<   2011年 07月 ( 9 )   > この月の画像一覧

退所前の関わり方のもどかしさ(後)

一昨日のつづきです。

図面だけを見てあれこれと言う意見と、
実際に肌で感じてみて述べる意見とでは、
同じ意見でも違います

自宅に訪問できれば、
実際の利用者さんの動きを実地で確かめることができるので、
こちら側もより具体的にアドバイスをすることが可能になります。

それに、図面判断では、
現実とは違う少し理想的な意見 (言葉は悪いですが、ある程度好き勝手なこと) 
を言うこともできますが、

実地での検証では、
自分の考えと、利用者の実際にできる動きや生活との、
具体的な擦り合わせ作業が必要とされます。

つまり、自分の意見に責任を持つことができるのです。

これは、リハビリだけでなく、他の職種にも言えることだと思います。


そして何よりも、もし時間が合い、
家族の方や在宅のケアマネさんからも、自宅で直接お話を伺い、
実地に基づく意見交換をすることができれば、

施設から在宅への、より具体的な流れのあるプラン
も立てやすくなるというのが、
各専門職と利用者双方の間における、収穫でもあるのではないでしょうか。


以前、 
『利用者さんから学ぶ思考 その1~4』 (2011年5月20日~31日の記事) 
という記事を書きましたが、

Fさんの場合も、
自宅退所前にケアマネと本人の間でぎくしゃくした苦い経験があります。

Fさんは、自宅の様子をリハビリもケアマネも見に来ることさえしないのに、
あれこれと好き勝手なことを言われるのが、癪に障ってしまったのです。

それを、何かの折に施設ケアマネさんに話したことがあります。

彼女は、大変興味深く僕の話を聞いて下さったどころか、
彼女自身も以前から、退所前の利用者宅への訪問の必要性は、認めていたようです。


しかし、事務所側と僕の上司は、 
費用対効果が上がらない』 『今の方法で充分である』 との理由で、
居宅訪問の必要性はないと判断しています。

費用対効果が上がらない』 とは、
業務時間中にケアマネとリハビリ職員がそれぞれ抜けることは、
その時間に業務の空きができることを意味し、
他の職員に業務のシワ寄せがいく可能性が高く、

また、例え退所前後訪問指導加算を算定できたとしても、
人件費等の必要経費を割り引けば、
収支の上でも割に合わなくなるということです。

実際、周辺の老健でも、
よほど母体経営がしっかりとしているところしか、
退所前後訪問指導加算算定していません。

ですので、退所前の利用者宅訪問の話は、事実上、棚上げ状態です。


しかし、一専門職の立場で言わせていただけば、
老健の趣旨利用者の在宅復帰支援である以上、

各専門職が居宅を訪問し、
 実際場面をその目で確認しながら、そこで意見交換をすることは、
 お互いのスキルアップの最も近道


であるし、

そこで出された提案が、
 利用者と家族の生活を支える、最も具体的なヒントと成り得る


ならば、

それは彼らに安心と自信を与え、
 結果として、利用者の在宅復帰を促進する


と、僕は考えています。


また、僕自身は、仕事の時間は自分で作るものだと思っていますし、

例えそれが短期的に見て
収支に釣り合うだけの労働ではないにしても、

その目先のコストを、
未来への投資へと変換していけるよい方法はないものか、

というのが僕の本音なのですが、

しかしこれは、 『あまりにもきれい事』 であるのかもしれません。


こんなきれい事が空しく感じるとき、少しだけこの仕事を辞めたくなります。


ま、そんなことを言っても何も始まりませんね。

せめて今できる仕事を、
一所懸命やっていくことだけは、怠らないようにしたいものです。

b0197735_073151.jpg


[PR]
by hiro-ito55 | 2011-07-30 00:08 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(2)

退所前の関わり方のもどかしさ(前)

今回は、老健に入所している利用者さんが自宅に退所する際
施設のリハビリ職員として、自分はどのように関わっていけるのか、

僕の経験を少しお話ししたいと思います。

書いている裡に、文章が少し長くなってしまったので、
前後半に分けて記事にします (後半はほとんど愚痴ですが(^_^;))。

今日は、前半部分です。



僕の働く老健では、利用者の自宅退所前に、
自宅がどういった造りであるかといった
住環境の情報を入手することがあります。

大抵の場合、
それは図面 (利用者の家族にお願いして、手書きで作成してもらったものもある) 
写真であることが多いのですが、
ケアマネさんから口頭で情報を伝えられることもあります。

