考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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進歩について

僕らは科学的なものの見方に慣れきってしまっています。
慣れきってしまっているというより、
科学的であることにより、僕らの経験は 『進歩している』 と思い込んでいます。

作業療法の世界においても、EBMが殊更持てはやされるのは、
こういった思想が根強くあるからです。

科学的でなければ作業慮法ではない。

そう言い切ってしまう人までいるのも、事実なのです。

しかし、それに疑問を投げかけるために、
過度に感情に訴えかけようとすることも、また寂しいことです。



前回の記事の中で、
『出来上がったツールは、僕ら経験者のIdentityを狭めてしまう危険がありそうです。』
と述べました。

今回は、このことに関する興味深い話を聞く機会があったので、
紹介したいと思います。

リハビリとは直接関係のある話ではないのですが、
本質的にはこれと同じであると思いますので、取り上げてみます。



音楽を聴くCDというものがあります。
CDができる前は、LPSPというものがありました。

LPやSPをご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんが、
簡単に言えばレコード盤のことです。
(僕も子供の頃、アニメのSPをたくさん持っていました。)
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CDが大量生産されて一般に普及していった頃、
レコード盤よりもノイズが少なく、音質が良いという理由を挙げる人が多くいましたが、
一方で、レコード盤の方が音質が良いという声もありました。

一時は、レコード盤を支持する理由は、
昔を懐かしむような回顧主義的なものにすぎないという批判もありましたが、
結局、この論争には決着がつかなかったそうです。


LPSPは、4チャンネル方式で20Hz~40kHzの音を出すことができます。
CDでは、規格上20kHzを超える周波数cut offされます。
これは、CDのデジタル信号の特性です。

人間の可聴音
つまり耳で聴くことのできる音は20Hz~20kHzと言われていますが、
CDでは、基本的には可聴音域の音しか、出すことはできないことになります。

つまり、CDは 『耳だけ』 で音を聴くよう設定されているのですね。
これは、極めて合理的で、無駄のない音の聴きかたです。



ここに興味深い二つの証明があります。

まず、米国生理学会の論文誌 『Journal of Neurophysiology』 によれば、

人間の耳に聴えない20KHz以上の高周波を含む音は、人間の身体と心の健康をつかさどる脳の深い部分(脳幹)を活性化し、それを聴く人にα波の増強、ストレス性ホルモンの減少、免疫活性の増大をもたらす

とあります。
そして、脳幹が活性化すると、

NK細胞 (がん細胞や、ウイルス感染細胞などを殺す「殺し屋」 と呼ばれる細胞) 活性が有意に増加し、ストレス性ホルモンであるアドレナリンが有意に減少する。
つまり、人間の免疫活性が増大し、ストレスが減少することになる


という報告がなされています。


また、大橋力著 『音と文明』 (岩波書店 2003) によれば、
20KHz以上の高周波を含む音を聴くと、
①がん細胞を消去する勢力の主力となるNK細胞の活性が統計的に有意に上昇。
②生体防衛活性の強さと快適度の高さを示す唾液に含まれる免疫グロブリンAが統計
 的に有意に上昇。
③精神ストレス対処活性の強さを示すクロモグラニンAが統計的有意に上昇。
④ストレス指標となるアドレナリンの血中濃度が低下。


といった結果が報告され、

高周波が及ぼす、ストレス低下を含むポジティブな影響が全身に波及していることを裏付けている。

と結論付けています。


これらの証明は、何を意味するのか。

『人間は、音を耳だけで聴いているのではない』ということではないでしょうか。


科学技術的にみれば、
LPやSPよりもCDの方が 『進歩している』 ということになりますが、
音の観点からみれば、耳以外からも聴くという経験、
つまり人間の 『聴くという経験』 を狭めていることになるということが言えるのです。

これは、
合理的で、無駄のない経験は、果たして僕らの経験を豊かにしてくれているのか。
進歩させてくれているのか、

という問いにも結びつきます。


同じことは、作業療法についても言えます。

合理的で、無駄のないツールに頼れば、作業療法は進歩していくのか。
進歩していると信じる一方で、作業療法士自身の経験を狭めていやしないか。


このことは、もう一度よく考えてみなければなりません。


前回、僕が 『作業療法は危機に陥ろうとしている』 と申し上げたのは、
そういった意味です。

(次回は 『時間の価値と作業療法④』 を書きますね。)
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by hiro-ito55 | 2011-06-28 04:48 | 社会 | Comments(2)

