにも驚きですが、

調べてみると、
朝日、産経、毎日、読売の各紙 (いずれも電子版) にも、
今回の事例についての記事が掲載されています。

毎日新聞(電子版)によると、
今回提供される臓器は、
心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓、小腸 の六つの臓器であるようです。

臓器移植法が改正されてから、
15歳未満の子どもが脳死を判定された事例は
全国で51例あるようですが、

そのうち、実際に臓器提供が行なわれたのは1件だけです。

大半は家族が臓器提供を望まず、
臓器移植が見送られているようです


ですから、18歳未満の臓器提供は、
今回が2例目となるのですが、

問題なのは、事例の多寡ではなく、
本人が元気なときに臓器提供関連のテレビを見て、
すごいよな』 と発言したことを家族から聞き、

それが、臓器提供を行なう際の、
法的根拠に成り得るという事実です。


たったこれだけのことが、法的根拠に成り得るのです。


少年のその 『すごいよな』 と発言したこと自体が
本当に事実であったのかどうかの検証すら行なえずに、

或いは、その発言が事実であったとして、

そのたった一回の発言が、
自分も臓器提供をすることに賛成である
拡大解釈できるのかどうかの検証も行なえないにも拘らず、
臓器提供が行なわれてしまう

というのが、
今回の記事で明らかになったことです。


特に十代の頃は多感な時期でもあり、
自分の考えが、ある些細なことをきっかけに
右から左へと大きく変わってしまうことはよくあることですし、

いろんな疑問が頭を過ぎって
どのように判断してよいのか分からず
自分の態度を決めかねていることの多い時期です。

人生経験が少ない以上、
物事の価値を決めるための判断に迷うのは、
半ば当たり前のことです。

しかし、法律は例え未成年者であっても、
この 『迷い』 を考慮してくれません。

臓器提供可否の意思表示
書面ではっきりと示していなければ、

提供への判断にまだ迷っていた段階であっても、
或いは、提供は嫌だなと思っていたとしても、

このように判断されてしまう可能性があるのです。

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by hiro-ito55 | 2011-09-19 00:21 | 社会 | Comments(0)

下地 勇・おばぁ


 

僕は学生の頃
沖縄の具志川市にある精神科病院
作業療法の実習生として、
2か月あまり勉強させていただいたことがあります。

その病院では、毎週 『音楽を聴く会』 という、
入院患者を対象にしたレクリエーションがありました。

そこで、毎回決まって同じ歌をリクエストして
静かに泣いていた70歳代の女性

その歌が、この下地 勇の 『おばぁ』 という曲でした。

しかし、宮古島の方言で歌われているため、
僕には歌詞の意味は全く分かりませんでした。

沖縄本島言葉とはまただいぶ違うようで、
病院スタッフにも色々と訊いてはみましたが、
結局、歌詞の詳しい内容までは分かりませんでした。

それでも、メロディーがとてもきれいだったので、
バイザーにお願いして、実習の記念にと
CD-Rに一枚焼いていただいたことがあります。

そして、You Tubeでこの映像を見つけて、
今になってようやく歌詞の意味が分かりました

改めて聴くと、
とてもあったかくて、切ない
なんとも言えない美しい曲です。

あの女性患者さんも、
この曲に出てくる 『おばぁ』 と
同じような経験をしていたのかもしれません。




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by hiro-ito55 | 2011-09-15 19:35 | 音楽 | Comments(0)

退所後、在宅復帰できるのは...

前に、 
『高齢者在宅生活の方向性』 (2011年8月17日) と
『在宅復帰支援 < 家族のレスパイト』 (2011年9月5日)
の記事の中で、
老健の在宅復帰率が低いということを、チョロッと書きました。

実際には、どのくらいの在宅復帰率であるのか、
今回はそのデータ的な部分です。

少し古いですが、厚生労働省の 
平成19年 介護サービス施設・事業所調査結果の概況
という報告書に、
そのデータが記載されています。

ここでは、
老健に入所する前の場所も、併せて記載されています。


それによると、
             母数:16,358人
(入所前の場所)  ⇒   (入所) ⇒  (退所後の場所)
家庭:34.0%
                 家庭:31.0%  
介護老人福祉施設:1.1%         介護老人福祉施設:8.5%  
介護老人保健施設:6.3%         介護老人保健施設:7.0%
その他の社会福祉施設:0.3%      その他の社会福祉施設:1.9%  
医療機関:53.5%              医療機関:45.3%  
その他:4.8%                死亡:3.8%  
                         その他:2.4%