いずれにしろ、その情報を基に、利用者の在宅生活で必要な動作の獲得や、
より適切な補助具の選定などをケアマネに提案し、
話を進めていきます。


例えば、高さ10cm段差がどこそこに何段あって、
利用者の生活の動線に一日に必ず一回は絡むので、
退所前に段差超えのリハビリをしてみて、
それがクリアできる課題であるのかを判断したり、

もしできそうにない場合は、
移動式の手摺りなどの福祉用具を検討したりします。

或いはベッドがレンタルでき、もしこれを使うならば、
移乗の際には縦手摺り(I棒など)を設置してみてはどうかといったことも、
検討課題に上ることがあります。


しかし、図面や口頭での情報では判らないことがあるのも事実です。


例えば、自宅の居室が 『フローリング』 であると一言でいっても、
ベニヤ板のような素材のものもあれば、
もっと材質の硬い床もあります。

そういった、環境の持つ質感までは図面だけでは判りません。


また、玄関に続く屋外の通路も、
がどれぐらいで距離が何メートルであるかが判っても、
通路の不規則な傾斜凹凸みたいなものまでは、
詳しく知ることはできません。

そういった細かな情報が、
図面などで必ずしも充分に反映されているとは、
言えないことがあるのですが、

必要な情報の全てを拾い上げて、過不足なく伝えてもらえるよう、
事前にケアマネさんにお願いするのも無理な話です。


この判らない部分を明確にするには、
やはり自宅を一度訪問して、見せて頂くしかないのです。

一言でいえば、 『百聞は一見にしかず』 といったところでしょうか。


そうすれば、
訪問してみて改めて気付くこともあるかもしれませんし、

より具体性を持ったリハビリからの意見として、
検討課題に上げて頂くことも可能になります。

b0197735_2219311.jpg


[PR]
by hiro-ito55 | 2011-07-28 22:19 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

日本人の色彩感覚

道路の信号機の
僕らはあれを、 『青、黄、赤』 の三色で表現します。

『赤』 と 『黄』 はいいのですが、 
』 は 『みどり』 ではないのか。
b0197735_23463422.jpg

確かに、信号機の一番左の色は、正確に言うならば 『みどり』 です。
しかし、 『あ、みどりになったよ。渡ろうか。』 とは言いません。

では、僕らは 『みどり』 と 『』 を
識別できないほど色彩感覚が鈍いのか、といえば、
そういうものでもなさそうです。


日本では、昔から色に対して、様々な名称を持っています。

それを 『和色』 というそうです。

例えば、 『青系』 の色でいえば、 
新橋色(しんばしいろ)、浅葱色(あさぎいろ)、瓶覗(かめのぞき)、
紺青(こんじょう)、瑠璃色(るりいろ)、露草色(つゆくさいろ)、
納戸色(なんどいろ)、藍色(あいいろ) etc…

実に多彩な 『青色』 があります。

同じように様々な色を分類していくと、 
全部で460種以上の色があるそうです。

中でも、 『江戸紫』 は有名ですよね。

これほど豊かな色彩表現をしている日本人が、
色彩感覚が乏しい筈はありません

じゃあ、何故、信号機の 『みどり』 を、 
あお』 と表現するのか。

一説によれば、昔は 『あお』 と呼ばれる範囲が、今よりも広かったそうです。

その証拠に、今でも 『青葉』 『青大根』 『青りんご』 と、
みどり色のものを、 『あお』 と表現する習慣が残っています。

つまり、今でこそ僕らは色の三原色も知っていますし、 
青系』 『緑系』 と 『~系』 という形で色を分類していますが、
それとは別に、 『色の分類の仕方そのもの』 が、
現代人とは異なっていたのかもしれません。