時間の価値と作業療法③

前回の記事で気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、
改めて自分の文章を読み返してみると、

僕自身も 『物質的価値観のロジック』 に、
知らず知らずのうちに陥ってしまっているのではないか、

と疑問に思い始めました。

注意深く読み返してみると、確かにその兆候らしきものは、あるのです。
で打ち消そうとしている、と取れなくもないのです。


ですので、ここではとりあえず、これ以上深入りするのを避け、

『空間的な有意差ばかりに目を奪われることは、
 作業療法における作業をどう評価するのか、という根源的問題にも関わってくる』


と言うに留めておきたいと思います。


その上で補足を付け加えるならば、 
『その人の在り方を尊重する』という姿勢が大事
であることを、強調しておきたいと思います。

例えば貼り絵であれば、
この利用者は、この時間にこれだけの色紙を貼ってくれたのだから、
この人にとって貼り絵が意味のある作業であるに違いない、
と評価するとします。

確かにその通りかもしれません

出力されたものだけを評価すれば、
そのような評価になるのも仕方のないことです。


しかし、この作業量の多い利用者が、
実は隣の参加者の作業の遅さにイラついて、
その人の分まで作業を横取り (言葉は悪いですが) していたのであれば、
どうでしょう。

加えて、その隣席の参加者が、控えめな性格であれば。
(集団作業の実際場面では、このような場面は見かけるものです。)

これは、その人にとって 意味のある作業 と言えるでしょうか。

貼り絵などの集団作業においては、作業量の多い方を
集団のリーダー的役割に据えて、
全体としての作業を纏まりあるものに導いていく手もあります。

それは、他のパラレルな活動においても同じことです。

しかし、能力的な区分は、注意深く用いなければ 
作業量を媒体とした差別』 にもなり得ます。


活動量の多さを評価することが良い場合もありますし、
意味のある作業を探すのも僕らの仕事のひとつであるので、
ある意味これはしょうがないことなのですが、

しかし、 『その人の在り方を尊重する』 ということから、
僕らの援助というものはスタートするのであって、

けして 『相対的価値観』や、 『それに付随する論理』 からスタートするのではない
ということは、忘れてはならないことだと思います。


つまり、いきなり対象者にツールを当て嵌めて評価するのではなく、
まずは 『汲み取っていく』 という姿勢で、
僕らの感覚をオープンにすることを、第一義にするということです。

『その人の在り方』 の中には、言語化できないものも、
行動化できないものも含まれているし、
それをまずは感じ取ってほしい
ということです。

ツールに頼らず、
まずはそこからスタートすることのできる人が、
本当に良い作業療法士なのでしょう。


危険なのは、
自分にはその汲み取る感性がないのではないか
自信を無くしてしまうことです。

感性は誰にでも備わっています

肝心なのは、その感性を科学でごまかさない、隠してしまわないことです。

隠さなければ、感性は経験のうちに磨いていけます


経験の浅い新人OTさんや、実習生に 『こんな便利なツールがあるよ。』 
エサをチラつかせて、それに飛びつかせるのではなく、

失敗、挫折、反駁、
そういった 『感性を剥き出しにする経験』 を多く与えてあげるのが、
僕ら経験者の責任ではないでしょうか。

既に 『価値があると分かっているもの』 を最初に与えるのではなく、 
その時点では価値があるかどうかは分からない けど、
拾っていくうちに これいいかもね と思えるものを拾っていけるようになる経験、

それが感性を磨く経験であるし、学びや成長の本質的動機です。


出来上がったツールというものは、たいへん便利なものですが、
そのように考えれば、便利であるが故に 『対象者の在り方』 のみならず、
僕ら経験者のIdentityを狭めてしまう危険もありそうです。

例えば、30cm定規では光の量や硬さなどは測れません。
測れるのは 『長さ』 だけです。

長さしか測れないものを最初に当て嵌めて、
光の量や硬さまで知ろうなどとは、
科学に対する無知の成せる業、或いは冒涜ではないでしょうか。

それでも30cm定規に拘ったり、それを50cmや70cmに延ばして 
あ、これだけ測れるようになった。』 と喜んだりして満足しているようでは、
作業療法士自身が、自己陶酔の世界を抜け出すことはできません。