  ・医療機関 ⇒ 医療機関 :32.3%
  ・家庭   ⇒ 家庭   :21.2%
  ・家庭   ⇒ 医療機関 :8.0%


となっています。


家庭からの入所者が全体の34.0%で、
家庭から入所して、家庭に戻ったのが21.2%です。

つまり、家庭から入所した者のうち、
再び家庭に戻れた者が、21.2/34.0で、約60%となります。
残りの40%は、家庭以外の場所への退所となっています。

また、家庭に退所した者が、全体の31.0%ですので、
家庭⇒家庭 経由の21.2%を除すれば、
家庭以外からの入所者で、家庭に退所した者9.8%となります。


纏めると、
①家庭から入所した者(全体の34.0%)が、
 再び家庭に戻れるのは、その内の約60%

②家庭以外から入所した(全体の66.0%)者が、
 家庭に戻れるのは、その内の約10%

ということになります。


また、一旦、家庭に戻ったとしても、
その後、施設に再入所し、
施設と在宅の往復利用を繰り返す利用者もいますので、

実際には、
本当の意味での在宅復帰を果たす利用者は、
もっと少なくなります。


こうして見てみると、
老健での在宅復帰率が低いという、
現場の実感を、具体的に裏付けているように思えます。

つまり、
老健における 『支援』 の比重というものは、
利用者の在宅復帰ではなく、

むしろ、
利用者の家族を対象にしたものに重きを置かれている

というのが、
僕ら老健で働く者の実感であり、現状であるのです。

老健での入所期間が、
在宅で介護をしている家族を休ませる期間に充てられ、

その期間は、
僕らは、利用者が在宅に帰っても家族が困らないように

できるだけ、
利用者の心身機能を落とさないように支援している
ということです。

これはいわば、
間接的な、在宅介護者のレスパイト支援を行なっている
ということになると思います。


また、退所後に自宅に戻るケースとしては、
先に挙げた
①退所後すぐに在宅復帰する場合(その後の往復利用も含む)

の他に、

②他の施設や医療機関を迂回して在宅に戻る場合
③長いスパンでみれば、再入所と①、②を繰り返し、
 その後は他の施設に移って、そのまま在宅に戻れなくなる場合


も考えられますが、

これらの場合も、
家族のレスパイト支援のための施設が
複数になったり、その期間が延びたりするだけの違いで、

現状、老健が行なっているような支援の性格は、
何れの場合も、同じであるように思われます。

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by hiro-ito55 | 2011-09-11 11:52 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