例えば色をグラデーションでみると、全ての色は繋がっています

青磁色などは 『緑系』 のカテゴリーに分類されているようですが、
この色は 『青系』 に入っていても、さほど違和感がないように感じます。

色を460種以上に識別し、
そのひとつひとつに名前を付けられるような色彩感覚は、
今よりも遥かに豊かなものであった筈です。

現代のように、『ここからここまでは〇〇系の色』 と、
きっちりと分類するのではなく、

もともと僕ら日本人には、 
『みどり』 も 『あお』 と表現しても差し支えのないような、
現代の分類とは異なった色彩感覚が、備わっていたのかもしれません。


*ここで和色の一覧を見ることができます。⇒ http://www.colordic.org/w/




[PR]
by hiro-ito55 | 2011-07-24 23:50 | 日本人 | Comments(2)

人はマニュアルによって動きはしない

人間を現実への情熱に導かない あらゆる表象の建築は
便覧(マニュアル)に過ぎない。

人は便覧(マニュアル)をもって
右に曲がれば街へ出る と教える事は出来る。

然し、坐った人間を立たせる事は出来ない。

人は便覧(マニュアル)によって動きはしない、

事件によって動かされるのだ。




これは、小林秀雄の言葉です。

小林の言う、 『事件』 とは、その人の身に起こる出来事のことでしょう。

人生における事件は、本人にとってはいつでも切実なもので、
『こうすれば、ああなる。』 といった因果論的なものでは
説明のつかないものが多くあります。

特に、僕らのように医療・福祉で、人と接する仕事では、
よく実感できることではないでしょうか。

出来事に直面したとき、人は 『動かされる』 のです。
それは、直視しようとすればするほど、強く働く人の経験です。

現実を直視すればするほど、
マニュアルによって機械的に 『動く』 のではない、

現実によって、人は 『動かされる』 のです。



人は便覧(マニュアル)によって動きはしない

もしこの事実が、僕らを不安にさせるとすれば、
それはきっと、自分自身が方法論というマニュアルに、頼っているからです。




自信というものは、いわば雪の様に音もなく、
幾時(いつ)の間にか積った様なものでなければ駄目だ。

そういう自信は、昔から言う様に、お臍 (へそ) の辺りに出来る、
頭には出来ない。

頭は、いつも疑っている方がよい。

難しい事だが、そういうのが 一番健康で望ましい状態なのである。
 




これも、小林秀雄の言葉です。

自信というものは、何かの方法論に頼って
即席的に出来上がるものではなく、
素直な経験積み重ねることによって、
育まれていくものではないでしょうか。

自分に自信のある人は、そういった自分の経験を尊重している

そして、自分の経験を尊重できる人は、また、
他人の経験も尊重できる

作業療法が、人間の尊厳を守る活動であるならば、
それは、
人の経験 (もっといえば生活の仕方) を尊重し守ること
でもあるのではないでしょうか。

人の出来事直視し、尊重するならば、
マニュアルによって、人の経験を不自然に引き離したり、
飾ったりして、誤魔化してはならない

小林の言葉は、そういう反省のように、僕の心に響きます。

b0197735_230368.jpg


[PR]
by hiro-ito55 | 2011-07-20 23:00 | 哲学・考え方 | Comments(0)

なはは。

今日は特別書くネタもなかったので、
繋ぎの意味で、拾いものの動画をアップしてみました。

まるで、ドリフのコントみたいで、こういうの好きです☆ (@_@)



[PR]
by hiro-ito55 | 2011-07-19 18:24 | 動画 | Comments(0)