昨今の動きを見ていると、
今、作業療法はそのような危機に陥ろうとしているように思いますが、

作業療法を、そのようなNarcissismに陥れてはいけません。
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by hiro-ito55 | 2011-06-26 17:11 | 作業療法 | Comments(0)

時間の価値と作業療法②

前回のつづきです。

時間空間的な移動距離でも、直線的に表現できるものでもなく、
もっと複雑で経験的なものではないか、
というのが、僕の問いです。

前回の最後に例を挙げましたが、
もし、時間が空間的な移動距離で表現できると信じるなら、
作業療法場面でも、
作業量の多い利用者の方が、時間が速く過ぎ去ることになります。

しかし、こんなバカなことはあり得ませんよね。

やはり、楽しい時間は速く過ぎ去り、苦しい時間は長く感じる
というのが人の経験的な常識です。

この経験的常識の裡に時間というものが生きている限り、
時間の速度というのは、本質的には時間の充実という、
当事者の経験によって涵養されるものであるし、

そこから離れることはできないのではないか。


つまり、時間の速度というのは、
時間の充実という経験と引き離して測ることはできないものであり、

作業量 (自分の手足の移動も含めた物質の移動距離) の違いという 
『相対的価値』 で測り切れるものでははなく、
飽く迄 『その人の側にある』 ということです。


もし、客観的な時間を持ち出して適用したいのであれば、
①常に動き続けるもので、
②純粋に物質であるもの

を対象にしなければなりません。

そこで初めて、時間の速度を相対的にみることができます。

本質的に考えればそうなります。

これは、科学は 『もの自身の本質を知る学問』 ではなく、 
『ものとものとの関係性を知る学問』 であるからと考えれば、
分かり易いでしょうか。


話が小難しくなりましたが、
その人がその時間をどう過ごすのかは、その人の過ごし方なのです。

空間的な移動距離の多寡
ではありません。

他者が作業するのを、横でじっと眺めるだけで、充実している人もいるでしょう。

そうならば、その時間の充実度は、
その人のアウトプットの部分だけでは、測りきれないこともあるのです。

何故なら、 『その人』 は  『純粋な物質』 ではないからです。


さっきからこの人の動きが少ないから、その人の作業の価値が低いのではないか。
ならば、この人でもできる作業をもっとやってもらって、
作業を意味あるものにしてみよう。

だから、その人がより多くの作業を行なえるところを目指し、そこに目標を設定します。

それもひとつの方法でしょう。

けれども、仮に作業療法士本人が、意識するしないに関わらず、
時間を空間の移動距離で測定することができるという 
『物質的価値観』 が柱としてまずあると、

利用者の時間の充実は、
イコール作業量の違いや、動きの多寡により現れるものであると信じ、
その空間的な有意差ばかりに目を奪われてしまう危険性があることは、
指摘しておきたいことです。
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by hiro-ito55 | 2011-06-22 21:30 | 作業療法 | Comments(0)

時間の価値と作業療法①

時間とは光の速度である。』
例えば、宇宙の広さを測るとき、 『何万光年先の〇〇』 という表現をします。


20世紀に入って物理学は非常に発達しました。

その理由のひとつに、
時間を光の移動距離で表現できるようになったこと
が挙げられます。

それまで上下、左右、奥行き の三次元の空間に、
プラスアルファ
時間というものが考えられていたものが、
時間を光の速度で測定することで、
四次元の世界で計算することができるようになった。

そのため、物理学は科学のひとつの 『理想形』 として、
今日のような発達を遂げたと言っても、過言ではない気がします。


僕は物理学には疎く、浅薄な知識しかありませんので、
試しに後輩のTさん(PTさん)にこのことを尋ねてみました
(休憩時間中に申し訳なかったが)。

彼の説明によれば、四つ目の次元を時間とする場合もあるが、
それは必ずしも時間でなくてもよく、 
『光の速度で測定できるもの』
 であることが多いとのことでした。

そうならば、四つ目の次元を時間と仮定することも、
可能であるということになりそうです。


上下、左右、奥行きは、一言で言えば空間のことです。

それぞれの軸は、個々においては直線です。

そこに時間軸という新たな軸を加えるということは、
時間さえも空間と同次元で表現できることを意味し、
その中で時間を連続体として、結び付けることも可能である、ということです。