NHKスペシャル 脳がよみがえる~脳卒中・リハビリ革命~

一昨日、NHKスペシャルで 
脳がよみがえる~脳卒中・リハビリ革命~
が放送されたことをご存知の方も多いと思います。

この番組で繰り返し紹介されていた手指の機能訓練法は、
促通反復療法』 と呼ばれるもので、

鹿児島大学病院 霧島リハビリテーションセンターの
川平和美教授が考案した訓練法のようです。


この訓練法のメカニズムは、

他動的に素早く指を屈曲させるのと同時に
患者に指を伸ばすよう指示します。
これによって、指の伸張反射を誘発し、

そこに患者の 
『指を伸ばす』 という伸展の意識を重ねることによって、
指を伸展させる運動性下降路の興奮水準が高まり、
容易に指の伸展を実現させる


というものです。

また、この促通反復療法は、
指の伸展に限らず、
伸張反射や皮膚筋反射を利用して、
特定の神経路の興奮水準を高めることで、

歩行など、患者が意図した運動を実現し、
その運動の反復を可能にする


というものだそうです。


この理論の意図するところは概ね理解できるのですが、
手技を体得するためには、相当の訓練を必要とするもので、

現時点で、これをきちっと使いこなせるPT・OTは
そんなに多くはいないのではないか
と思います。

にも拘らず、
こうした手技的な方法だけ
この時期にテレビでクローズアップされ、
一般向けに強くアピールされるということは、

恐らく、来年の診療報酬改定を意識してのことだろうと思います。


国としては、
医学的なエビデンスがしっかりとしていて、
尚且つ、その効果がはっきりと示せるものに限って
優先的診療報酬を算定する。

そういった方向へ、
これからのリハビリの価値というものを誘導し、
それができなければ、PT・OTの仕事は評価されない

という意図をアピールする狙いもあったのではないでしょうか。

もしそうであるならば、
そういった診療報酬の算定基準をチラつかせて、
それをエサ利益誘導しすぎると、 
回復する見込みのある患者だけを重点的にリハビリする

という 
患者間のリハビリ格差・差別』 を、
今後、加速させ得る危険があるので、
注意しなければなりません。


また、世論の後押しという観点からも、今回の、
機能訓練 = リハビリ  という構図は、

確かに一般向けにはとてもシンプルで分かり易いものであり、
その効果を映像で示すことによって、

リハビリの価値
そのような方向へ誘導する世論を形成するためには、
かなりのアピールになります。

ですから、恐らくこれ、
単発じゃなくて、シリーズ化されるんじゃないかな
と思います。

でもリハビリって、機能訓練だけじゃないんですけどね...。

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by hiro-ito55 | 2011-09-06 23:12 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

在宅復帰支援 < 家族のレスパイト

老健におけるリハビリの実務業務として、
実際のところ、『〇〇クラブ』 や 『レク』 といった
施設生活でのQOLを重視した集団でのリハビリ、

或いは、施設生活での身体機能維持を目的とした
集団での 『体操』 が多いのが現状です。

老健は 『利用者のリハビリのための施設』 で、
その目的とするところは、『利用者の在宅復帰支援』 にあり、

そのための実務として、
僕らPT・OTなどは、
在宅復帰を睨んだ利用者・家族の個別支援を行なう

というのが、老健施設の主旨とするところです。

しかし、そのような現状になっていないのが実際のところです。
(そのデータ的な部分は、次回の記事で示します。)


利用者の平均在所日数の多い施設は、
施設=生活の場 という意味合いが強まるため、
ケアプランも、リハのアセスメントも、
どうしてもそれを重視せざるを得なくなります。

利用者の施設生活という日常を
充実させることに主眼が置かれれば、
冒頭に挙げた実務が増えるのは致し方ないことなのですが、

何故、このようなことになるのか

それは、老健での実際業務が
利用者の在宅復帰支援ではなく、

利用者家族のレスパイト支援
に充てられることが多いからです。


在宅での主介護者が娘や息子の場合、
在宅サービスを利用している時間はよいが、
それ以外の時間での介護上の不安を訴える方や、

主介護者が夫や妻の場合、
そもそも介護すること自体不安を抱えている方などは、

一日中、専門的に見ていただける』 施設への入所を、
介護者のレスパイトとして捉える傾向が強く、

この傾向を弱めるためには、
介護者の抱える不安を払拭する必要があるのですが、

それには、
①施設から在宅への、流れのある支援方法の確立
②受け皿としてのコミュニティーの再生

という難問が残されています。

しかし、それがクリアされていないのが現状です。


例えば、六か月後に在宅復帰を予定していた利用者が、
家族の都合によってその時期が延期されると、

そこで新たなケアプランと、それに基づくリハ計画を
もう一度立て直さなければならなくなります。

それでも在宅復帰の可能性が
具体的に残されている場合はよいですが、

その時点で、家族から
他の老健や特養の申し込みの相談を受けた場合、

その利用者の在宅復帰は、
かなり非現実的な方向に傾いていきます。

そうなると、ケアプランもリハ計画も
それを現実的な内容にするためには、
施設生活重視のものにならざるを得なくなります。

また、一度在宅に復帰しても、数か月後には再び入所され、
以後、在宅と施設との往復利用を繰り返すうちに、
どんどん在宅生活の期間が短くなっていく場合も、
同様です。


老健から在宅に復帰する利用者の割合は、
統計上は31%と出ていますが、

実際には、
この 『往復利用』 も含んだ数字であることを考えれば、

本当の意味での利用者の在宅復帰率は、
もっと低くなります。


ですから、現場で働いていると
いったい、誰のためのリハビリなのか』 
と、その目的を見失いがちになりますが、

リハビリ施設である現時点での老健機能の実際が、
利用者の在宅復帰支援 < 利用者家族のレスパイト支援
であると考えると、
一応の合点がいきます。

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by hiro-ito55 | 2011-09-05 15:58 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(2)