感覚器を通した社会とのインターフェイス

昨日、岡崎市の竜美丘会館で開かれた、
人間環境大学主催の講演会に行ってきました。

会場の写真が撮れなかったので、会館脇を流れる乙川の風景です。
b0197735_16464845.jpg


興味深かったのは、八木聰明教授の 『感覚器と社会のつながり』 で、
感覚器を通して、人間や動物はどのように振る舞えているか
というお話でした。

僕らには視覚、聴覚、味覚、嗅覚、平衡覚といった、
それぞれが、体内に固有の感覚器官を持つ
特殊感覚と呼ばれるものがあります。

八木先生のお話では、
この五つの感覚は、動物と人間ではその主な使用目的が、
大きく異なっている
そうです。

一言で言えば、
動物では 『生命維持』 のために、
人間では主に 『生活の質(QOL)を上げる』 ために
使われることが多いということです。

例えば、アフリカの草原に棲むガゼルという草食動物は、
下を向いて草を食べながら、その目を使って、
常に遠くまで見渡すことができます。

そのため、ライオンなどの肉食動物から身を守るために、
その能力は大変有効なのだそうです。

一方人間は、例えば目は、
生活を営む上では、ただ見えればよいというのではなく
目を通して絵画を楽しんだり、映画を鑑賞したりすることができます。
また、耳もただ音を聞くだけでなく、音楽を楽しむためにも用います。

日本では、香道と呼ばれるものもあり、
香りを楽しむために嗅覚を利用することもあります。


そして、これらの感覚に狂いが生じるとどうなるか

例えば、平衡感覚
僕らは歩いているとき、体は上下や左右に揺れていますが、
それでも視線がブレないのは、
脳内座標修正する平衡覚が働いているからです。

しかし、吊り橋を渡った後も、
揺れていないのにまだ揺れているように感じることがあるように、
このセンサー非常にデリケートなものだそうです。

正常であれば、
僅か1度の地面の傾きでも感じ取れるほど、敏感な平衡感覚ですが、
脳内座標の修正は、実は 『地球の重力の働く方向を基準』 にしており、
体内ではそれを 『0度』 と定めているようです。

ですから、地震などで僅かに傾いてしまった屋内長時間生活していると、
この基軸が常に0度を保とうとするため、
生活動作を行なうときは常に体軸との僅かなズレが生じ、
その結果、気分不快を生じたり、
眩暈頭痛などの身体的症状が、出てきたりすることもあるそうです。

なるほど。

例えば、震災などで家が数度傾いただけでも、 
『もうこの家には住めない』 と感じてしまうのは、
このような平衡感覚のズレも関係してくるということのようです。

のみならず、他の特殊感覚も人間にとって主に
生活の質(QOL)を上げるために使われることが多いということは、
ただ食べて寝るだけを繰り返すだけでは、
人間の生活としては満たされないということなのでしょう。

しかも、人間の特殊感覚の働きは、動物のそれとは違うのですから、
このような単調な生活が長引けば、生活の質が上がらないと感じるどころか、
恐らくどこかでそれは (個人差はあると思いますが)、 
『不快な信号』 として処理されるようになると、
想像することができます。

つまり、外界とのインターフェイスにおいて、
常に不快な信号をキャッチするように特殊感覚が働いてしまうわけですから、
それは人間にとって、とてもストレスフルな日常である
ということが想像できます。


今回の講演会の副題が、 
『―東日本大震災 新たな出発に向けて―』 
でしたので、八木教授が成されているような研究が、
震災に遭われた方々の人間らしい生活を取り戻すために、
ぜひ、何らかの形で具現化していただきたいものです。


岡崎ではまだ紫陽花が咲いていました。
b0197735_16474873.jpg



[PR]
by hiro-ito55 | 2011-07-17 16:49 | 社会 | Comments(0)

夏風邪の対処法

久しぶりのブログ更新です。

実は、月曜日の夕方から夏風邪で38℃以上の発熱が続いていまして、
何も手が付かない状態 (もちろんブログも) でしたが、
今日、ようやく熱が下がりました

まだちょっと喉が痛いですが...。
若干の細マッチョと、健康体ウリの僕にとっては、非常に残念な4日間でした。


体も回復してきたし、せっかくなので、
発熱した体温を効果的に下げるための方法を、ひとつお教えします。


まず、ポカリスエット2リットルを用意します。
そして、半袖Tシャツを2枚重ね着した上に、長袖のTシャツを着ます。
それでもって、その上からウィンドブレーカーを着ます。
足元まで悪寒のする場合は、靴下を着用します。