これによって、

①時間は空間の移動距離で測定できるということと、
②時間は、過去、現在、未来という直線的な表現が可能である


という、二つの認識が一般に広く浸透していったと思うのです。


しかしこれは、果たして正しいのか

いや、正しいのかというより、
僕らの共通の基礎認識として、
万人に等しく通用するだけの汎用性を持っているのか
というのが僕の問いです。

と、いうのも、作業療法で例えば貼り絵なんかを利用者さんと一緒にやっていると、

『あれ、もうこんな時間?まだちょっとしか貼ってないよ、先生。
もう少し貼らせてよ。』

という反応に出会うことがあります。

逆に、同じ20分でも 
『先生、もう5mも歩いたよ。今日はこれで勘弁して。』 
という反応に出会うこともあります。

楽しい時間速く過ぎ去り苦しい時間長く感じる
というのが人としての常識的な感覚です。

(つづきは次回で...。)
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by hiro-ito55 | 2011-06-20 22:14 | 作業療法 | Comments(0)
昨日の記事 『村上春樹のスピーチ』 の最後の部分に、
彼の言う 『倫理』 『精神性』 とは、
具体的には 『自分の行動に責任を持つ』 ということじゃないか、
とチョロッと書きました。

その 『自分の行動に責任を持つ』 ことの出発点は、一体どうすればよいかについて、僕なりの解釈を付け足してみます。

今回は、当たり前のことについて細かく言語化したため、
やや観念的で、蛇足的な付け足しになっています。
ですので、できるだけさらっと読みましょう



自分の行動に責任をもつということを、僕なりに考えてみると、
それは恐らく 『問う』 という行為で、
その問いの仕方に遡って考えてみることができます。 

問いの仕方とは、言ってみれば 『自分流に問う』 ということです。

自分流に問うということは、むやみやたらに世間の中に答えを探すことじゃあなく
まずは自分の頭を、働かすということです。


世間一般で正しいと認められていること、例えば 『効率優先』 ならば、
それは僕らの行動基準として、果たしてそんなに正しいことなのかどうか、
それを自問するところから、始めてみるのです。

自分流に問うということは、みんなが正しいというからそうなんだと、
それを知ってまず認めることじゃない。

そんなものは問でも何でもない。

世間で認められたものを信じることは、とても簡単です。
みんなそれに従っちゃえばいいだけの話ですから。
しかもそうすれば、世間は自分を認めてくれるものです。

こんななことはない。
だけど誰も責任をとらない

責任がないのは、認めたのは自分ではなく、世間だからです。
世間とは実体のない概念です。

だから 『効率優先』 も、それが齎す結果が実は間違っていたとき
そう分かったときに、
理屈では世間が責任を取らなければどうしようもないのだが、

実体のない概念が、本当に責任など取れるわけがないでしょう

もし、世間というものが責任を取れるとしたら、
結局それは、一人一人が自分のできることを果たしていく
その集合体の形でしか、現れようのないものです。

だから世間で認められたものを信じる前に、自分で問うしかない

とりあえず、自分ひとりでもいいから、まずは考えてみる。
自分流に問うてみる。

それが例え間違っていようと、
そのとき自分の頭は確かに働いています。

そうして自分の頭を働かせておいて、
この考えが世間と果たして解離しているものなのか、
独りよがりでないか、非常識なものでないのか、

その確認の作業で、
科学や世間というものと照らし合わせてみればよいのです。

世間の考えとあまりにもかけ離れていれば、
そこで反省すればよいのです。

そのように考えれば、
自分の行動に責任を持つということはつまり、
世間の中に答えを探すことと、自分流に考えることの、順逆を間違えない
ということなのです。


このことに注意深く配慮する人はまた、
何処何処の名のある教授が立証し、
論拠づけたものであるから正しいだとか、
自分の外部に積極的にその正当性を求めたりはしない。

自分流に考えるということは、責任ある信念です。

それは、自分の行動に責任を持つということと同じなのです。

自分の外部に積極的に正当性を求めることは、
責任を自分から離してしまうということです。

だから、順逆を間違えてはいけないのです。
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by hiro-ito55 | 2011-06-15 23:36 | 哲学・考え方 | Comments(0)