胃瘻と終末期医療

僕が四年前まで勤めていた老健では、
胃瘻を造設した利用者も、受け入れていました。

僕の経験では、ほぼ100%の利用者が、
要介護5の、意志疎通も困難な
認知症末期の利用者さんでした。

この方たちの胃瘻造設の場合、
途中で経口摂取のために胃瘻が抜去されることはなく、
お亡くなりになるまで、胃瘻による栄養供給が続きました。

その間、ベッド上での生活がずっと続きます。

褥瘡予防や、拘縮進行防止のため、
ベッドサイドリハに行くたびに
『これが人間の終末期なのか。』
疑問をもった経験があります。


下のグラフは、民間研究機関・矢野経済研究所(東京)が行なった
我が国の胃瘻関連用具の出荷数の統計です。
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新たに胃瘻を造設するために必要な、造設用キットの出荷数が
年間10万本前後で安定推移しているのに対し、
3~6か月毎に交換が必要なカテーテルの出荷数は
右肩上がりであるのが分かります。

これは、胃瘻を長期で使用する人の数が
毎年増加していることを裏付けるものです。

(全ての胃瘻造設者が、認知症末期の高齢者ではないですが)


寝たきりの認知症高齢者に対し、
栄養供給の方法として、胃瘻造設を選択する理由としては、

医療者側
①クライアントを餓死させてはならないという倫理観
②栄養供給処置をしないことで、法に触れる危険がある

という意識や、

家族側
①クライアントにできるだけ生き続けてほしいという感情
②胃瘻を拒否することで、クライアントを死に追いやるという決断を
自分が背負ってしまうことの心理的負担の重さ

などが挙げられると思います。


胃瘻造設に関して個人的な意見を述べれば、
経口摂取が不可能な時の、一時的な栄養供給法であり、

それは、
経口摂取の訓練と併用して
栄養状態の改善が図られるものであるべきだ
と思います。

つまり、クライアントの状態が回復すれば
抜去されるということを目的に、
胃瘻は造設されるものであると思うのです。


人を看取るためには、関係者の負担を少しでも減らすため、
医療者側にも家族の側にも、
ゆっくりと死を受け入れていくという環境が必要です。

終末期の医療技術は、そのための準備として行使されなければ、
人間らしい死を迎えることは困難になる
と、個人的には思います。


寝たきり認知症末期の方へ、胃瘻以外に栄養を供給する方法はないか、
知り合いのNrs.に尋ねてみたところ、
末梢点滴という方法があると、教えてくれました。

末梢点滴とは、
胃瘻の代わりに、一日300㏄程度の輸液を点滴で供給し、
看取る方法だそうです。

まだ一般的な方法ではないそうですが、
一日に数百㏄の輸液だけでは、
生命を維持するためには、絶対的に足りない量です。

そのため、少しずつ体は衰えていきます。

ゆっくりと死に向かうその姿を見続けることは、
やはり大変辛いものだそうですが、

医療者側にも、家族の側にも、
『無理に生きさせている』 『何もせずに見殺しにしている』
『生死の決定的決断を、自分が下してしまった』

などの心理的負担を、
緩和させるものであるそうです。


あくまで倫理的な観点から考えた場合、
人間らしい終末期の在り方というものを考えれば、

胃瘻による栄養供給が延々と続くよりは、
よほど人間らしい死の迎え方であるような気がします。



*補足:調べてみると、『終末期』の定義は、
    日本老年医学会においても、曖昧であるようです。

以下、 
高齢者の終末期の医療およびケアに関する日本老年医学会の立場表明
(2001年6月13日)を抜粋。

『「終末期」とは,「病状が不可逆的かつ進行性で,その時代に可能な
最善の治療により病状の好転や進行の阻止が期待できなくなり,
近い将来の死が不可避となった状態」とする。
高齢者は「終末期」にあると判断されても,わが国では余命を予測
するための医学的成績の集積が現状では不十分であり,余命の予測が
困難であるため,「終末期」の定義に具体的な期間の規定を設けなか
った。

「高齢者の終末期」の定義に関しては現在ではこのような曖昧なもの
であるが、 (中略) 不可逆的,進行性の過程をたどることの多い
個別疾患ごとの検討が日本老年医学会の今後の課題となるであろう。』


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by hiro-ito55 | 2011-09-01 18:44 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

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