これで準備は万端

あとは、ポカリを飲みながら、ひたすらをかきます。
気分はまさに力石徹です。↓
b0197735_18153871.jpg

そして、汗でベタベタになったら直ぐに (手早く) 全部着替えます。
このとき、全身の汗をしっかりと拭くのを忘れないで下さい。

そして、同じように重ね着をした状態で、
ポカリで水分を補給しながら、またひたすら汗をかきます

これを2~3回繰り返せば、代謝が促進 (たぶん) され、割と早く熱が下がります
b0197735_1817202.jpg

洗濯物は格段に多くなりますが、それはまあ、しょうがありません。
僕も今日、最終手段として、これで熱を下げました。

ガッツのある方はお試しあれ。
注):この方法はノークレーム・ノーリターンでお願いします(-。-)y-゜゜゜

これで明日は仕事行けるぞい。〠

[PR]
by hiro-ito55 | 2011-07-14 18:25 | 哲学・考え方 | Comments(0)

『自分流に解釈する自分』 と 『相手の心』

今回は、僕のブログにリンクを張らせて頂いている、 
『支援セラピー!~作業療法士のブログ~』 さんの
『相手の心を軽くする程度の話』 の記事を、
御本人の承諾も頂きましたので、ここでも紹介させていただきます。



「アドバイスを求められても、冷静に的確な意見を述べるのではなく、
『相手の心を軽くする程度の話』を提供するにとどめる」
これは、もうお亡くなりになったのですが、
精神科医で作家の斎藤茂太さんの言葉です。

専門家であればあるほど、プロであればあるほど、
自信があればあるほど、責任があればあるほど、
ナイスなアドバイスをしたくなるのではないでしょうか。

リハビリ専門職・作業療法士である私には、心当たりがあります。

経験を積めば積むほど、
「相手の心を軽くする程度の話にとどめる」
くらいの気持ちでいるのが、ちょうどイイかもしれませんね。

相談する人は、話ができただけで、
かなりの部分でスッキリしているといいますしね。




この記事を読ませていただいて、
ごとおさん (支援セラピー!~作業療法士のブログ~の管理者) 
感性に深く共感するとともに、
僕自身の心を振り返ってみるよい機会となりました。

ごとおさん、ありがとう。


そこで、少し話は変わりますが、
松尾芭蕉の 『三冊子』 の中に次のような一節があります。

松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと師の詞(ことば)のありしも、
私意(わたくしごころ)をはなれよといふ事也。
此習へといふ所を己(おの)がままにとりて、
終(つい)に習はざるなり。

習へといふは、
物に入って その微の顕(あらわ)れて情 感ずるや、
句と成る所也。

たとへば、ものあらわにいひ出でても、
そのものより自然に出づる情にあらざれば、
物我二つに成りて、その情 誠に不至(いたらず)。
私意のなす作意也。



これは勿論、芭蕉の俳句論を言っているのですが、
これを、 『松』や『竹』を『人』に、 『情』を『人の心』に
それぞれ置き換えてみると、

人の心を感じ取ることについても、全く同じことが言えそうな気がします。


その人の心を本当に感じ取りたいと思うのならば、
例えば、科学的分析の目などという
『私意 (わたくしごころ) の成す作意』 
を離れてみなければ、けしてみえてこないものではないでしょうか。

僕らは、ついつい自分流に解釈 (ぼくらの場合、専門的解釈) 
することで相手を見て、
適切なアドバイスをしたくなるものですが、

それは結局、自分都合で相手を受け取ることであり、
何も感じ取ったことにはならないのではないか。

芭蕉の言う 『私意 (わたくしごころ) の成す作意』 であり、
『己 (おの) がままにとりて、終 (つい) に習はざるなり』 
同じことのように思うのです。

己がままに、自分都合で相手を解釈するということは、 
『そのものより自然に出づる情にあらざれば、
 物我二つに成りて、その情 誠に不至。』 


つまり、
『その人から自然に出てきた心』 ではないのだから、
『自分流に解釈する自分』 と 『相手の心』 、
という 『二つの形』 が出来上がるだけで、
『本当に相手を感じ取る心』というものには、至らないからです。


芭蕉の言葉を借りれば、
本当に相手に適切なアドバイスをできる人は、
『松の事は松に習』 い、 『竹の事は竹に習』 うように、
『物に入ってその微の顕れて情感ずる』 ことのできる人、