村上春樹のスピーチ

去る9日、カタルーニャ国際賞授賞式での、
作家村上春樹さんの受賞スピーチが話題を呼んでいるそうです。

『非現実的な夢想家として』 と題されたその内容が、
賛否両論をよんでいるのです。

それは、どんなスピーチだったのか、僕も興味があり全文を読みました。


みなさんもご存じだと思いますが、
内容は、今回の東日本大震災について触れたスピーチで、
その中で、村上さんは福島の原発事故についても触れており、
今回の事故で
効率を最優先に考えてきた日本の社会というものへの反省
を促しています。

そして、この内容が賛否両論を呼んでいます。


我々は、世界で唯一の核被爆国であるにも拘らず、
原子力という核を基にしたエネルギーの平和利用を推し進めてきた。

それは、国民の生活を賄うエネルギーとして、最も効率の良いものであったからです。

しかし、今回の福島の原発事故によって、
原子力エネルギーに頼ってきた我々の生活は
深刻に脅かされる事態となりました。


 村上さんのスピーチを読み終えて僕が思ったのは、
効率というのは、一種のイデオロギーなのではないか
ということです。
そして、そのイデオロギーは、恐らく科学でしょう。

科学は、ものとものとの関係性、
つまり法則を見つけ出すことにおいては、真に有効です。

何故、法則を見つけ出そうとするのか。
それは、我々の生活をより効率的なものに変換するためです。

そのために、科学は僕らの認識を、生活を、
計量化できる世界に押し込めてしまった

本来、僕らの生活や認識というものは、とてもメンドクサイものです。
人それぞれに生活があり、ものの捉え方というものがある。

しかしそれを、効率的なものに変換すれば、
とても快適な生活が待っているのではないか。

そのように考えたとき、科学というものが大変便利だった。

例えば、洗濯機を使えば衣服の手洗いの仕事からは解放される。
じゃあ、洗濯機を動かすには電気がいるから、
みんながみんな、洗濯機を使い始めれば、
当然電気を効率的に賄わなければならなくなる

そして、その電気どこから作るのが一番効率がいいかと考えれば、
原子力ということになる。


そのように考えれば、例えば電気自動車というものも、
もう一度考え直さなければダメかもしれません。

僕らは、電気自動車はエコだと言われれば、それに飛びつきます。
けれど、その電気自動車の電気を作るのは、原子力だということは、
あまり考えないし、世間でもほとんどアナウンスされません。

エコという言葉に全て隠されてしまいます。

そのように考えれば、
エコというのも現代のイデオロギーの変種かもしれません。

エコであれば、それが最も効率的なエネルギーの使い方であるという、
科学的観点の産物なのでしょうから。


そして、効率というものを考えたとき、僕にとってもっと身近な例は、
例えば作業療法です。

効率の問題は作業療法も例外ではありません。

医療の世界においても、現在EBMという言葉が盛んに使われています。
理由は、EBMとして基礎づければ、
医療を行う上でそれが最も効率がよいと思えるからです。

昨今、声高に言われているのは、
科学的でなければ医療ではない。
作業療法ではない。

といった言葉です。

でも、果たしてそうなのでしょうか

その前に、
それは人の行動や精神というものの法則を見つけ出す、
計量化できるものだけを扱っただけの我々の、
効率化された浅薄な考えに過ぎないのではないか
と、どうして疑わないのか。

これは科学的な論拠同士の間で取り交わされる、
そのようなレヴェルの疑いではなく、
それら科学的論拠全てが立脚している本質的な部分への疑いです。

もし、そのような疑いさえもタブーならば、
科学的医療というものは、立派なイデオロギーであることの
何よりの証拠なのではないか、

僕個人としてはそこまで考えてしまいます。


科学的医療というものも、
一種の効率化を目指したものに違いありませんが、
けれども同時に、医療を行なう上でそれはそれで必要なものだということもまた、
歴然とした事実です。

医療におけるその必要性は、
今の僕らの生活の細かい部分までが、
科学という方法でも支えられていることと同じだからです。

しかし、
効率も行き過ぎると、誰も責任を取れなくなるのではないか
とは思います。

例えば、患者さんがリハビリをしてもなかなか歩けないのは、
その方法が科学的に正しくないからだと、

つまり、非効率的な方法であったのではないかと、
原因を科学という効率的方法論から来る外部の問題
それのみに置き換えてしまう危険性があるように感じます。

だから、誰も責任を取らなくなる。
科学に責任を押し付ける。
そして、科学で解決しようとする。

しかし恐らく、問題はもっと根源的なところにあるのです。

その根源的なものを、
村上春樹さんは 『倫理』 『精神性』 といった
彼独特の言葉で表現しているのではないでしょうか。


村上春樹さんの今回のスピーチは、
効率を最優先にする僕らの生活の仕方、

もっと言えば、
一元論的な社会の在り方に対する警鐘、
科学的・効率的に偏りすぎたものの考え方や仕事の仕方、

そういった僕らの人生に関わる全般の、根本的な認識の変革を促しています。

ならば、それは、
僕らが自分の行動に責任を持てることを、促しているのかもしれません

スピーチは、全体としては社会システムの本質を問う、
スケールの大きな内容でしたが、
それは彼の言うように 『非現実的』 で 『夢想的』 なものではなく、
もっと具体性を持ったものとして受け取れるのではないか

例えば僕ならば、
少なくとも作業療法士としての自分の行動には責任を持てるようにと、
そのように具体性を持って受け取りました。

これは大変難しいことですが、僕はそのように捉えています。
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by hiro-ito55 | 2011-06-14 01:10 | 社会 | Comments(0)

介護・福祉のビジネス化

 『介護ロボット』 という言葉を聞いたことがあると思います。

介護ロボットと一口で言っても、
先髪ロボット食事介助ロボット歩行介助ロボットなど、
様々なロボットが研究・開発され、臨床的な試験も行われています。

今、この技術が世界中で注目を集めつつあり、市場も拡大しているようです。

実際、福祉先進国と言われているデンマークも、
積極的にこの市場に参入しようとする動きがあり、
日本の技術に注目してわざわざ見学に来られるそうです。

日本でも、この技術の国外への輸出を、
閉塞した経済の新たなビジネスチャンスとして捉え、
積極的に市場に参入しようとする動きもあるようです。



『高福祉社会』 といわれるデンマーク
しかし、国内では高齢社会を支えるために消費税は25%、
2010年現在で総人口の20%あまりを、65歳以上の高齢者が占めています。

そして、日本と同じでこれからも高齢者の比率は増加し、
福祉現場の人員不足と国民の負担は、増加し続けるものと予想されています。

このような現状を打破するために、注目されているのが、
介護ロボットに代表されるような『サイエンステクノロジー』です。

実際、認知症のお年寄りにリアルな動きをするネコのロボットを宛がったところ、
認知症の薬がほとんど必要なくなった、
という臨床報告も挙がっているそうです。


テクノロジーといえば、車椅子スライドボードなどもテクノロジーですが、
介護ロボットなどはこのような技術とは一線を画すもので、
サービスそれ自体を技術化しようとする、そのような技術です。

このような技術を普及させるための、そのための市場の掘り起しが、
世界規模で進みつつあります。

日本としては、経済の閉塞感を打破する新たなビジネス展開の場として、
介護・福祉サービスに狙いをつけ、
これを大規模に市場化していこうという動きが始まっています。

このような流れはこれからもどんどん加速していくでしょうし、
そのような動きもあっていいとは思います。

飽く迄、程度の問題でもあると思うので、
どこまでなら許容範囲であるのかは、真に微妙な問題ですが、

ただ、個人的な感想を述べさせていただけば、
介護や福祉の分野を、
あまりビジネスワードで語ったり、テクノロジーで括ったりしてほしくはない
(ちょっと今回は 『です・ます』口調はやめますね。)


まず、サイエンステクノロジーの大規模な導入が、
介護現場や国民の負担を軽減してくれるという期待は、
希望的観測の類である ということは申し上げておきたい。

それは、例えば一般的な企業をひとつ想像していただけると良いと思う。

例えば、機械化の導入で自動車から食器に至るまで、
大量に物を生産できるようになった。

確かに物は大量に作ることができる
しかしその分、生産に携わる人の労働は確実に減ったのである。

これが、物の生産という労働に限定されたものであればまだよいが、
機械化がサービスの分野にまで及べば、
サービスに携わっている人の労働も確実に減るのである。

そのくらいの計算は小学生にだってできる。

つまり、僕らの負担を減らし
人間を重労働から解放し、
にしてくれると期待されたサービステクノロジーは、

行き過ぎれば労働賃金の低下や、
僕らから労働の機会さえも奪うことに繋がるのは、
自明のことのような気がしてならない、
と申し上げたいのである。

物の生産大規模機械化して、
それでも賃金のアップ
雇用確保のために新たな人員を雇い続けようとして、

出口の見えない慢性的な不況に陥っている状況が、
今の日本の現状ではないのか。

それなのにそれを、福祉や介護の現場にも当て嵌めようというのだろうか。

これでは、経済や雇用問題の解決どころではないし、
何か暗澹たる思いに囚われてしまう。


そして、もうひとつは、
介護・福祉の世界をサイエンステクノロジーの枠で括ったり、
大規模なビジネス化を目指そうとしたりしている方々は、
一般企業でのサービスと、介護、福祉現場におけるサービスが、 
質的に異なる ということに気付いておられるのか、
ということである。