つまり、
『些細な心の変化までも逃すまいと、
その人の身になって考え、感じることのできる人』

なのです。

特に、本当に悩んで、相手にアドバイスを求めてくる人にとっては、
的確な意見ではなく、
自分の心に触れられたと感じられたとき、
安心するものなのかもしれません。

そうであるならば、本当に相手に適切なアドバイスができるようになるには、
相当な人生経験を積まなければなりません。

人生経験の乏しい僕ら凡人が、冷静に的確な意見を相手に述べたところで、
それは 『私意の成す作意』 でしかなく、

ほとんどの場合、相手の心には届いていないものだという自省の心は、
僕らにとって、忘れてはならないとても大事な姿勢だと思います。

b0197735_23185178.jpg


[PR]
by hiro-ito55 | 2011-07-06 23:20 | 哲学・考え方 | Comments(0)

時間の価値と作業療法④

今回は、二つ目の
時間は、過去、現在、未来という直線的な表現が可能である 
という点について。


もし、僕らの経験する時間が、
過去、現在、未来と 直線的に繋がる のであれば、
例えば昔のこと思い出すためには、
常に時系列で一歩一歩遡っていかなければなりません。

50年前のことを思い出すには、1年前のことをまず思い出し、
次に2年前のことを...。
といったように。

もしそうであるならば、
作業療法で 回想法 を用いるためには、
とてつもない時間がかかる筈で、

現実的にこれを治療に用いることは、ほぼ不可能になります。

しかし、昔のある場面を、
その人の心に一気に現在まで甦らせることだって、
実際には可能なことであるし、

そのために回想法は、
今日では有効なツールとして用いることが可能なのです。


このように、僕らの経験する時間は、
記憶と密接に関係しているのですが、

計量的な1分は誰にとっても1分です。

でも、それが本当に万人に均等に流れる時間であるかどうかは、
実は誰にも確かめようがないのです。

なぜなら、均等な1分を計量するには、
計量する 完全なる客観性を持つもの を通さなくては、
確かめようがないからです。

当然、人間は完全なる客観性を持つことはできません。

だから、
それを光の移動距離に託したのです。

光の移動距離という、僕らの経験から切り離した場所に託した以上、
これは一種の 観念 と言うことができます。

誰も光の移動速度に追いついた人はいませんから、
これは経験的実証に基づくというよりも、

そうであろうと仮定した場合に、
物的計算上都合がよいという、

そういう観念です。


僕らが感じる時間は、いつでも経験的です。
光の移動距離 や 直線的繋がり のように、
仮定の下に成り立つ観念ではありません。

そうならば、物的に表現できる時間と、僕らが感じる生きた経験的時間は、
質的に異なるもの であると、
分けて考えるべきなのです。

前者は科学的時間後者は哲学的時間
と一応分けて考えることはできますが、
これは恐らく 人為的な区分 でしょう。

科学的条件、つまり反証が可能な条件というのは、
究極的には真空状態のことです。

真空状態というのは、人為的に作り出した条件です。

時間というものを、その人為的条件に導き出すことは、
僕らの経験的時間から引き離してしまうということです。

その上で、科学的方法でもって測定するのですが、
測定するために引き離したのは、
間違いなく人間の意図によるものです。

だから、科学的時間と哲学的時間とを、
質的に分けて考えることができますが、

それは、人為的区分なのです。


そうれであれば、
時間というものを 『正確に知覚』 するためには、
哲学的、科学的と分けて考えるのではなく、
それらを統合した方法で以って、
対していくしかないのかもしれません。

これは、恐らくまだ誰も成し得ない、非常に難しい問題です。


ただ、今の僕らは、
時間は 流れていくものだということは分かります。

しかし、過ぎ去った過去は、
どこに流れていくかは分からない

分からないが、過去を記憶として留めておくことは可能で、
回想は、この記憶として留められた時間を、
再び繋ぎ合わせて、現在に甦らせることです。

けして、始めから直線的に繋がっていたわけではないのです。

僕らの経験する時間は、直線的ではなく、
ある瞬間に一気に甦るような、記憶と密接に関係しています。
b0197735_2523535.jpg


[PR]
by hiro-ito55 | 2011-07-04 02:53 | 作業療法 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー
プロフィールを見る
画像一覧