一般企業 (この際、家電量販店でも、ケイタイショップでもいいけど) 
におけるサービスは、
お客様の財布から如何に当店で、気持ちよくお金を(たくさん)出させるか、
あわよくばリピーターとなって繰り返しお金を払っていただけるか

がその主目的であり、そのためのサービス行使である。

だから、 『お辞儀は斜め45度まで』 なんていうマニュアルもあるし、
ひたすら 
『本日のお買い上げ、誠にありがとうございました!』 
と叫び続ける新入社員研修もあるのである。

全ては、お客様により多くのお金を出して頂くためである。

何もそれが、悪いと申し上げているのではない。
『そういうもの』 なのである。

けれど、
介護・福祉のサービスは、
お客様の財布の紐を緩めていただくためのものではない


相手を人間として尊重しているか、
つまり人間同士の最低限のマナーの問題なのである。

そこには 『この人にはちょっと気に入ってもらいたいな』 
という下心ぐらいは存在するかもしれないが、
僕らのサービスが、マネーによる対価の発現や等価交換という、
ギャランティーの場を、本質的に内包していないことだけは確かである。

それは、販売店で見られる 『うちで商品買ってもらえばそれでいい。』 
という、良くも悪くもドライなものではなく、
もっと 『人間臭いもの』 の筈である。

介護・福祉の世界をビジネスワードで語ったり、
サイエンステクノロジーで括ったりすれば、
この人間臭さというものはほとんど必要ではなくなり、
何か別のものに変質させられてしまうでしょう。

そのような姿が、介護や福祉と呼べるものなのか、
或いは介護・福祉の本質と、果たして相容れるものなのか、
よくよく考えてみなければならないのではないのか、

そのように思う。


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by hiro-ito55 | 2011-06-08 22:59 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)
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 目的によって知覚を限定し制御する、そのような知覚を支配するのは、
こちら側の意志です。

 ひとつのものを徹底的に見ようとすれば、意志とは関係なく、
Henri-Louis Bergsonの言葉を借りれば、
そこには知覚の拡大深化の道があるだけです。

 このような道を突き詰めれば、
見ることが感ずることと一緒になる 『観』 の道があるのかもしれませんが、
前回述べたような自然の美しさを感じる経験を、
芸術家が感じるような特別な経験ではなく、

僕らの日常経験として、どこにでも転がっている経験であるという、
そういう 『知覚の方法』 として捉えれば、

僕らはただ、そのような知覚の仕方で、ものを見ていないだけではないか
という反省に行き着きます。

 この反省は同時に、
知覚に使役される自分自身への、内省の眼を鋭く自覚させるものです。

 内省は人を沈黙させます。

 美を前にしたときの沈黙は、
自分の目的に沿って明晰化された 『合理的知覚』 ではなく、
云わば、自分の意志ではどうにもならない知覚に襲われたときの、
人間の正常な反応を示すものであり、

この沈黙を現代人は恐れているのかもしれません。


 美しいものを前にして、殊更ああだこうだと批評したがるのは、
合理的知覚を使役するからなのでしょう。

 僕らの日常において、
沈黙するということが何か良くないイメージとして捉えられるのは、
合理的な知覚を殊更、重宝しているからでしょうが、

美しいものや景色を前にしたときの沈黙という、
人間の正常な反応を示す経験は、
紛れもなく僕らの日常感覚でもあるのです。

 ならば、花の魅力に魅せられて、花を描きつづける画家は、
この沈黙ひたすら耐えようとする日常人の姿であり、
その絵を前にしたときの僕らの沈黙は、
彼の知覚を我がものにしようとする、そういう 『出会い』 でもある筈です。





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by hiro-ito55 | 2011-06-03 18:54 | 美意識 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


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